甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

金沢の思ひ出(中原中也)1936 その1

2017年01月28日 06時50分27秒 | きたぐにへの旅
 わたしは、旅を研究というのではないけれど、旅に関して書かれた文章が好きでした。今はものすごく守備範囲も狭いので、あまり旅をした文章に出会うチャンスもないけれど、たまたま中也さんが書いておられたのを見つけたので、貼り付けてみます。 ※歴史的仮名遣いは全部現代仮名遣いに改めてしまいますね。

   金沢の思ひ出   中原中也

 私が金沢にいたのは大正元年の末から大正三年の春までである。住んでいたのは野田寺町の照月寺(字は違っているかも知れない)のまん前、犀川(さいがわ)に臨む庭に、大きい松の樹のある家であった。その松の樹には、今は亡き弟とある時叱られて吊(つ)り下げられたことがある。幹は太く、枝は大変よく拡がっていたが、丈は高くない松だった。昭和七年の夏金沢を訪れた時、その松が見たかったが、今は見知らぬ人が借りている家の庭に入ってゆくわけにも行かなかったが、家は前面から見た限り、昔のまゝであった。隣りはタカヂアスターゼの兄さんか弟の家で、子供が八人くらいいて、ひどく賑かだった。

 金沢に着いた夜は寒かった。駅から旅館までの俥(くるま)の上で自分の息が見知らぬ町の暗闇の中に、白く立昇(たちのぼ)ったことを夢のように覚えている。翌日は父と母と弟と祖母とで、金沢の町を見て廻(まわ)った。威勢よく流れる小川だけがその日の記憶として残っている。

 十日ばかりして家が決まると旅館を出てその方へ越した。それが野田寺町の先刻云った家であった。夕方弟と二人で近所の子供が集って遊んでいる寺の庭に行った。却々(なかなか)みんな近づかなかったが、そのうち一人が、「名前はなんだ」と訊いた。僕は自分の中也という名前がひどくいやだったものだから、「一郎」と小さな声で躊躇(ちゅうちょ)の揚句(あげく)答えた。それを「イチオー」と訊ねた方では聞き違えて、「イチオーだ」とみなの者に告げ知らせた。するとみんなが急に打ち解けて、「イチオー遊ばう」と近寄って来るのであった。由来金沢にいる間じゅう、僕の呼名は「イチオー」であった。




 中也さんのご家族がどうして金沢に住まなければならなかったのか、あとで調べないとわかりませんが、たぶんお父さんの仕事の関係か何かなんですね。しかも中也さんはまだ子どもさんで、イタズラしたら松の木につり下げられたりしたんだから、昔の人の教育も厳しいところがあったんですね。

 そうですね。私も父にホウキで外でも追い回された記憶があります。たったの1回だけだったけれど、とても怖かったなあ。母には押し入れに入れ込まれた時がありました。怖かったけれど、「ゴメンナサイ」と反省できたら、許してもらえるというのか、そこに着地することにはなっていたようです。小さいときはそんなことがわからず、やみくもに反抗したり、グータラだったりしました。

 小さい頃って、わけがわかってなかったんです。今は、新たなわけのわからん状態になろうとしている。

 朝が来るたびに、隣りのタカヂアスターゼの下から三番目の子供が、「イチオー………コイマー」と何度も何度も呼ぶのであった。雪の朝は呼びながら、両手を口にあてていた。呼ぶことと手を温ためることと、一挙両得というわけである。

 冬には、羽織を脱いでそれを折りたたんで「兜」にして冠る遊びがあった。その兜の作り方が三通りぐらいあった。去年の冬それを作ってみようとしたがその何の作り方も覚えてはいなかった。

 寺ばかりといってもいいような町に住んでいたので、葬式は実に沢山見た。葬式のあるたんびに子供達は葬式をやっている寺に名刺を持って行って菓子を貰うのであった。僕はそれが羨しくて、母に名刺を呉れというのであったが「あれはお葬式のお供に行く人の子供だけが貰へるのです」つまり名刺を持って行ったからとて菓子が貰えるわけはないというのであった。

 それもそうかと思ったが、それにしても葬式のあるたんびにみんなは名刺を持って出掛けては菓子を持って帰っていた。今以てそれは不思議といえば、一度町内の子供が全部揃って、忠臣蔵の真似をして練り歩いたことがある。長い列であった。その先頭ではホラ貝を吹いていた。子供達ばかりでやったこととしては統制があり過ぎた。あれは親達も手を貸したのであろうか? それともああした習慣が金沢にはあったのであろうか?  1936(昭和11)年


 ここまで読んでいて、奥さんが起きてきましたので、しばらく休みにして、また書きます。調べ物もちゃんとしますね。今日はどこにも行かないんです。奥さんはハナウタ歌ってます。どうしたのかなあ。



★ 調べました。お父さんは陸軍にお勤めで、山口、広島、金沢と勤務先が変わったそうです。6歳くらいから1年くらい、大正3年・1914年の春まで金沢で、お父さんは朝鮮に単身赴任することになり、中也さんたちは山口にもどったということです。

 そういうことだったんですね。30年の中也さんの生涯の中の金沢、ほんの1年と少しの滞在期間のことを丁寧に書いておられて、なんだかビックリです。


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