西に開けた空地がありました。少し前には道沿いに家があったと思うんですけど、どんな家があったのか、もう思い出せなくなっています。
家がなくなったら、その裏には家はまるでなくて、夕方だと西日がサッと差してきます。その広い空地に取り残された赤ポストは、どんなことがあろうとも、私は郵便の番をしてますよ、みなさん、利用してくださいね! と雄弁に立ち尽くしていました。
そのカッコよさ、ああ、これ写真撮らなきゃ! 西日を背中から受けてるのを逆光、横からいろんな角度から撮りたいなと思っていました。
それくらい、カッコいいポストでした。
それが、今日ふと見たら、撤去されていました。土地の関係か、利用しにくかったからか、道沿いで交通量も多いから郵便屋さんにも危険が多かったのか、とにかく、なくなってしまいました。
そういうこと、いつでも、どこでも、あり得ますね。
写真を撮るだけがすべてじゃないから、とりあえず書いておこうと思いました。もう二度とあの勇姿は見ることができません。また、どこかで、そういうカッコいいものを探して来なくちゃ。
木曜の朝、NHKニュースの地方発の特集で、鹿児島の曽於市の特攻をしなかった部隊というのを教えてもらいました。
美濃部正少佐という方が部隊を率いておられた。部隊の名前を「芙蓉部隊」と名乗っていたそうです。勇ましい名前やら、地域の名前やら、いろんな由来でチームの名前は決められていくわけですが、この「芙蓉」というのは、静岡で編成された攻撃部隊だったそうで、富士山にちなんでつけられたということでした。
少佐は飛行機乗りでもあり、若い兵士を夜間の特別攻撃ができるよう指導し、チームとしても成果があったそうです。あちらこちらの戦争にも呼ばれたり、踏みとどまったり、いろいろした(というのはウィキペディア情報でしたね)そうです。
その芙蓉部隊がどうしてニュースに取り上げられたのかというと、曽於市の空港でスタンバイしているということは、当然特攻を求められるはずであったそうです。けれども、美濃部少佐の方針で、特攻計画に反対し、その抗議が受け入れられて、とうとうこの部隊は特攻をせずに済んだ。これはすべて美濃部少佐の功績である、そういう取り上げられ方でした。
朝の時点で、私はそんな上層部の指示を守らなかった隊長がいたのかと感心して、これはメモしなくちゃと思ったんです。
念のためにと、ウィキペディアを調べてみますと、そんなことは書いてないようでした。美濃部少佐自身の発言も矛盾したり、特攻推進の発言もしたり、ものすごく揺れ続けた感じがしました。
そして、私は思うのです。
特攻を拒否するなんて、たぶん、できなかったのではないか。たまたまいろんな事情で、特攻をしなかったり、燃料が足りなくて戻ってきたり、軍としても夜襲専門の飛行機隊というのも残しておきたかったのではないかとか、本当のことはよくわからないし、個人の意見が通る組織ではなかったとは思っています。
特攻のような、自爆攻撃をしても、戦況は何も変わらないと、みんなが思っていたでしょう。でも、わずかながらの抵抗として個々の兵士の命を犠牲にする作戦を上層部は求めたということです。これは確かだと思います。
今も、多少の犠牲は仕方がない、という信じられないような理屈は通されていると思います。一人の命もムダにしないなんて、公式には言うかもしれないけど、裏にはしっかりと、「ここは辛抱してもらおう、私たちには何にもできない。お手上げなんだよ」と思っていること、たくさんあるはずです。
福島の原発事故、北朝鮮の拉致問題、中国との外交ミス、コロナの自宅療養者の皆さんのたくさんの死、すべて見殺しの論理です。
だから、政府は信用できないとは言いません。それなりにはやってくれているんでしょう。でも、どこか本気じゃなくて、犠牲が出ても、いくらかは出るよ、それが国家というものだと思ってるんじゃないかな。
国家はそれでいいですけど、せめてそこに人のあたたかみが欲しいです。どんなに国家の理屈があったとしても、それを運用する政治・行政の人間として、とことんやれるだけはやってもらいたいのです。
それこそが希望です。組織は、組織のために動くものだから、組織を第一にする。人個々を見ない。そんなの当たり前です。ああ、美濃部少佐、歴史に振り回されましたね。どんなことを考えておられたのか、その手記とか、見るチャンスがあれば、見たいんですけど、私は専門家でもないので、戦争は個人の思いを踏みにじるものだというのを胸に刻んでいきます。