昨日の古いカードを取り出してから、古いことにあれこれと思いはとらわれてしまっています。たまたま二枚のカードを見つけました。
一つ目、1991年5月末に書いたカードです。
泉陽高校(古くは与謝野晶子さん、新しくは沢口靖子さんの母校)の90周年記念誌からの引用がなされていました。こんな孫引きは絶対にしてはならないと担当教官の先生に指導していただいたのに、ついつい孫引きばかりしています。
職員は午前七時二十五分まで出勤、校長室に入り、御真影に最敬礼、校長に挨拶、出勤簿に捺印。七時三十分のベルで全職員が校長室に集合。校長は神棚の前に立たれ、職員はその後ろに並び、校長と共に神棚に一礼二拍一礼。全員で誓いの言葉を唱えた後、体育館に直行。
これは1944(S19)年ころの話なんだそうです。早くお仕事が始まるんですね。お帰りは何時ごろだったんだろう。今みたいなブラック産業ではなかったのかなあ。
体育館では全校生徒が粛然と整列し、職員の到来を待っていた。体操教師の合図で宮城遥拝(きゅうじょうようはい)、『海行かば』斉唱、校長訓示。
なんていうのが毎日行われていたんでしょうか。第一、1944年ではこの学校、つまり旧制堺高等女学校の生徒たちはまともに勉強できたんだろうか。勤労学生になってなかったのか。まだセーフだったんだろうか。
こんな締め付けられる生活なんてやりたくないけど、まあ、昔も今も似たり寄ったりなことしてるのかもしれないな。
以上、1991.5.3金曜の朝日新聞の「声」の欄からの抜き書きでした。
二つ目は、1988年の6月8日にカードに書いています。出典はどこだったのか不明です。でも、漫画家のサトウサンペイさん(1929~2021)の文章だったようです。
昭和二十年九月某日
さて、私の最も印象的な日、九月のその日、私は何年かぶりに鉛筆とノートを背嚢(はいのう、今でいうリュックみたいなもの)に入れて、焼け跡の中を学校へ向かった。ゲートルを巻かずに歩く足もとがふわふわと頼りなかった。
たぶん16歳だから、旧制中学の四年生だったんだろうか。久しぶりの学校って、どれだけぶりだったのか?
教室は床油のにおいがしていた。机にそっと触れてみる。傷だらけのひどく汚れた机だが、温かくて、柔らかいのである。何年も触れたことのない木の肌触りだ。農夫と土方と工員をやってきた少年たちにはその肌触りが上品過ぎた。なにか照れくさかった。
昔、学校は油引きなるものがありました。私は、小中高と土足のまま学校に入っていたので、昇降口で上履きに替える習慣に違和感がありました。でも、いつの間にかこちらが主流になり、教室に真っ黒の油を引くこともなくなりました。
真っ黒の床に、外をフラフラした後の靴の足型を入れるのが、申し訳ないやら楽しいやら、変な感覚があったのを思い出しますけど、今は学校ってクリーン第一になってるんでしょうね。
黒板に青いポプラの木影が映っていた。先生が教室に入ってきて、戦後第一本目のチョークで文字を書いた。カタカタカタ……その音のなんと軽やかで美しかったことか。白い文字の上に青い木影が揺れる。私は呆然と見とれていた。これが平和というものだな! これが平和というものだな!
先生がどんなことを書かれたのか、それは気になるけど、サトウサンペイさんには、そんなことが目の前で行われていることがうれしかったみたい。
そんな、何かをものすごく感じる時って、あるかなあ。あるのかもしれないけど、それはどんな時だったろうね。