今まで行ったことのない方面の山にも足を延ばそうと思い、栃木県と群馬県の境にある袈裟丸山に行くことにした。袈裟丸山(けさまるやま)は前袈裟丸山・中袈裟丸山・後袈裟丸山・奥袈裟丸山・法師岳の総称のことで、三百名山の一つに数えられている。一般的には前袈裟丸山がこう呼ばれる。ただ、前袈裟丸山と後袈裟丸山との間のルートは通行止めとなっているので、前袈裟丸山までのルートだけで良しとした。
まずは、JRと私鉄を乗り継ぎ足利市まで行く。1日目は半日ほど時間があったので、初めての足利市の観光をすることにした。
まず、向かったのは足利学校だ。下野国足利荘(現在の栃木県足利市)にあった、平安時代初期(もしくは鎌倉時代)に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関で、日本最古の学校と呼ばれている場所である。
足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、「坂東の学校」と称されたという。
中に入ると、観光ボランティアの人がいて、施設の案内をしてくれるという事でガイドをお願いする。ガイドさんの説明によると、学校と呼ばれる場所は、ここの場所のことで日本には一つしかなかったという。それがいつの間にか、学問を学ぶところが日本中に広がり、それらと区別するために足利を付けるようになったというだ。
学校門の手前には、儒学の始祖である孔子の像が建っている。これは、ふるさと創生事業の1億円で足利市が中国の業者には発注してできたものだという。したがって、狛犬や龍のデザインも中国式で日本とはやや違うようだ。
狛犬は左右でオスメスの違いがあるのだが、メスは足で子供を踏みつけている?というのがポイントらしい。
そして、龍の指は日本式では3本だが、中国式では5本になっているという。
そこで、足の指が5本かどうか触って確かめてみる。
方丈と呼ばれる建物。この中で、学生が勉学に勤しんだといわれる。
玄関から中に入ると、竈などがあり、天井まで吹き抜けになっている。
孔子座像。
足利学校を出て鑁阿寺に向かう途中で、足利尊氏の立像があった。足利尊氏は、室町幕府を開いた初代征夷大将軍で、足利将軍家の祖として知られている。
その先にあるのが、鑁阿寺(ばんなじ)だ。鎌倉時代、建久七年(1197年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山で、山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来が祀られている。
境内には国宝指定の本堂など貴重な建物が多い。また、約4万平方メートルに及ぶ敷地は、元々は足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されている。またこの事から「史跡足利氏宅跡」として、「日本の名城百選」にもなっている。
次に向かったのは、足利織姫神社だ。足利はその昔、機織りの街として栄えていた。1705年、機織りの神社がないことに気づいた戸田忠利により、織姫山の中腹に遷宮されたのが始まりだという。足利織姫神社のご祭神は、機織りの神様「天御鉾命(あめのみほこのみこと)」と、織女であった「天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)」である。足利織姫神社の鳥居をくぐると、総数229段の階段が見える。この階段を上ってから参拝すると願いが叶うとされているため、石段に挑戦してみる。
229段というので数えながら登ってみるが、そのうちキツクなってどうでもよくなったが、何とか登り終える。振り返ると足利市内が良く見え、遠くには富士山やスカイツリーも見えた。
ご祭神の二柱は、機を織って天照大神に献上していたといわれている。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を織りあわせてひとつの生地になることから、男女の結びつきを強める縁結びの神社として知られ、カップルも多い。
参拝を終えると、七色の鳥居をくぐって降りていく。この七色の鳥居は、足利織姫神社の「七つの御神徳」を表現している。神社からみて「人」との縁を結ぶ赤の鳥居から始まり、「健康」と縁を結ぶ黄色、「知恵」と縁を結ぶ緑、「人生」と縁を結ぶ青と続きます。「学業」と縁を結ぶ若草色に、「仕事」と縁を結ぶ朱色、「経営」と縁を結ぶ紫色と、鮮やかな鳥居をくぐっていく。
さて、足利市といえば自分の中では、渡良瀬橋のイメージが強い。大ファンである森高千里の「渡良瀬橋」という歌で頭にインスパイアされている。ここからは、「渡良瀬橋」の聖地巡礼に向かう。広い道路を歩いていくと、交差点の角に今ではなかなか見られない公衆電話ボックスがあった。ここだと思い、横断歩道を渡り反対側の道に出る。
やはり、「床屋の隣にポツンとある公衆電話」の歌詞通り、床屋さんもしっかりあった。出窓には、森高のポスターも貼ってある。
そしてその先にあるのが八雲神社だ。八雲神社はおよそ1100年ほど前の創建とされる歴史ある神社で、「渡良瀬橋」の中でも歌われている。
2012年12月に火災で焼失してしまったが、再建を求める声を受け、翌年2月には復興再建委員会が組織されて全国各地から支援金が寄せられた。森高千里も市内で開催したコンサートで支援を呼び掛けたことにより無事再建できたという。
そして、最後に向かったのは、渡良瀬橋の袂にある「渡良瀬橋」の歌碑だ。
近くのボタンを押すと、森高千里の歌が流れてくる。
歌碑の場所から渡良瀬橋を眺めてみる。
渡良瀬橋からは、きれいな夕焼けと赤城山が見える。
渡良瀬橋を渡り足利市駅に戻る。荷物を回収後、駅前のレンタカー屋さんで車を借りて、みどり市の宿に向かう。翌日に袈裟丸山に登る予定だ。
「2024袈裟丸山登山ツアー:2日目袈裟丸山登山」に続く。
まずは、JRと私鉄を乗り継ぎ足利市まで行く。1日目は半日ほど時間があったので、初めての足利市の観光をすることにした。
まず、向かったのは足利学校だ。下野国足利荘(現在の栃木県足利市)にあった、平安時代初期(もしくは鎌倉時代)に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関で、日本最古の学校と呼ばれている場所である。
足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、「坂東の学校」と称されたという。
中に入ると、観光ボランティアの人がいて、施設の案内をしてくれるという事でガイドをお願いする。ガイドさんの説明によると、学校と呼ばれる場所は、ここの場所のことで日本には一つしかなかったという。それがいつの間にか、学問を学ぶところが日本中に広がり、それらと区別するために足利を付けるようになったというだ。
学校門の手前には、儒学の始祖である孔子の像が建っている。これは、ふるさと創生事業の1億円で足利市が中国の業者には発注してできたものだという。したがって、狛犬や龍のデザインも中国式で日本とはやや違うようだ。
狛犬は左右でオスメスの違いがあるのだが、メスは足で子供を踏みつけている?というのがポイントらしい。
そして、龍の指は日本式では3本だが、中国式では5本になっているという。
そこで、足の指が5本かどうか触って確かめてみる。
方丈と呼ばれる建物。この中で、学生が勉学に勤しんだといわれる。
玄関から中に入ると、竈などがあり、天井まで吹き抜けになっている。
孔子座像。
足利学校を出て鑁阿寺に向かう途中で、足利尊氏の立像があった。足利尊氏は、室町幕府を開いた初代征夷大将軍で、足利将軍家の祖として知られている。
その先にあるのが、鑁阿寺(ばんなじ)だ。鎌倉時代、建久七年(1197年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山で、山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来が祀られている。
境内には国宝指定の本堂など貴重な建物が多い。また、約4万平方メートルに及ぶ敷地は、元々は足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されている。またこの事から「史跡足利氏宅跡」として、「日本の名城百選」にもなっている。
次に向かったのは、足利織姫神社だ。足利はその昔、機織りの街として栄えていた。1705年、機織りの神社がないことに気づいた戸田忠利により、織姫山の中腹に遷宮されたのが始まりだという。足利織姫神社のご祭神は、機織りの神様「天御鉾命(あめのみほこのみこと)」と、織女であった「天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)」である。足利織姫神社の鳥居をくぐると、総数229段の階段が見える。この階段を上ってから参拝すると願いが叶うとされているため、石段に挑戦してみる。
229段というので数えながら登ってみるが、そのうちキツクなってどうでもよくなったが、何とか登り終える。振り返ると足利市内が良く見え、遠くには富士山やスカイツリーも見えた。
ご祭神の二柱は、機を織って天照大神に献上していたといわれている。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を織りあわせてひとつの生地になることから、男女の結びつきを強める縁結びの神社として知られ、カップルも多い。
参拝を終えると、七色の鳥居をくぐって降りていく。この七色の鳥居は、足利織姫神社の「七つの御神徳」を表現している。神社からみて「人」との縁を結ぶ赤の鳥居から始まり、「健康」と縁を結ぶ黄色、「知恵」と縁を結ぶ緑、「人生」と縁を結ぶ青と続きます。「学業」と縁を結ぶ若草色に、「仕事」と縁を結ぶ朱色、「経営」と縁を結ぶ紫色と、鮮やかな鳥居をくぐっていく。
さて、足利市といえば自分の中では、渡良瀬橋のイメージが強い。大ファンである森高千里の「渡良瀬橋」という歌で頭にインスパイアされている。ここからは、「渡良瀬橋」の聖地巡礼に向かう。広い道路を歩いていくと、交差点の角に今ではなかなか見られない公衆電話ボックスがあった。ここだと思い、横断歩道を渡り反対側の道に出る。
やはり、「床屋の隣にポツンとある公衆電話」の歌詞通り、床屋さんもしっかりあった。出窓には、森高のポスターも貼ってある。
そしてその先にあるのが八雲神社だ。八雲神社はおよそ1100年ほど前の創建とされる歴史ある神社で、「渡良瀬橋」の中でも歌われている。
2012年12月に火災で焼失してしまったが、再建を求める声を受け、翌年2月には復興再建委員会が組織されて全国各地から支援金が寄せられた。森高千里も市内で開催したコンサートで支援を呼び掛けたことにより無事再建できたという。
そして、最後に向かったのは、渡良瀬橋の袂にある「渡良瀬橋」の歌碑だ。
近くのボタンを押すと、森高千里の歌が流れてくる。
歌碑の場所から渡良瀬橋を眺めてみる。
渡良瀬橋からは、きれいな夕焼けと赤城山が見える。
渡良瀬橋を渡り足利市駅に戻る。荷物を回収後、駅前のレンタカー屋さんで車を借りて、みどり市の宿に向かう。翌日に袈裟丸山に登る予定だ。
「2024袈裟丸山登山ツアー:2日目袈裟丸山登山」に続く。