この土日も、ちゃんと散歩に行きました。でも、たいていはヘロヘロで、スピードも遅く、よたよた歩いていました。
そういえば、今夜も少し歩きましたけど、今夜はもう確信犯で、酔っているからヨタヨタで、星を見上げればめまいがしました。何ということでしょう。ヤバイですよ。でも、まあ、いつものことだからと、あまり気にしてないけど、それなりにヤバイです。まあ、酔ってなくても、フラフラ歩くのは同じかな。
日曜の夕方だったか、田んぼの横を歩いていました。フワフワしている草があって、「これはエノコログサ?」と妻に訊いてみたら、そうではなくて、「これはチガヤというんだよ。ふさふさしている下の方に甘いところがあって、吸ったことがある」ということでした。
なんとまあ、うちの奥さんって、ワイルドだったんですね。ワイルドで、エネルギッシュだったみたい。道ばたにある草とか何でも、むしってちぎって、何かの遊びをしていたそうです。彼女に教えてくれた人って、いるんだろうな。まわりの子らかなあ。
いろいろ教えてもらうんだけど、たいていは忘れてしまって、ただ不思議なことしてたんだなあと感心ばかりするんでした。
このチガヤというのも、エノコログサみたいなんだけど、季節が違うそうです。そういう違いをちゃんと自分の作品に織り込めたらいいんだけど、なかなか精進が足りなくて、何でもあれこれ混じってしまいます。
今盛りなのはチガヤというんですね。ところによっては地面からたくさんのシッポが生えていて、風に吹かれて一緒に揺れてたりすると、おもしろいなあとか思うんだけど、田んぼの管理をする人からすると、邪魔な雑草ということで、場所によっては切り倒されているところもあるようでした。
ボサボサがいいのか、きれいに切り倒されているのがいいのか、そりゃ、きれいなのはあっさりしているだろうけど、ある程度のバランスを見ながら、あってもいいもんだったらそのままにしてもらえると、私なんかからすると、少しホッとします。
さて、あっちこっちで刈り取られている麦畑、今日の夕方でもまだ残ってましたけど、明日も刈り取られるだろうし、水曜は雨だから、その前に、というところもあるでしょうか。
麦畑を見ていて、ふと思い出しました。あるフレーズです。
「一粒の麦もし死なずば」という言葉。本の題名?
調べてみたら、アンドレ・ジッドの作品で、いろんなことを暴露した、名前も伏せて出された作品集だったそうです。どれだけ刺激的な内容なのか、見たいけれど、残念ながらうちにはありませんでした。ジッドさんの本、一冊くらいあるかと思ったんだけどな。
一度は読みたいと思ってた『狭き門』、これくらいうちにあってもよさそうなものなのに、モーパッサンとか、ドーテとか読んでるうちに手が回らなくなって、本も買わないでしまったようです。スタンダールだって、うちにはあるけど、もう何十年も挫折して手つかずのままです。
キリストさまのことばで、「一粒の麦 地に落ちて死なずば ただ一つにあらん。もし死なば、多くの実を結ぶべし」ヨハネ伝
というのがあるそうです。でも、キリストさまの真意が今にわかに分からなくなりました。収穫されたひとつぶの麦が地面にまかれ、それが大きくなって穂をつけていくこと、それは一粒にとっての死だったんだろうか。
キリストさまは、違う意味でというか、もっと別のニュアンスで言われたのではないのか、それとも、死はそんなに忌避すべきものではなくて、いろんな生のための一歩なのだという意味の「死」なんだろうか。
全く何も知らない私なんかが云々することではありません。
ただ、麦はかくしてたくさんの穂をつけて、私たちの地面をにぎやかにさせてくれている。
お米も、同じように黄金色の大地を作ってはくれるんだけど、そのありがたみはあまりに日常的というのか、大変だから見てみぬふりをしているというのか、その意味をあまり考えていないところがありました。
同じことなんだけど、麦の秋の今、ジッドさんという作家さんがいたなあ、なんていうのを思い出しました。今度チャンスがあったら、新潮文庫の『一粒の麦』を古本市なんかで探したいと思いました。