北陸道が通る今庄(いまじょう)の燧ヶ城(ひうちがじょう)は、中世のはじまりからその終焉(しゅうえん)までを見届けた城、だそうです。今庄というくらいだから、越前の国にあったみたいです。
治承4(1180)年以仁王(もちひとおう)、源頼政らが反平氏の狼煙(のろし)をあげると、北陸地方も動乱に巻き込まれたそうです。
寿永元(1182)年、いち早く挙兵した木曽義仲の影響が越前に及ぶ。翌年3月、平氏は総力を挙げ義仲追討軍を編成し、4月に数万の大軍で京都を進発し、二手に別れ越前に進攻した。主力軍は敦賀から木ノ芽峠を越え、別軍は栃ノ木峠を越え今庄に迫った。数万という軍勢はどれくらい勢いがあったのか、最初はそれなりだったみたいです。
これに対し、平泉寺(へいせんじ)の長吏斉命らに越前・加賀の利仁流藤原氏勢力を加えた反平氏軍は、今庄の西方の藤倉山東端の愛宕山(あたごさん 260m)に燧ヶ城を構えた。この地は四方を山に囲まれ、麓は日野川と鹿蒜川が流れる天然の要塞であったそうです。
反平氏方は川をせき止め追討軍の渡河を防ぐ戦術に出たが、平泉寺の長吏斉命らが平氏に内通したため4月27日落城した。
平氏の義仲追討軍は、この後北陸道を北上するも、越中国砺波山の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで敗北、勝利した義仲軍は各地の武士を糾合し破竹の勢いで京に進軍した。
以上ネットから借りてきた燧ケ城情報でした。義仲さんは最初はずっこけるし、裏切りには合うし、ふんだりけったりだったんですね。知らなかった。最初に対戦したのが倶利伽羅峠かと思っていたら、これは第?ラウンドの対決だったのか。
福井から富山西部に退却して、ここで一気に逆転して盛り返し、そのまま京都まで進撃したわけですね。
芭蕉さんは、次のような句を残しています。
義仲の寝覚めの山か月かなし……義仲さんが寝覚めに月をながめた山がここかと思うと、月も悲しげに感じられる。
北陸と縁の深かった芭蕉さんは、こんな作品で義仲さんを偲んでいます。どうして義仲さん好きになったんでしょう。最初は西行さんから入っていって、少しずつ源平の戦いの時代が立体化し、その中で悲運の武将の義仲さんや義経さんに寄り添うようになったんでしょう。
義経さんは、お墓も、亡くなったところもはっきりしなくて、つわものどもが夢のあと、しかなかった。けれども、義仲さんは未亡人が弔ったという伝説と庵があったので、だったら旅する歴史好きの芭蕉さんは、義仲寺についのすみかを見つけたんでしょうか。
今は、とても小さな感じで、街の中に埋もれてしまいそうですけど、とにかく、こんな街中に芭蕉さんは眠ることにした。そりゃ、みんなが行ったり来たりする東海道はさびしくなくていいですね。旅好きの芭蕉さんにはよかったのかもしれない。
治承4(1180)年以仁王(もちひとおう)、源頼政らが反平氏の狼煙(のろし)をあげると、北陸地方も動乱に巻き込まれたそうです。
寿永元(1182)年、いち早く挙兵した木曽義仲の影響が越前に及ぶ。翌年3月、平氏は総力を挙げ義仲追討軍を編成し、4月に数万の大軍で京都を進発し、二手に別れ越前に進攻した。主力軍は敦賀から木ノ芽峠を越え、別軍は栃ノ木峠を越え今庄に迫った。数万という軍勢はどれくらい勢いがあったのか、最初はそれなりだったみたいです。
これに対し、平泉寺(へいせんじ)の長吏斉命らに越前・加賀の利仁流藤原氏勢力を加えた反平氏軍は、今庄の西方の藤倉山東端の愛宕山(あたごさん 260m)に燧ヶ城を構えた。この地は四方を山に囲まれ、麓は日野川と鹿蒜川が流れる天然の要塞であったそうです。
反平氏方は川をせき止め追討軍の渡河を防ぐ戦術に出たが、平泉寺の長吏斉命らが平氏に内通したため4月27日落城した。
平氏の義仲追討軍は、この後北陸道を北上するも、越中国砺波山の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで敗北、勝利した義仲軍は各地の武士を糾合し破竹の勢いで京に進軍した。
以上ネットから借りてきた燧ケ城情報でした。義仲さんは最初はずっこけるし、裏切りには合うし、ふんだりけったりだったんですね。知らなかった。最初に対戦したのが倶利伽羅峠かと思っていたら、これは第?ラウンドの対決だったのか。
福井から富山西部に退却して、ここで一気に逆転して盛り返し、そのまま京都まで進撃したわけですね。
芭蕉さんは、次のような句を残しています。
義仲の寝覚めの山か月かなし……義仲さんが寝覚めに月をながめた山がここかと思うと、月も悲しげに感じられる。
北陸と縁の深かった芭蕉さんは、こんな作品で義仲さんを偲んでいます。どうして義仲さん好きになったんでしょう。最初は西行さんから入っていって、少しずつ源平の戦いの時代が立体化し、その中で悲運の武将の義仲さんや義経さんに寄り添うようになったんでしょう。
義経さんは、お墓も、亡くなったところもはっきりしなくて、つわものどもが夢のあと、しかなかった。けれども、義仲さんは未亡人が弔ったという伝説と庵があったので、だったら旅する歴史好きの芭蕉さんは、義仲寺についのすみかを見つけたんでしょうか。
今は、とても小さな感じで、街の中に埋もれてしまいそうですけど、とにかく、こんな街中に芭蕉さんは眠ることにした。そりゃ、みんなが行ったり来たりする東海道はさびしくなくていいですね。旅好きの芭蕉さんにはよかったのかもしれない。