萌えてばかりもいられない!

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伯母逝去

2011-05-02 00:11:06 | 懐かしい思い出
4月25日、銚子に住む伯母が亡くなった。その訃報を翌26日に聞いた。
27日に通夜、28日に告別式が開かれるということで、私は、車で銚子に向かった。
銚子に自分自身で運転する車で向かうのは初めてのことだった。バイクでもなかった。

電車では何遍か遊びに行かさせてもらったことがあったのだが・・・。昔はその伯母から「青春18切符とかでmacが来てくれた」と可笑しくも嬉しくも思われていたことを思い出した。

斎場に着くと、家族は伯母さんを祀っている、以前何度も泊めてもらった家にいるというので、従兄の義姉さんと従兄甥に家まで連れて行ってもらった。

そこには私の血縁の親族が沢山来ていた。
従兄姉達は、なんとか母方の親戚の馴染みのある小田原式での葬儀をと心がけてくれたようで、火葬を待ってくれたのだと聞かされた。

懸命に命を繋いだ伯母とそれを支えた従兄姉達の思いが伝わる風景だった。

メキシコから伯母も来ていた。メキシコの伯父が検査でちょうど日本に来ていたからだという。伯母と会ったのは何十年ぶりだか分からないくらいで、私はその綺麗な人がメキシコの伯母さんだと初め気付けなかった。

忌中払いを先に済ませるように食事を3時過ぎにとって通夜を迎えるのが銚子式だ。通夜では私の母が遺族席に座るのを拒んだために(居眠りしちゃうから)私が遺族席に座ることとなった。

通夜の晩は、男の親族で集まり、様々な話になった。私にはまるで分からない囲碁の話で盛り上がり、囲碁の先手(黒)の優位性とそのハンデの在り方について何度も私見が交わされることとなった。そのまま各ゲーム(将棋や野球)における先攻と後攻の優位性の話、ギャンブルの話に、商売の話、それに思い出話に花が咲いた。従兄がお酒を差し入れてくれ、従兄姉の息子達が途中で日本酒を買い足しに行ってくれた。

斎場に用意された宿泊施設に泊まった女性の親族もそれはそれで色々なお話になったことであろう。

翌朝、従弟妹達がまた多く駆けつけて来た。


そして、通夜でも告別式でも焼香をあげにくる人達へ、従兄姉達が駆け寄り声をかけていく様に、様々な想いが募る。
私にとっての伯母は、父の兄弟にとっては姉であり、従弟妹達にとっては伯母であり、叔母でもあり、一昨年亡くなった伯母から見たら妹であり、孫にとってはおばあちゃんでもあり、教職に就いていたので○○先生でもあり、近所の人にとっては○○さんでもあり、先代の社長夫人でもあり、先代(伯父さん)の奥さんでもあり、お姑さんでもあり、従兄姉の友達にとっては○○くん(ちゃん)ちのおばさんでもあり、銚子の従兄姉達にとっては母親でもおかあちゃんでもお母さんでも母でもおふくろでもあったわけだ。


2年前に小田原の伯母が亡くなり、今回銚子の伯母が亡くなった。(私は当時閉じていてブログを更新していなかった)。
その挨拶に際して時折崩れそうになる従兄(あに)達を見て、幸いにして私にはまだその・・・親を失うという経験はないのだということに都度気付かされた。


自分自身を間近で生まれた時から今までを知る人、ある時期には悪態もつければ、文句も云える、聞き分けのない私に対するいちいちの忠告に時にはうんざりしながらも多分今の自分にではなくて遠い昔の自分に向かって云っているような錯覚を起こすことがあるけど、そういう一つの標(しるべ)としての親というものを失うことはとても辛いことなのだろう。それは今の自分に想像ができるわけもなく。。。という想いが募った。
私自身が結納の席で、両家の両親に「なるべく長生きをして下さい。そしていつまでも私達の前を歩き続けて私達の行く末を照らしてください。そして時には振返って私達のことをいつまでも見ていてください」と挨拶したことをほんのりと思い出していた。




伯母さん、どうか安らかにお眠り下さい。


そしてどうか皆を遠くの空からいつまでも見守っていて下さい。肉親達を、子供達を、孫達を、血縁者達を、縁のあった多くの人達とその家族の子々孫々に至るまでを。



遠い空に向かって清らかな気持ちで、、、、、合掌・・・
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