作家の森敦さんは、デビューは昭和の初め、そこから長い潜伏期間を経て70年代にカムバックしたんでしょうか。40年くらいのブランクがあったようです。
お父さんもすごい方だったみたいだし、ご本人もえらく勉強したようです。でも、昔の人はこれくらい常識だったような気もするんです。そういう人があちらこちらにいたような気もするんです。
ぼくはまだ幼少のころから三字経、蒙求(もうぎゅう エピソード集)、小学校にはいってからは四書五経の素読に通わせられた。鉄は赤きに錬(きた)えねばならず、親がみずから教えたのでは、甘えが出て錬えにならぬというので、まァ父の弟子といっていい、老人の易者のところに通わされたりしたのである。
おかげで谷崎潤一郎の小説『神竜』に、神童と呼ばれる子どもが黒板にスラスラと漢文を書き下すくだりがでても、べつだん驚きもしなかった。とはいうものの、じつはかえって小学校ではあまりにも易しい授業をバカにして、成績はかえってよくなかったのだが、こうして漢書に親しませることは、父にすれば政治家たるものは、すくなくともその心得として、文人墨客たるの資格を備えていなければならぬと考えていたようだ。
森さんは政治家になるようにお父さんから仕込まれたというか、そういうルートの上を歩いて行く感じだったようです。本人もその気だったというんですから、何だか不思議です。
よくぞ、そこからドロップアウトしてくれたものです。何となくホッとするのは、どうしてなんでしょうね。
むかし、道元は中国にわたり、中国語がしゃべれず、日本からおしが来たと言われた(漢字じゃなくて、ひらがなしたけど、昔はよく耳にした言葉でしたね)。ところが、そのおしがまたえらく立派な文章を書くといって驚かれたそうだが、おそらく筆談を交わした結果、そんなことになったのであろう。
父も中国人や韓国人の要人と、何時間となく黙々とおしのように対座して筆談を交わし、ときに互いに顔を見合わせて、さも愉快げに笑い声を上げていた。
正しい立派な漢文が書けるということは、中国人や韓国人にとっても、すでにハイブローであることを意味していた。父が中国や韓国をどう考えていたかまったくわからないが、わが国の政治は中国や韓国を抜きにしては考えられぬと思っていたことは間違いない。
そのために、ぼくもまだ遊びたいさかりに、漢学を叩き込まれるというひどい目にあったのだが、漢学なんかぼくにとってマイナスにこそなれ、プラスにならぬと思い、できるならこんなものは忘れてしまいたいと考えたことさえあった。
そうなんですね。でも、小さい頃に教わったものは、簡単には体から出て行かないもので、意外なところで役に立つことがあったそうです。
森さんの作品って、そんなに漢文風ではないんだけど、サッパリサラリとしたところがありましたっけ。