孔子先生は、こういうことには注意しなさいよ、と教えてくださるのに、おバカでマヌケの私は、そのダメな方についつい惹かれてしまう。「アカンよなあ」と口では言うのに、そのアカン方が好きなんだから、もうどうしようもありません。
述而篇の最後の方の二つのことばです。
子の曰く「奢(おご)れば則ち不遜(ふそん)、倹なれば則ち固(いや)し。その不遜ならんよりは寧(むし)ろ固(いや)しかれ。
先生が言われました。「贅沢をしていると尊大になり、倹約をしていると頑固になるが、尊大であるよりは、むしろ頑固の方がよいだろうね。」と。
お金をたくさん抱え、好きなように使う。自分で稼いだお金ならば、たぶんそんなにホイホイとは使わないから、簡単に手に入るような、詐欺とか、だまし取るとか、法の裏道・抜け道を利用するとか、とにかくあぶく銭といわれるような、「悪銭身に付かず」という感じのお金だと、つい信じられないようなお金の使い方をする。
そうすると、人はそういう人に対してはいくらでもお金を出してくれるから、ついつい従順になるので、そういうのばかり見ていると、自分がエライように思えてきて、ついついいい気になります。それは、みっともないことなんだろうけど、本人は気づけない。人間なんて、こんなにお金にいやしいのだと人間を小ばかにするようになるでしょう。
そんな人よりも、意固地になったとしてもコツコツ節約している人の方がいい。それはそうです。私もそう思います。私は変に倹約家ですけど、偏屈・ケチ・せこい・いじましい・みみっちい、などと言われても、無駄はしたくない方です。だから、肝心なところでやり切れていないところがありますけど、エラそうにはなりたくないのです。
つづいて先生はおっしゃいます。
子の曰く、「君子は坦(たいら)かに蕩蕩(とうとう)たり。小人は長(とこしな)えに戚戚(せきせき)たり。」と。
先生が言われた。「君子は平安でのびのびしているが、小人はいつでもくよくよしている。」と。
立派な人というのは、切り替えができて、悔やまなくて、それはそれ、これはこれと割り切れる、そういう能力を身につけている。
私みたいなボンクラは、大事なこともどうでもいいこともすべて忘れてしまうから、大抵のことには無頓着なんだけど、大事な時にスイッチが入らないから、蕩蕩(とうとう)ではない。ただの凡々なだけです。私は超小人ですからクヨクヨもいっぱいしますね。
立派な人と比べて、つまらない人とは、いつまでも「あれはこうすればよかった」と反省し悔やんでいる。それでは次のステップに支障があるけれど、何かにつけていろんなことが気になってしまう。
違う世界では、新たな自分になれたらいいのに、前のことを引きずっている。かくして、何だかいつも楽しめなくて、中途半端な気持ちのままでいる。それは損なことですよね。でも、そうなる時がある。
私たちを襲う「戚戚(せきせき)」感情、ついついクヨクヨする気持ちを、サラリと忘れて、その場に合わせて生きる。それも大事です。でも、クヨクヨする気持ちを、抱えつつ生きるというのも、私たちみたいな凡人には大事なことではないかなと、先生に質問したくなります。
たぶん、先生は、
「もちろん、ダメというのではなくて、ほどほどに持ち合わせていればいいのだよ。人というのはいろいろなんだから、その人に合わせた持ち味で生きていけばいいんだよ」と、声をかけてくださるでしょう。たぶん、そうだと思います。ありがたいことです!