年末の29日、朝、とうとう私は臼杵の石仏の里にたどり着きました。地図で見たら、臼杵の駅からすぐそこなのに、バスに乗ってみたら、簡単な距離ではありませんでした。前日に6キロという標示がありましたが、市街地からずっと郊外へつづく道路を抜けてやっと石仏さんたちにお会いできるところまで来ました。郊外なので片側二車線になっています。臼杵の街中へ通勤する人のためなのか、どこかへつながる幹線道路なのか、その辺の事情はよくわかりません。とにかく、道路は一本道で広いのです。迷いようはありません。クルマで来たら、すぐにたどり着けそうなところにありました。
入場券受付は閉まっていました。おかしい。ネットでは6時からとあったのに、どういうことなんでしょう。
とにかく、もう少し奥に向かってみます。幹線道路から突然山に囲まれた谷間に入り込んでいます。この周囲の山々が、摩崖仏を彫るのに適当な岩肌があったでしょうし、これくらい入り組んだところなら、そこが仏の里として機能することもできたでしょう。
あとで気づいたことですが、この谷間のへこんだところは、ハスの池になったり、石仏の谷の向かい側にはお寺があって、そこにも石仏関連の石像のようなものがあったみたいです。
人々は、ここにお参りに来て、お釈迦様、大日如来様、お地蔵様、観音様、いろんな仏さまに接することができたんでしょう。そして、仏だけではなくて、ちゃんと神仏混交の両輪である神社も、ちゃんと用意されているお祈りのテーマパークになっていたのです。
平安末期から鎌倉にかけて、関西では鎌倉と都の政治的な対立があったはずですが、九州では、政治的な対立よりも、人々がいかに救済されるか? 西芳浄土とはどんなところか? 都では、貴族だけが阿弥陀様のご加護を受けるような話を聞くけれど、こちらでは、とにかくいろんな仏様を自分たちの目の前に表現してもらって、その具体的なお姿に祈りを捧げたい。
そんな素朴な願いを、形に変えることに取り組んだ人たちがいたのです。
大陸から来た人たちだったのか、都から流れてきた人なのか、それとも、鎌倉のころには、お坊さんが都にとどまらず、日本国内に悟りを得られるところを求めて、歩き回ったはずですから、たまたまその人たちが仏の里を作ったのか、いろんな力が結集されて、岩壁に仏さまたちは彫られました。それから千年近くの歳月が経過して、つい何十年か前までは、仏さまたちの足元は崩れてしまい、大事なお顔も胴体から外れてしまったり、風雨にさらされてズタズタになっていたようです。
それをごく最近になって、お顔をお戻ししたり、仏さまたちを覆う建物を作ったりする修復作業が施されたそうです。そして、仏さまたちは本来の形ではないけど、とりあえず、現代の私たちがお寺で仏像様を拝むことを受け入れられるようになってきたのでした。
だあれもいない谷に、仏さまたちをお守りする建物が見えます。とても静かな時間です。後から来る人もいません。私一人です。
写真を撮ってもいいのかな。撮影禁止とはなっていないようです。けれども寒くて、カメラを開いたら、「もう電池がありません」というではありませんか。
まさか、前の晩ずっと充電したはずなのに、この時のために私の旅があるというのに、最大の山場で、このピンチとは! とりあえず、最低限の時間で撮れるだけ撮らなくてはならない。そして、静かにお祈りさせてもらわなくてはいけないのです。
ホキ(崖という意味のことばだそうです)石仏第二群は建物の工事中で、今回は全く見られません。その奥のホキ石仏第一群からお参りさせてもらわなくては!
そして、とうとうその石仏群を前にすることができた。ずっと私一人しかいないし、冬の朝なのでとても寒い。息をしているだけで、白い息は私のまわりに広がります。そうして白い息を吐くのも申し訳ないくらいに、仏さまたちは穏やかで何も言わないで、屋根の下に寄り添っておられました。
一番下から、地蔵十王像がありました。
四つのグループのうち、こちらは一番下の壁面にあったので、三番目に見せてもらったのだけれど、この十いくつの仏さまたちは、等身大で、みなさんが人間的な気配がして、とてもリアルな感じがしました。阿弥陀様とか、大日如来様というのは、もう人間界を越えた特別な存在なのに、こちらの仏さまたちは、やけにリアルな、人としての息吹きみたいなのが感じられて、「ああ、みなさん、こんなところでずっと千年くらい風雨にさらされながら、人々の暮らしを見てこられたのですね」みたいな敬虔な気持ちになりました。少し感動したんです。
それから改めて、その上の段の如来様たち、
正面になる阿弥陀様たち、
左端の如来様たち、
それぞれを改めてお参りさせていただきました。とても優しい、穏やかな気分でした。そして、外気はそのまんまの寒さで私の存在を突き付けてきます。
私は年末のこんな時期に、ひとりで石仏様たちに向き合いに来た。とりあえず、お祈りはしている。でも、そこから何が生まれるのか。それは分からないし、どんなにさわやかな気分になれたとしても、すぐにヨタヨタするでしょう。でも、今、とりあえず私は、ありがたい気持ちになれていた。
あと2つ、仏さまたちが待っておられるし、ダメな人間の私でも、何かは感じ取れるかもしれないと、第一群の仏さまたちとは、とても名残惜しいけれど、次に行かせてもらうことにしたんです。