甘い生活 since2013

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侵略思想の私たち? 池澤さんと義家さん

2015年01月24日 07時24分24秒 | ことば見つけた!
 東京学芸大学の斎藤一久さんが書いておられた文章から孫引きします。


 筑摩書房の高校教科書「国語Ⅰ」に掲載された作家・池澤夏樹さんの「狩猟民の心」というエッセー。

 《日本人の心性(しんせい)を最もよく表現している物語は何か。ぼくはそれは「桃太郎」だと思う。あれは一方的な征伐の話だ。鬼は最初から鬼と規定されているのであって、桃太郎一族に害をなしたわけではない。しかも桃太郎と一緒に行くのは友人でも同志でもなくて、きび団子というあやしげな給料で雇われた傭兵(ようへい)なのだ。さらに言えば、彼らはすべて上官である桃太郎よりも劣る人間以下の兵卒として……、動物という限定的な身分を与えられている。彼らは鬼ケ島を攻撃し、征服し、略奪して戻る。この話には侵略戦争の思想以外のものは何もない》


 と書いていたそうです。桃太郎のお話は、侵略の話だというのは、素直に読めばそのとおりで、私も一番最初の物語としてこのお話を聞いた覚えがあります。お話の最後に「幸せに暮らしたとさ。メデタシ、メデタシ」と聞いて、宝物をたくさん手に入れたら、そりゃ幸せに暮らせるだろうなと思ったものでした。今でも、私を幸せにしてくれる鬼ヶ島があれば攻めていきたい気分はありますが、決してそんなところがあるわけはないので、ただの昔話としてとらえています。

 こんなに親しまれた昔話なのに、構造としては侵略話で、なんだか鬼さんには申し訳ないお話です。今の私は、やっつけられる鬼さんのことも心配してあげられるオッサンですけど、それが侵略思想でできているとは……。うーん、困ってしまう。日本人が育ててきた物語が侵略思想であるかもしれないなんて!



 本文にはそこから進んで、言いたいことがあるのかもしれませんが、それを読んでいないので、何とも言えません。ただ、そういう指摘を受けて、自分を見直すことにはなるのでしょう。日本の人たちが育ててきた物語は他にもたくさんあるし、違う思想で書かれたものはあるはずです。

 それに、桃太郎に出てくる鬼たちは悪い人で、人々からまき上げた宝をいっぱい持っていた。それを取り上げて独り占めするのはよくなくて、本来ならみんなに還元してあげるようなネズミ小僧的なはたらきをしてもらいたかったけど、お話では独り占めでした。やはり、桃太郎さんちは少しずるいですね。

 そういうことを考えてみようという文章だったのでしようか。この日本人が大切にしてきた物語は侵略思想だという池澤さんの文章にコメントを試みたエライ人がいたそうです。

 私と同じ団塊ジュニア世代の衆議院議員である義家弘介さんがこれを批判しています。

「わが国では思想及び良心の自由、表現の自由が保証されている。作者が作家としてどのような表現で思想を開陳しようとも、法に触れない限り自由である。しかし、おそらく伝統的な日本人なら誰もが唖然(あぜん)とするであろう一方的な思想と見解が、公教育で用いる教科書の検定を堂々と通過して、子供たちの元に届けられた、という事実に私は驚きを隠せない。

 例えばこの単元を用いて、偏向(へんこう)した考えを持つ教師が『日本人の心性とは、どのようなものであると筆者は指摘しているか。漢字四字で書きなさい』などという問題を作成したら一体どうなるか。生徒たちは『侵略思想』と答えるしかないだろう」(産経ニュース)と。


 これは政治家というか、政府の側に立つ人のコメントなんでしょうね。教科書にそう書いてあれば、それを悪用して偏向教師が、偏向教育をやりかねない。教師という人たちは、ろくなことをしない、人件費ばかりかかるとんでもない連中だから、なるべく数を減らし、なるべく政府の考えに従う教員を養成せねばならない、と心から思っているのでしょう。

 池澤夏樹さんが言いたかったことは、どこかにあるのかもしれないけれど、途中の話のネタが気に入らないので、元ヤンキー先生がクレーム(いちゃもん)をつけてみたというところですね。

 どうして世の中、こんなに型どおりなんでしょう。みんな好きなことを言い、それに対して批判があれば言い、文章をあれこれしながら読む、というのは人間の楽しみの1つではないですか。それを個人としてあれこれ言うのはいいと思いますが、体制側にある人がまともに取り上げ、自分の意見を主張し、それを押しつけようとしたら、それは自由ではなくて、ただの強制ではないですか。

 私は、あの人がどういういきさつでスカウトされたのか知らないけれど、いつの間にか、体制側の論客として教育には一家言(いっかげん)ある人で、その影響力が少しずつ上がっているとしたら、上手に政治の世界を泳いでいる時はいいけれど、だれかの気分をそこねて登録リストからはずされたら、今はエライ人だけど、ただの人になってしまうのに……。

 まあ、それが怖いから、一生懸命あれこれコメントして、しっかり働いてますよ、というのを見せなきゃいけないんですね。大変ですね。



 池澤さん自身も12月2日の朝日新聞夕刊で、「あのエッセーでは、『伝統的な日本人なら誰もが唖然とする』という、そこのことが言いたかったのだが、理解していただけなかったらしい。ぼくは子どもたちに唖然としてほしいのだ」と述べています。

 実は池澤さんが提示した桃太郎像は芥川龍之介の『桃太郎』にも登場します。福沢諭吉が息子たちに与えた教訓を集めた『ひゞのをしへ』でも、「もゝたろふは、ぬすびとゝいふべき、わるものなり」と説いています。

 それゆえ教科書検定において、少数説として存在する池澤さんのエッセーを削除させることは、文部科学大臣の検定裁量を逸脱・濫用しているだけでなく、憲法21条2項で禁止されている検閲に該当する可能性が高いです。政治家としての批判かもしれませんが、元文部科学大臣政務官としては不勉強ではないでしょうか。



 ということでした。政治家の「ためにする発言」を云々しても仕方ないですね。あの人たちはそれが仕事なんですから。人を動かすときには言葉は必要だけれど、普段の政治家は、できれば行動してもらいたい。論争は必要だけれど、ケンカ別れじゃなくて、政治家は相手といつも政治的決着をつけ、折り合える点をみつけて、政治的に解決できる人であって欲しい。なかなかむずかしいけれど、今の政治家は、新しいアイデアのために論争し、言うことを聞かないやつらはみんな敵で、そいつらを黙らせることばかりに熱心です。

 話の通じる相手とだけで政治をしていく世の中ではありません。世界には話の通じない、考え方の全く違う、どうしてそんなことを考えるの、という人たちがいっぱいいて、そういう人にも向き合って行かなくてはならない世の中です。

 一見開かれたようなグルーバル社会だけど、個人はどんどん内向きで、政治家もみんな内向きです。よそのことなんか考えていられないし、考えたくもない。この私もたぶんそうでしょう。

 そこに風穴を開けたり、ことばのトンカチでコンと頭をたたいてもらったり、何か新しい発想で自分自身を切り開いていかないと、私たちはダメになってしまいますから、まあせいぜいいろんな人の、新しい発想の話を聞かなくては! 政治家の古い発想・自分の利益のためのことばなんていらない、と思います。



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