18キップで九州をめぐるのに、あれこれ検索していて、不思議なカベがあるのを何となく気づいていました。昔みたいにぶ厚い時刻表を開けていたら、すぐに分かったと思うのですが、時刻表は持ってなくて、もっぱらヤフーの路線情報を信用して、その通りに動くようにしていました。
だから、どうしても時間が止まってしまうところが、大分県の佐伯市と宮崎県の延岡市との間にあるようでした。スンナリ行き来できないのです。特急に乗ればすぐに解決するようですが、それでは18キップの意味がないし、ぜひ普通でと検索すると、止まってしまう。
もう臼杵と延岡の間だけ、特急のキップを買って進むしかないと前日に決めていました。
そうなると、10時過ぎの特急に乗るのがベストでした。となると、その前には臼杵駅に戻らなくてはなりませんでした。
8時前に石仏の里にたどり着き、ずっとひとりで仏さまたちに向き合わせてもらい、仕合せな時間を過ごして、時間は8時半くらいだったんだろうか。もうそれは忘れてしまいました。
臼杵駅に向かうバスは? それは調べてなかった。いつでもあるだろうという、いつものいい加減さで見てみたら、9時半くらいまでないようでした。1時間ほど、カメラも持たず、あたりを散策するのか、いや、それよりもそのバスに乗って、10時の特急に間に合うのか、駅に着いたらすぐに特急に乗るのか。朝、こちらに来る時に見た臼杵の町は見られなくなるけど、それはいいのか?
市街地までは単調な一本道だけど、そこを歩くのか? 郊外型のお店ばかりでつまらないと思えるけれど、あえて挑戦するのか?
そうです。こういう時に私は、歩いてしまうのです。6キロなんて、たかが知れています。1時間と少し歩けば駅まで着いてしまう。ついでに市街地観光だってできてしまう。だったら、せっかく石仏さんたちのお力をもらったのだし、しあわせなんだから、歩いてみようと、もう道路の方に進んでいました。
石仏の里のお寺、ハスの池、その他は今度また来る時があるからと言い訳して、朝チラッと見た鳥居に向かってみました。何かご由緒のありそうな、田んぼの中にポツンとある鳥居でした。
ネットでは、ヒガンバナが咲いていたり、みどりの水田の中の鳥居みたいなのがあります。でも、私が見させてもらった鳥居は、市の文化財という標識がウソみたいな、放置されたままの鳥居で、雑草がいっぱいだし、ここをくぐろうとしても道がありませんでした。
荒れているのか、あえて放置しているのか、廃墟の美というのか、観光客だって見向きもしないような、つまらない鳥居に見えます。
でも、きっと昔の人々には、ここから石仏の里ですよ、というのを示す、ありがたい世界の入口だったのではないか、そんな風情もあるようでした。それを今の私たちは何とも思わなくなっている。むしろ、簡単に駐車場にクルマを止めて、サッと石仏を観光して、次のところへ行こうとなるはずです。
臼杵に来たとしても、次はどこに行けばいいんだろう。すぐに別府の方に行くのか、それとも山を越えて阿蘇の方へ行くのか、わざわざメインルートを外れてきたけれど、何だこのみすぼらしさは、とか思わないだろうか。
今の流れだと、みんな何とも気に留めない、ひっかかるところのない鳥居のようです。でも、徒歩で駅まで帰ろうとする私には、石仏の里を出ていくんだなと見送ってくれるような、そんな有り難さも感じられました。
さあ、山間部から流れる臼杵川に沿って歩いて、河口に広がった臼杵の市街地まで歩かなくてはなりません。片側二車線の幹線道路みたいな道は、そんなに走る車もなくて、排気ガスもあまり気になりません。それに私が歩いていたのは年末のお昼でした。もう流通業のトラックなどは出ていっているだろうし、乗用車が家の買い出しなどで買い物に出ているくらいで、営業の車・観光バスなどいなかったのです。
なだらかな山並み、静かに流れる川、ときどき幹線道路に入り込んでくる道との交差点、臼杵に唯一存在する温泉地とホテルの入口、ビデオやさん、安売り店、ビジネスホテル、各種チェーン店などを横目に見つつ、歩きます。今回の旅行のために久々に下駄箱から取り出してきたA社のスニーカーは、まあまあの歩き心地ではあったのが、この時、なんと靴底のゴムが先端から少しずつはがれていきました。もう面倒で、それを引きちぎりながら、やみくもに歩いていました。
トイレを借りに立ち寄った地元系のスーパー、ここでお気に入りの高菜オニギリとツナオニギリ、熊本ミカンが特売で298円、これは特急の中で食べようと決めて、まっすぐ先に見える市街地に向かって行きました。
川幅が広くなるところで、道路も市街地も少しだけカーブして、昨日は西日の下に見えていた町の中へ入っていきました。
臼杵の町は、フンドーキンさんと、大友宗麟が築城したお城と、野上弥生子さんと、蔵の街だったそうです。お城は、最初に築かれたときには川の中州の小山に作られたそうで、そこにたどりつくには船しかなかったそうです。潮が引くと道はできるけれど、本来はモン・サンミッシェルのようなところにあった。それが数百年の間に埋め立てられて、今ではお城だけが町の中に浮き上がっているようですが、それらの町は後から作られてきたものだったそうです。
大友家が没落して、新しい城主の稲葉家が城下町建設に力を注いだんでしょう。
昨日、駅周辺だけしか見られなくて、全くお店や人の気配のない町だと思ったのは、町の裏っかわしか見ていなかっただけで、お城の向こう側に、すべてが隠されていました。
フンドーキンさんの工場は、臼杵川の中之島に細長く作られていました。その対岸に商家がたくさんあって、醸造蔵などもあったようです。
お寺だって、珍しい三重塔もありました。この画像も借り物です。
フンドーキンさんと、野上弥生子さんはつながりがあったみたいで、その縁で記念館もサポートしているみたいだし、時間があれば見に行きたかったけれど、私は駅に急がなくてはなりませんでした。
さあ、駅はすぐそこ、駅に着いたら特急券を買い、大分と宮崎の壁を越えなくてはなりません。今回特急で走っていて、臼杵から、津久見市、佐伯市までは海側を走っていた線路が、そこを過ぎると、ずっとひたすら山を走らなくてはならなくて、それが壁にもなっていて、だれも利用しないような駅があるようで、それを「宗太郎越え」と呼んでたそうで、ネットで調べて、知ることができました。
それより何より、日豊線は、JR九州さんがなんとかするだろうけど、一緒に走っている国道10号線、これはずっと走るクルマがなくて、国土交通省さんはどうするんだろうな、と心配になったりしました。
さあ、どうやら眠らずに延岡に着きました。ここからはまた18キップの人にならなくては! 7時間くらいかけて指宿に向かわなくてはならないのでした。