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戦艦大和の最期も、誇れるものではなかった。

2022年07月17日 10時39分09秒 | 戦争と平和

 島尾敏雄さんと吉田満さんの『特攻体験と戦後』(1981中公文庫)を読んでいます。本そのものは、2014年に新版が出てその年の夏に買いました。例によって8年間家で熟成させたわけです。新品でピカピカですけど、語られてる言葉は1977年の6月の対話だったようです。

 それを今改めて聞かせてもらっています。中央公論社が企画したものらしく、6月6日に、鹿児島県の指宿のはずれの宿でお二人は向き合い、話をすることになったそうです。でも、たぶん、そこから何回か話し合いは持たれて、それが翌年に刊行され、79年には吉田さんは亡くなってしまいます。

 最後のチャンスに、どうにか二人の戦争体験をした作家は語り合うことができたようです。

 島尾敏雄さんは、1917年生まれで、1943年9月に海軍兵科第三期予備学生、翌年には第十八震洋隊指揮官として奄美諸島の加計呂麻島配属になります。そのままずっと加計呂麻島で過ごし、そこで敗戦を迎えます。

 吉田満さんは、1923年生まれで、1944年学徒出陣により2月、海軍兵科第四期予備学生、12月海軍少尉に任官し、戦艦大和にレーダー士として乗り組み、1945年の4月、大和による特攻にも参加、三千何人のもの乗組員のほとんどが戦死した中で生き残り、7月からは高知県須崎の人間魚雷基地に勤務になって、敗戦を迎えたということでした。吉田さんは『戦艦大和ノ最期』というカタカナ書きの作品を残し、それが70年代の高校の教科書には載ってたと思います。授業で取り上げられ、私たちも読んだということはありませんでしたけど、見たことはありました。

 そのお二人が、中央公論社の企画で対談した。吉田さんのところから抜き書きしてみます。

 わたしはね、大和で沈んで帰ってから、初めは、やっぱり自分は一戦さしてきたんだという、誇るような、傲(おご)るような気分が確かにあったんですけども、呉の町(現場復帰するために本部に戻って来たようです)を夜歩いていると、向こうから女子挺身隊員(ていしんたいいん)がね、夜勤の交替でしょう、こっちへ歩いてくる。

 そうすると、「歩調取れ」で、わたしに敬礼するんですね。その時に、こう、自分の顔が痙攣(けいれん)するような感じがしました。つまりね、大和の出撃のような、ああいう劇的な舞台装置で、実験的なものものしさで、大きな集団で、しかもなにかそこに旗印があるわけでしょう。そういう経験とね、挺身隊の女子学生たちは、とにかく非常に危険な中を、そうやって工場勤務にかよってくる、何か大変申し訳ないような気がした。

 吉田さんは、サボっていたのではなくて、たまたま九死に一生を得て、東シナ海から広島の呉(海軍の町)に戻ってきていました。すぐに勤務するところを求め、相談に行って、今は待機の身でした。

 けれども、最先端だけが死と隣り合わせなのではなくて、こうした日常の女子学生たちにも、いつ空襲がやって来るのかわからない状況になっていた。だから、なおさら、吉田さんは、早く新しい勤務先を決めてもらいたいと思っていました。


 それから、休暇をもらって東京へ帰りましたら、ちょうど三月十日の空襲のあとで、わたし、友だちが下町の方にいたもんですから、深川の方に。その連中がずいぶん死んでいるんですね。それで、われわれのような華々しい特攻の体験は、死の体験としては、むしろはっきりしているだけにですね、受け入れやすいんじゃないか。

 たとえば、あの空襲の中で逃げまどって、つまりあらゆる選択の余地があって、いろんな可能性を判断しながら、しかもまわりには親きょうだいがいて、そういうことを考えますとね、とても自分の経験などは、誇りにしちゃいかん、という気持ちになったのが正直なところでした。

 ものすごい戦場での死、というものも、戦場でないところの死も、戦争での死においては変わりはないし、体験を誇るべきものではないし、たくさんの人々の逃げまどったことの恐ろしさに思い至った、というところでしょうか。

 そう、生意気なんですけど、戦争の体験を自慢してはいけないですね。戦争という場では、すべてが死と隣り合わせで、生きることに意味があるのであって、死んでしまったら、それは何にもならない。でも、今も仕方なく戦っている人たちがいるけれど、それをストップさせる知恵、どこかにないものでしょうか。

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