とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

2024三方分山

2024-11-25 17:56:34 | 山登り
2週連続で富士五胡周辺の山に登ってきた。今回は、精進湖畔にある三方分山である。今回のコースのハイライトは、三方分山からパノラマ台に下りていくときの富士山の美しさだ。

まずは、精進湖畔の駐車場に車を止める。ここからも、周辺の雲がほとんどなくなり富士がくっきり見える。この日は一日、好天が続きそうなので期待が高まる。


車道をしばらく歩き、精進の集落の中に進んでいく。集落内の木々は、ちょうど紅葉真っ盛りで青空によく映える。


集落にある神社のカエデやイチョウも見事に色づいている。


イチョウの下は、黄色の絨毯で敷き詰められている。


神社の境内に入っていくと、「精進の大杉」と呼ばれる杉の巨木が立っている。


国の天然記念物に指定され、樹齢は約1200年。目どおりの周囲約12m、高さ約40mで県下一の大きさを誇り、別名「千年杉」ともいわれ、ご神木として親しまれているそうだ。


「精進の大杉」を見てから、境内を出て登山道方面に向かう。


その後、しばらく歩くと本格的な登山道となり、落ち葉を踏みしめ登っていく。


木々の間から零れ落ちる日差しが眩しい。


見通しがいい場所からは、これから登る三方分山のピークが見える。


歩き出して1時間ほどで、阿難峠に到着する。


阿難峠は、女坂峠とも呼ばれ、昔、身重の女性がこの峠に差し掛かった時に産気付いたが、母子共に亡くなったことから供養のために子を抱いた地蔵を置き、それを“女石”と呼んだことから名が付いたという。


阿難峠からは、キツイ急坂を上りきると三方分山山頂1422mだ。


山頂からは、富士山方向のみ展望があり、子抱き富士と言って大室山を前に抱く富士山を見ることが出来る。まだ11時前だったが、朝が早かったので、富士を眺めながらランチ休憩する。


三方分山の下りもなかなか急で、慎重に下っていく。ところどころ緩やかな道もあるが、意外とアップダウンが多いが少しずつ下っていく。


偉主山(いぬやま)1315mを通過。


根子峠を過ぎると、パノラマ台まで10分ほど。パノラマ台に到着すると、思った以上に登山者がたくさんいてビックリ。やはりこのコースの一番のハイライトだけあって、みんなパノラマ台からの景色を楽しみに上ってきたようだ。大室山を前に抱く子抱き富士を、建物が一切ない樹海の中に見ることができるのが素晴らしい。


パノラマ台で早速記念写真。


南側を眺めると、本栖湖と前の週に登った雨ヶ岳と竜ヶ岳も見える。


パノラマ台で充分展望を楽しんだ後、駐車場に向かってグングン下っていく。


標高が高い場所は、ほとんど葉が落ちてしまっていたが、下るほど紅葉が残っている様子が分かる。


下山道からも、子抱き富士と精進湖が良く見える。


15時前には駐車場に戻り、一日中富士の展望を楽しめた山旅だった。

参考1.三方分山の高低図&コースタイム


参考2.三方分山のコースマップ

2024雨ヶ岳

2024-11-19 18:21:14 | 山登り
先週末は、静岡県と山梨県との県境に位置する山で、毛無山塊と呼ばれる山域にある雨ヶ岳に登ってきた。山頂がササで覆われていて、山頂からの展望はさえぎるものがなく、富士山を眺めるには最高の山だ。山頂には三等三角点があり、山名は、山頂に雲がかかっていることが多いことや、雨乞い信仰に由来するなどの諸説がある。

登山口はいくつかあるが、今回は本栖湖畔の浩庵テント村の駐車場に車を止めた。


今回のメンバーは8人。静岡県内の人が多いので、浩庵テント村に現地集合とした。


テント村の中を抜け、森の中に入っていく。


朝から好天となり、紅葉が美しい。


分岐と思われる場所が良くわからず、地図で確認する。周りをよく見たら、方向指示板が近くにあった。


水のない涸れた沢を横断して、端足峠への登山道に入る。登山道の下には本栖湖が見える。


隣の竜ヶ岳のシルエットを見ながら登りきると端足峠だ。


端足峠は、竜ヶ岳、雨ヶ岳、東海自然歩道との分岐となる。


端足峠からは、思ったよりキツイ上りとなる。振り返ると竜ヶ岳や本栖湖が見える。


ササで足元が見にくい場所が多くなり、歩きにくい。


少し緩やかな道もあったが、すぐにキツイ上りが続く。


展望が開けた場所からは、ついに待望の景色が広がっていた。


みんなこれを待っていた。富士山がくっきり見える。下の方に雲が少しかかっているが、すぐになくなるだろう。


それからは、後方に富士山を従えての登山となる。


いつの間にか雲がすっきり取れている。


12時。雨ヶ岳山頂1772mに到着する。


恒例の山頂記念写真。今回は、富士山をバックに最高の山頂記念写真だ。


その後、富士山を真正面に見ながらランチ休憩だ。


展望を十分堪能し、元来た道を下山する。


先頭を歩くTさんは、気分が良くなってどんどん早くなり、後ろからついていくのがやっととなる。


行く時、迷いそうになった沢を横断する場所まで戻ってきた。


テント村の森の中は、まさに紅葉真っ盛りだ。


落ち葉を踏み締め楽しそうなSさん。


最後に美しい紅葉をバックに、記念写真。ほぼ、5時間ほどの山行だった。


帰路の途中で、あさぎり温泉風の湯に入浴する。その帰り道、ちょうどいいタイミングで、赤富士を見ることが出来た。こんなに赤く富士山が見えるのは、ホントにわずかな時間しかない。この日は、朝から晩まで素晴らしい富士山を眺めることが出来てラッキーだった。


参考1.雨ヶ岳の高低図&コースタイム


参考2.雨ヶ岳のコースマップ

2024松代トレイルツアー:3日目尼巌山・奇妙山トレッキング

2024-11-15 19:04:55 | 山登り
3日目は、松代の里山をトレッキングする。ホテルからも毎日見えていた尼巌山(左)・奇妙山(右)に登る。


まずは、尼巌山(あまかざりやま)の池田の宮登山口のある駐車場に向かう。


少し歩くと、池田の宮(延喜式内社の玉依比賣命神社)に着く。


玉依比賣命神社の石段のすぐ隣に尼巌山の登山口がある。


登山道を少し歩くと、害獣除けの柵があり、そこを開けて登山道を進む。


しばらくは、緩やかな上りだ。


その後、ロープもある急坂になる。


巨岩が現れてきた。


その後も、険しい登山道を登り、午前10時に尼巌山780.9mに到着する。尼巌山の険しい絶壁の山頂には、土豪・東条氏が築城したとされる東条城があったという。信玄は真田幸隆に、謙信側の軍事拠点であったこの城の攻略を命じ、幾たびかの攻略戦の末、ようやく陥落させたという。


尼巌山やその周辺は、豊かな自然や史跡・文化財等に恵まれている。山麓には国蝶オオムラサキ、また山頂付近にはヒメギフチョウが飛び交うそうだ。山城の遺構の他、古墳群や石幢(笠仏)など多くの石の文化財もあり、静かな山裾には、ゆったりと杏の里や肥沃な田園が広がっている。そして、山々を見渡せば、北アルプス、戸隠連峰、高妻山、火打山、妙高山などの素晴らしい展望が広がっている。




尼巌山から高見岩を経て、12時ちょっと前に奇妙山1099.5mに到着する。尼巌山もそうだが、奇妙山というのも一風変わった名前だ。名前からして奇妙なとこがある山だと思っていたが、奇妙は奇妙の意味で無く仏教の帰命、南無陀仏の意味だという。


奇妙山で昼食休憩をしたのち、元来た道を戻り、岩沢登山口分岐まで行く。分岐から30分ほどで岩沢登山口に到着する。


岩沢登山口には、あらかじめ車を1台駐車しておいたので、それに乗って池田の宮登山口駐車場に戻った。尚、岩沢登山口の駐車場は、2台停めるのがやっとの広さで、そこに行くまでは狭いクネクネ道で向きを変えるのも大変だった。


その後、松代温泉松代荘の温泉に入浴後、帰路についた。松代荘の湯は、鉄分を含んだ黄金色の湯で入浴後も体がポカポカするいい湯だった。

参考1.尼巌山・奇妙山の高低図&コースタイム


参考2.尼巌山・奇妙山のコースマップ

2024松代トレイルツアー:2日目地下壕観光

2024-11-14 18:17:17 | 観光
松代には、太平洋戦争末期、長野市松代町の三つの山(象山・舞鶴山・皆神山)を中心に作られた地下壕などの地下軍事施設群があったという。松代大本営と呼ばれ、敗色濃厚だった当時、軍部は本土決戦を行うことに備え、「国体護持(天皇を頂点とする国家体制の維持)」などのよりよい和平条件を得ようと考え、この決戦の指揮中枢を守るためのシェルターとして松代大本営の地下壕が計画されたというのだ。この工事には、多くの朝鮮人労働者が動員され、過酷な労働を強いられた。しかし、その犠牲者などについてはほとんど明らかにされていないという。今回、松代に来て初めてそんな場所があったことを知った。

2日目は、松代ラウンドトレイルの大会に参加したのだが、大会の前後に空き時間があり、スタート前に、まず象山地下壕に立ち寄る。見学は無料だが、管理人室に立ち寄り、管理人どこから何人で来たかを告げ、安全のため用意されているヘルメットを着用する。


地下壕入り口の左側に象山地下壕全体の様子が描かれていて、この象山地下壕には、政府、日本放送協会(NHK)、中央電話局などが移転してくる予定だったらしい。


いよいよ地下壕の中に入っていく。幅4m、中心の高さ2.7m、軒高2mの縦坑(本抗)が20m間隔で20本、それをつなぐ横坑(連絡抗)が50m間隔で掘られ碁盤の目のように造られている。全長は約5854mあり、松代で最大の地下壕だという。このうちの519mが公開されている。


数百m進んだところで広い場所があったので、写真を撮る。地下壕の中は、岩がむき出しになっており、こんな場所に大本営を移転しようと考えたこと自体が、当時の日本軍が狂気の沙汰であったことが窺い知れる。それにしても、広大な地下壕を僅か8ヶ月ほどで8割方完成させたという事は、相当な人の数を要したことであろう。終戦に伴い、工事は中止になったというが、強制的に労働に駆り出された朝鮮の人たちが相当数犠牲になったらしく、日本人としてこのような戦争遺産が松代に残っていることを忘れてはならないだろう。


その後、急いでトレランの会場に向かう。

我々の仲間が最後にゴールしたのは、14時過ぎ。まだ明るいので、舞鶴地下壕に向かう。ここも大本営と天皇・皇后御座所(ござしょ)、宮内省が入る予定だったというが、終戦後、地下壕を有効に利用する為、1947年に中央気象台松代分室が設置され地震観測が始まり、現在は、気象庁地震観測所になっている。


主要な地震計は、舞鶴山山頂下100mの松代大本営跡の地下坑道内に設置され、1965年8月3日から始まった松代群発地震で貴重なデータを採取するなど、日本における地震観測研究の中心的組織であったというが、現在は常駐する職員はいなくなっている。




そして、地上部にある半地下式のコンクリート建物は、地震観測室庁舎として利用されているが、当初は、天皇御座所として利用する予定だったという。


室内には立ち入れないが、建物の外から窓越しに部屋の様子を見られる。天皇の居室に予定されていた和室が残っている。実際には、天皇がここを使うことはなかったのだが、莫大なお金が使われたことであろうと思うと、虚しさを感じてしまう。


2日間で、知らなかった松代の歴史的背景を知ることが出来て、大いに勉強になった。

「2024松代トレイルツアー:3日目尼巌山・奇妙山トレッキング」に続く。

2024松代トレイルツアー:2日目松代ラウンドトレイル

2024-11-13 18:13:45 | マラソン
トレランの大会は、ロングが36キロで制限時間が8時間、ショートが13キロで制限時間は5時間だ。とてもロングは走れそうもないので、ショートにエントリーした。スタートは、10:30なので朝もゆっくり出発できる。

10時前に松代城跡の駐車場に着き、受付に向かう。受付は、ラン友のSさんがいてくれたので心強い。


スタート地点は、松代城跡から歩いて800mの象山神社となる。スタート地点で武者姿のスタッフと記念写真を撮る。


一緒に走る仲間たちとも集合写真。


10:30。ショートのランナーが一斉にスタートする。参加者は300名弱だという。


佐久間象山の像の横を通り抜けて、象山神社を出ていく。


住宅の前を抜けると、象山の登山口に入る。若いランナーたちは、坂をもろともせずに駆け上がっていくが、私は息が切れてとても走ってはいけなくなる。


あとは、標高差500mの登坂が続く。特に最後のキツイ上りは心臓がバクバクして何度も休み休みして登っていく。その間に多くのランナーに抜かれていった。


キツイ上りがやっと終わり、紅葉の尾根道を進む。


木々が途切れた場所からは、戸隠山、高妻山、黒姫山などがくっきり見える。


11:40。やっとこのコースの最高点である鞍骨山798mに到着する。かつては山頂に鞍骨城が築かれ、武田信玄と上杉謙信の川中島合戦の戦局に 大きなかかわりがあったという。天正十二年武田滅亡後、上杉軍がこの山一帯を制圧し、鞍骨城には直江兼続が入城したと言われている。


12時過ぎ、天城山(てしろさん)694mに到着。この山頂にもかつては天城城があり、鞍骨城の出城だったようだ。また、山頂には、坂山古墳ともいわれる石室の跡が残っている。


天城山を過ぎると、広い林道となりグングン下っていく。登坂でだいぶタイムをロスしたので頑張って走り、6キロ地点のエイドに到着する。


エイドからも林道が続くが、少しずつ登坂となっており、思ったより走れない。何とか10キロ地点を通過するとあと3キロ。


残り2キロあたりから登山道となり、最後の山登りだ。象山山頂を過ぎると、最後の下りだ。


象山神社の紅葉と青空がキレイなので思わずカメラを向ける。


あとは平たんな歩道となり、松代城跡が見えるとホッとする。


ゴールが見えた。


3時間ちょっとで無事ゴール。舗装道路を走るフルマラソンと比べるとトレランはさすがにハードだ。


他のメンバーも2時間半~3時間半の間で全員完走。しかし、トップは1時間ちょっとでゴールしていたらしい。久しぶりのトレランは、体力の衰えを痛感させられたが、好天に恵まれ、山が良く見えて嬉しかった。

参考1.松代ラウンドトレイル(ショート)の高低図&コースタイム


参考2.松代ラウンドトレイル(ショート)のコースマップ


「2024松代トレイルツアー:2日目地下壕観光」に続く。

2024松代トレイルツアー:1日目松代観光

2024-11-12 15:47:24 | 観光
11/8~10にかけて長野県の松代に出かけてきた。メインの目的は、9日に行われる松代ラウンドトレイルに参加するためだ。1日目は、昼過ぎに着いたので、松代の観光をすることにした。

まずは、松代城跡の駐車場で観光ガイドの人と待ち合わせをする。観光ガイドは、友人である地元のIさんの発案で、あらかじめ手配してくれてあった。松代城は、武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦で、武田側の拠点として築城されたといわれている。千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城」と呼ばれ、江戸時代、真田氏が松代藩主となると、松代城を中心に真田10万石の城下町が発展したという。


その後、ガイドと共に歩いて真田宝物館に移動する。真田家十二代当主・幸治氏から1966(昭和41)年に譲られた武具、調度品、書画、文書などの大名道具を収蔵・展示する博物館である。


松代藩真田家の歴史と、大名道具を紹介する常設展示室、テーマを定めた企画展、特別企画展が行われる企画展示室からなっている。


次に向かったのは、真田邸だ。九代藩主・幸教が、義母・貞松院(幸良の夫人)の住まいとして1864(元治元)年に建築した松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていたそうだ。


出入り口となる正面の玄関には、広い式台が設けられている。式台は玄関の低くなった板敷の部分で、武家の家にだけ許された設備である。また、正面玄関は江戸時代には殿様やお客様の出入りにだけ使われ、家老など上級武士でも、右の「小玄関」から出入したといわれるが、我々は、正面玄関から入る。


真田邸は、江戸末期の御殿建築の様式をよく伝え、表座敷に居間、湯殿(お風呂)に雪隠(トイレ)がそのまま残る貴重な建物だ。特に、居間から座って眺める庭園は、「水心秋月亭」と名付けられ、後ろに見える山も景色に取り入れた美しい景観だ。


最後に寄ったのは、文武学校。文武を奨励した松代藩八代藩主・幸貫が水戸の弘道館にならって計画し、九代・幸教の時代に完成した松代藩の藩校である。教室にあたる文学所、武術を学ぶ剣術所、柔術所、弓術所、槍術所などが配置されている。


柔術所と呼ばれる建物では、バーチャル砲術を体験できる。バーチャル砲術体験は、「スペンサー銃」「火縄銃」「臼砲」の3種類を体験する。実際に体験してみたものの、火縄銃の重さにビックリ。なかなか標的には当たらず、未熟者と叱られてしまった。


その後、松代城跡に戻り、集まったメンバー8人で城の入り口前で記念撮影する。


城内をぐるっと回ってから、この日の宿に向かい、1日目が終わった。

「2024松代トレイルツアー:2日目松代ラウンドトレイル」に続く。

2024高塚山

2024-10-29 16:24:49 | 山登り
先週末は浜松市天竜区の高塚山1621mに登ってきた。高塚山は、日本三百名山の一つで南アルプス深南部の秘境の山でもある。ところが、登山口の山犬段までの林道が2019年の大規模なのり面崩落で一般車両は通行止めになり、通行再開のめどは立たなくなっていた。しかし、昨年から川根本町が、南アルプスがユネスコエコパークに登録されて10年となる記念事業の一環として、登山客やハイカーを乗り合いタクシーで送迎する事業を始めた。今回は、その事業に乗っかってタクシーで山犬段まで行くことが出来た。

川根本町役場に各自現地集合という事で、マイカーで集まり、7時出発の乗合タクシーに乗る。我々のグループは5人だが、他3人の登山者が同乗し、運転手とガイドの2人を加え、10人で山犬段へ向かう林道を走る。落石だらけの林道をゆっくり走り1時間半ほどで山犬段の駐車場に着く。


山犬段には、キレイな避難小屋がありトイレもある。


タクシーに同乗してくれたガイドの方が、周辺の山や植物の話などを説明してくれた。


ガイドの説明が終わり、8人の登山者で山犬段から登山開始だ。しばらくは、緩やかな道で短い丈の笹原の中を進む。この辺りはヒルがまだいるかもしれないとの話だったが、さいわい見かけることはなかった。


登山道の途中からは、南アルプス南部の光岳から、尾根通しに南下すると達する黒法師岳が見える。黒木に覆われた三角形の特徴ある山だ。昔、登ったことがあるが、一等三角点のマニアには特に注目されている山で、三角点に刻まれている「+」印が、「×」印になっている。こんなに近くに見えるとは何故かうれしい。


最初のピークである蕎麦粒山までは、ややきつい上りとなる。


山犬段からは30分ほどで蕎麦粒山1627mに到着する。蕎麦粒山までは、林道が通行可能な頃には一度来たことがある。


蕎麦粒山からは、富士山がくっきり見える。曇り空の日だったが、意外と周辺の山々の展望がいい。


蕎麦粒山からは、三ツ合山を経由して高塚山1621mに1時間半ちょっとで到着する。林道南赤石線が昭和51年に開通するまでは、秘境の山だった。黒法師岳の南西に派生する稜線の尾根上にあり、天竜川の支流、気田川の源流部にそびえ、山名は、高塚山の南麓にある京丸集落から眺めて高い山という意味で、山頂に二等三角点を埋設するときに呼ぶようになったといわれている。日本三百名山に選定されているので、タクシーが運行するようになり三百名山狙いの登山者が各地から来ている。我々以外の登山者は、神奈川や東京からだという。


高塚山山頂で昼食を済ませ、元来た道を下山する。


高塚山までは、二つのピークを乗り越えてきたので、帰りも急な上りが2回はある。


下山時は、紅葉をじっくり楽しみながら歩く。




心なしか、行く時よりも紅葉が進んだ気がする。


14時過ぎに山犬段に無事到着する。避難小屋の中を覗くと、結構広くてキレイに整理されている。


迎えのタクシーは15時頃なので、余裕がある時間に戻れてよかった。曇り空だったが、周辺の山々はくっきり見え、富士山はじめ黒法師岳、大無間岳など深南部の山々も遠望できた。また、紅葉も楽しめ、手つかずの自然と静かな山歩きが楽しめた1日だった。

参考1.高塚山の高低図&コースタイム


参考2.高塚山のコースマップ

2024袈裟丸山登山ツアー:2日目袈裟丸山登山

2024-10-24 18:34:52 | 山登り
宿を6:30に出発して40分ほどで袈裟丸山の折戸登山口に着く。途中から細い林道となり、カーブが多く落石もあったりしてパンクに注意しながら進むが、一応舗装路だったので未舗装道路よりはましだった。


登山道に入ると、いきなりの急階段。


しばらく急坂を上る。


やがて開けた尾根道に入り、ススキの原に出る。


この日は、全国的に快晴になるとのことで、日差しが木々の間からこぼれてくる。


紅葉も予想通り始まっている。


笹原の中を進む。


開けたところには展望台があり、周囲の展望が出来るのだが、展望台の周りの木の枝が伸びてきていて思ったより展望が悪い。


少し下ったところまで行くと、賽の河原と呼ばれる場所に出る。岩がゴロゴロしていて小石があちこちに積み上げられている。




お地蔵さんのような石もある。


ルートから少し外れた場所に、機械のようなものが見えたので寄ってみると、雨量計が設置されていた。


さらに進むと、赤くきれいに色づいた木々が出てくる。


谷あいの紅葉もきれいだ。勝手に紅葉谷と名付ける。


小丸山1676mを通過。


こちらは白樺と青空が美しい。


白樺林の中には、黄色いドーム型の避難小屋とトイレがあった。


避難小屋を過ぎると最後の急坂となる。ロープを持って岩をよじ登る。


袈裟丸山(前袈裟丸山)1878mに到着する。


前袈裟丸山から後袈裟丸山へのルートは、風化が激しく危険という事で通行禁止となっている。


木々の間から、後袈裟丸山の姿だけを見ていく。


山頂で早いランチ休憩。


その後は、元来た道を下山。行くときに寄った雨量計のある場所の紅葉がキレイなので、写真を撮っていく。


この辺りを住処としているらしい鹿の親子に遭遇。


下山も藪漕ぎだ。


見晴らしのいい草原の斜面に戻ってきた。


紅葉の樹林帯をバックにいい景色の場所だ。


13:30頃、無事下山。この日はかなり冷え込むとの予報だったが、ほとんど寒いことはなく気持ちよい登山日和の一日だった。


その後、温泉に寄りながら足利市駅に戻り、帰路についた。

参考1.袈裟丸山の高低図&コースタイム


参考2.袈裟丸山のコースマップ

2024袈裟丸山登山ツアー:1日目足利市観光

2024-10-23 10:48:40 | 観光
今まで行ったことのない方面の山にも足を延ばそうと思い、栃木県と群馬県の境にある袈裟丸山に行くことにした。袈裟丸山(けさまるやま)は前袈裟丸山・中袈裟丸山・後袈裟丸山・奥袈裟丸山・法師岳の総称のことで、三百名山の一つに数えられている。一般的には前袈裟丸山がこう呼ばれる。ただ、前袈裟丸山と後袈裟丸山との間のルートは通行止めとなっているので、前袈裟丸山までのルートだけで良しとした。

まずは、JRと私鉄を乗り継ぎ足利市まで行く。1日目は半日ほど時間があったので、初めての足利市の観光をすることにした。

まず、向かったのは足利学校だ。下野国足利荘(現在の栃木県足利市)にあった、平安時代初期(もしくは鎌倉時代)に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関で、日本最古の学校と呼ばれている場所である。


足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、「坂東の学校」と称されたという。


中に入ると、観光ボランティアの人がいて、施設の案内をしてくれるという事でガイドをお願いする。ガイドさんの説明によると、学校と呼ばれる場所は、ここの場所のことで日本には一つしかなかったという。それがいつの間にか、学問を学ぶところが日本中に広がり、それらと区別するために足利を付けるようになったというだ。


学校門の手前には、儒学の始祖である孔子の像が建っている。これは、ふるさと創生事業の1億円で足利市が中国の業者には発注してできたものだという。したがって、狛犬や龍のデザインも中国式で日本とはやや違うようだ。


狛犬は左右でオスメスの違いがあるのだが、メスは足で子供を踏みつけている?というのがポイントらしい。


そして、龍の指は日本式では3本だが、中国式では5本になっているという。


そこで、足の指が5本かどうか触って確かめてみる。


方丈と呼ばれる建物。この中で、学生が勉学に勤しんだといわれる。


玄関から中に入ると、竈などがあり、天井まで吹き抜けになっている。


孔子座像。


足利学校を出て鑁阿寺に向かう途中で、足利尊氏の立像があった。足利尊氏は、室町幕府を開いた初代征夷大将軍で、足利将軍家の祖として知られている。


その先にあるのが、鑁阿寺(ばんなじ)だ。鎌倉時代、建久七年(1197年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山で、山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来が祀られている。


境内には国宝指定の本堂など貴重な建物が多い。また、約4万平方メートルに及ぶ敷地は、元々は足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されている。またこの事から「史跡足利氏宅跡」として、「日本の名城百選」にもなっている。


次に向かったのは、足利織姫神社だ。足利はその昔、機織りの街として栄えていた。1705年、機織りの神社がないことに気づいた戸田忠利により、織姫山の中腹に遷宮されたのが始まりだという。足利織姫神社のご祭神は、機織りの神様「天御鉾命(あめのみほこのみこと)」と、織女であった「天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)」である。足利織姫神社の鳥居をくぐると、総数229段の階段が見える。この階段を上ってから参拝すると願いが叶うとされているため、石段に挑戦してみる。


229段というので数えながら登ってみるが、そのうちキツクなってどうでもよくなったが、何とか登り終える。振り返ると足利市内が良く見え、遠くには富士山やスカイツリーも見えた。


ご祭神の二柱は、機を織って天照大神に献上していたといわれている。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を織りあわせてひとつの生地になることから、男女の結びつきを強める縁結びの神社として知られ、カップルも多い。


参拝を終えると、七色の鳥居をくぐって降りていく。この七色の鳥居は、足利織姫神社の「七つの御神徳」を表現している。神社からみて「人」との縁を結ぶ赤の鳥居から始まり、「健康」と縁を結ぶ黄色、「知恵」と縁を結ぶ緑、「人生」と縁を結ぶ青と続きます。「学業」と縁を結ぶ若草色に、「仕事」と縁を結ぶ朱色、「経営」と縁を結ぶ紫色と、鮮やかな鳥居をくぐっていく。




さて、足利市といえば自分の中では、渡良瀬橋のイメージが強い。大ファンである森高千里の「渡良瀬橋」という歌で頭にインスパイアされている。ここからは、「渡良瀬橋」の聖地巡礼に向かう。広い道路を歩いていくと、交差点の角に今ではなかなか見られない公衆電話ボックスがあった。ここだと思い、横断歩道を渡り反対側の道に出る。


やはり、「床屋の隣にポツンとある公衆電話」の歌詞通り、床屋さんもしっかりあった。出窓には、森高のポスターも貼ってある。


そしてその先にあるのが八雲神社だ。八雲神社はおよそ1100年ほど前の創建とされる歴史ある神社で、「渡良瀬橋」の中でも歌われている。


2012年12月に火災で焼失してしまったが、再建を求める声を受け、翌年2月には復興再建委員会が組織されて全国各地から支援金が寄せられた。森高千里も市内で開催したコンサートで支援を呼び掛けたことにより無事再建できたという。


そして、最後に向かったのは、渡良瀬橋の袂にある「渡良瀬橋」の歌碑だ。


近くのボタンを押すと、森高千里の歌が流れてくる。


歌碑の場所から渡良瀬橋を眺めてみる。


渡良瀬橋からは、きれいな夕焼けと赤城山が見える。


渡良瀬橋を渡り足利市駅に戻る。荷物を回収後、駅前のレンタカー屋さんで車を借りて、みどり市の宿に向かう。翌日に袈裟丸山に登る予定だ。

「2024袈裟丸山登山ツアー:2日目袈裟丸山登山」に続く。

2024東北紅葉登山ツアー:3日目栗駒山

2024-10-11 18:48:49 | 山登り
3日目の天気も今ひとつ。早朝からガスが立ち込め視界は少ない。とりあえず、須川高原温泉前でスタート前の記念撮影。


緑色の源泉が流れる須川高原温泉の露天風呂の横を通って登山口に向かう。


源泉の湯滝の上にあるのは、温泉神社だ。ここで登山の安全を祈願していく。


熱気の漂う湯滝にかかる木道を進む。


すぐに須川高原温泉の蒸し風呂を覗いていく。別名「おいらん風呂」とも呼ばれ、湯あみで硫黄臭がつくのを嫌がったおいらんが蒸し風呂を好んだところからついたともいわれる。


蒸気の噴出口が、煉瓦で塞がれているが、使用するときは煉瓦を外し、ござを敷いてその上に寝ころび蒸気を浴びるようになっている。


名残ヶ原の入り口で、コースマップを確認する。


ガスの中、名残ヶ原の湿原を通過する。


最初の渡渉が始まる。ここが三途の川だと思っていたが、まだ早かった。


2番目の渡渉地点が、三途の川だった。


産沼に到着する。


産沼を過ぎると、栗駒山の斜面が広がっている。ガスがいつの間にか取れ、紅葉が一面に広がっているのが見える。


期待していた通りの素晴らしい紅葉が広がっている。


上に進むにしたがって、雲が薄くなり晴れ間が広がってきていた。




みんな見渡す限りに広がる紅葉の絨毯に感動。写真を撮りまくり始める。




いつの間にか日が差してきた。




栗駒山山頂1627mに到着。


山頂周辺は風が出てきたので、風が当たらない木の陰で昼食休憩をする。やはり、紅葉シーズンは人気があって大勢の登山者が山頂周辺で行き交う。下山も、元来た道を戻っていくが、行く時とまた雰囲気が違い、日が当たった斜面の紅葉を楽しんで歩ける。






標高が下がると、赤から黄色が主となってくる。

須川高原温泉に戻ってくると雨が降り出したが、雨具を着るまでもなくギリギリセーフだった。その後、栗駒山荘の温泉に入って帰路についた。

参考1.栗駒山の高低図&コースタイム


参考2.栗駒山のコースマップ