幹線道路を曲がったところ、石仏の里の目印の鳥居。深田の鳥居というそうで、臼杵市の重要文化財かになっているようでした。立札でもわざわざそんなことが書いてありました。本当は自分のカメラで撮りたかったのに、電池切れで、表紙は借り物です。申し訳ありません。
ホキ石仏第一群ですでに感動の気持ちはいっぱいでした。ああ、それなのに、電池のカラータイマーは切れそうでした。ちゃんと用意したはずだったのに、愛用のカメラは信頼できなくなっています。
そんなことより、もっと素直に拝む気持ちはないのでしょうか。お像を拝するだけで仕合せなのです。でも、スケベー心も私の一部で、それが「せっかくここまで来たのに、写真も撮れないのか」と叫んでしまいます。
いくら写真を撮ったところで、つまらない凡百のものしか撮れないし、仏さまはそんなことを望んでおられない。それも理解できるのです。でも、私も凡人の一人として、仏さまのお姿を写真に撮らせてもらいたい。
意味のある行為とは思えないけど、でも、そういう形でしか関われない私です。一心に拝むとか、お経を唱えるとか、静かにたたずむとか、それだけでいいのに、あれもこれもしたくなります。きれいな写真はネットにたくさんあるでしょう。でも、あえてつまらない私の写真を載せたい。……ただのエゴなんだけど、ネットの世界って、エゴだらけの世界ですから、せいぜい私のエゴもぶつけてみたい。
仕方がない。とにかく、電池の許してくれる限り、私のヘタクソ世界を広げてみましょう。
ホキ石仏第一群の向かいの覆い屋に向かいます。山王山(さんのうざん)石仏という一群です。やさしいお顔の如来坐像がおられます。第一群は、みんな正統派の仏様らしいお顔で、
仏さまのみなさんが「さあ、お祈りしなさい。聞いてあげますよ。私たちはあなたたちが岩壁から彫り出した仏たちです。あなたたちの願いを聞くことから始めたいと思います。」というような、
たくさんの人々の願いを聞き入れるための、いろんな形の仏さまたちでした。だから、地蔵さん、お坊さん、大日如来さん、阿弥陀如来さん、釈迦如来さんなど、いろんなカタチ・お姿でチョコンと座っておられました。
……カメラを向けてすみませんでした。何だか失礼な感じ。
その向かいにある山王山石仏には、三つの仏様がいて、脇のお二人は印象がなかったけれど、真ん中の仏さまは、大きくて、優しそうで、何だか少し穏やか過ぎるんじゃないのという、幼さみたいなのもあって、私たちの心の弱さを体現してくださっているような、先ほどの願いを聞く仏さまたちとは別の立ち位置におられて、
「あなた自身をもう一度見直してみなさい。救いはあなた自身にあるのかもしれないですよ。
大丈夫です。困ったときは私がいます。大きな大きなか弱い私があなたを見守ってあげますから、頑張ってみなさい。」
そう言ってくれてるような仏さまでした。これはこれでありがたい存在です。
こういう仏さまもいてもらわないと、仏さまもあまりのたくさんの願いごとばかりが集まって倒れてしまいます。他力本願だけではなくて、自力本願もなくてはならない。自分で自分の道を切り開くには、やはり自分を信じてやるしかない、そういうものでもあります。
とても有り難い教えをいただいた気分でした。そこから山の方に向かう道があって、日吉社参道とあります。この山の上には小さなお社かあるようです。仏さまと神様が一緒に祈りの世界を作り上げたのが、平安の仏教だったのだと思われます。
仏さまだけがスポットライトを浴びた奈良時代から、ジワジワと神様たちが仏さまと仲良く一緒の世界を作り上げてきた四百年くらいの時代があった。
臼杵石仏の仏さまたちも、庶民なのか、豪族なのか、みんなで仏様をたくさん彫り出して、お祈りしようとした。大分県は、国東半島もそうだけれど、仏教が独自の世界を持ち、全国に広がる八幡神の本拠地もあり、邪馬台国はないけれど、宗教の発信源になったところです。
戦国時代には、大友宗麟というキリシタン大名も現われ、キリスト教の発信基地にもなりました。そういうめぐりあわせなのか、平安時代に、たまたま彫刻しやすい岩壁があって、そこに直接彫ってみることにチャレンジした人々がいたようです。それが現代までずっと細々続いているのだから、それは貴重なものでした。
順番が行ったり来たりですけど、石仏群を二つ見て、山の上の日吉社にもお参りしました。
さあ、一番奥の古園石仏を拝まなくては!
石仏は、鳥居を曲がった向こう側にあります。
仏様が先か、神様が先か、そんなことはどうでもいいことで、神様も仏さまもお祈りすることには変わりはないし、一緒にいたって構わない。そういうふうに私たちはやってきていたのです。それを今さらカリカリ言っても仕方がないのです。それがこの国の信仰の在り方だったのです。そうしてずっと続けてきたカタチだったのです。
電池が切れそうなカメラで撮った古園石仏。臼杵駅で見ていたものとあまり変わりはないかもしれない。でも、レブリカと本物は違っていて、電池も切れてしまったので、ただ正面に立って、お祈りさせてもらうだけになりました。
それで、初めてこの仏さまは修復前までは、頭部だけが胴体の前に置かれて、バラバラのものを拝するしかなかったのだというのを知りました。1980年から14年間の修復工事が行われ、やっと今の形になったそうです。
修復前は、ネットの画像を借りると、こんな形だったそうです。
これでも、お顔があれば、私たちは手を合わせたことでしょう。でも、何だか申し訳なさもあったかもしれない。形あるものは崩れていくし、崩しやすい凝灰岩の岩であれば、風雨にさらされたら、自然と風化していくものではあります。屋根もなかったら、地震があれば、あちらこちら崩れたりもしたでしょう。
古園石仏の真ん中の大日如来さんも、いつしか頭だけが崩れて、下に落ちてしまっていたのを、人々が仕方がないので台座を設けてそれで拝む形にした。それが歴史にさらされるというものだろうし、仏さまも、「それならそれでいいんじゃないの。」と思っておられたかもしれません。
でも、屋根を作って、お顔ももどすことをして差し上げたいというのも素直な気持ちで、1995年に国宝にも指定されたということでした。
それを私は拝ませてもらっていました。2018年の12月末のことでした。
ここまで、だれとも会わず、ただ仏さまたちと私のはんなりした時間が過ぎていきました。
ふと振り返ると、ようやく観光客の皆さんがやってきたようです。
私だけひとり占めさせてもらったので、申し訳ない気持ちと得した気持ちと、有り難い気持ちと、よくぞここまで守ってくれたという感謝の気持ちと、いろいろな気持ちがこんがらがって、石仏の里を去ることにしました。
さあ、帰りのバスは? 確認もせず、石仏に気持ちが行っていて、そんなのどうでもよかったんだけど、さて……。