とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

2024松代トレイルツアー:2日目地下壕観光

2024-11-14 18:17:17 | 観光
松代には、太平洋戦争末期、長野市松代町の三つの山(象山・舞鶴山・皆神山)を中心に作られた地下壕などの地下軍事施設群があったという。松代大本営と呼ばれ、敗色濃厚だった当時、軍部は本土決戦を行うことに備え、「国体護持(天皇を頂点とする国家体制の維持)」などのよりよい和平条件を得ようと考え、この決戦の指揮中枢を守るためのシェルターとして松代大本営の地下壕が計画されたというのだ。この工事には、多くの朝鮮人労働者が動員され、過酷な労働を強いられた。しかし、その犠牲者などについてはほとんど明らかにされていないという。今回、松代に来て初めてそんな場所があったことを知った。

2日目は、松代ラウンドトレイルの大会に参加したのだが、大会の前後に空き時間があり、スタート前に、まず象山地下壕に立ち寄る。見学は無料だが、管理人室に立ち寄り、管理人どこから何人で来たかを告げ、安全のため用意されているヘルメットを着用する。


地下壕入り口の左側に象山地下壕全体の様子が描かれていて、この象山地下壕には、政府、日本放送協会(NHK)、中央電話局などが移転してくる予定だったらしい。


いよいよ地下壕の中に入っていく。幅4m、中心の高さ2.7m、軒高2mの縦坑(本抗)が20m間隔で20本、それをつなぐ横坑(連絡抗)が50m間隔で掘られ碁盤の目のように造られている。全長は約5854mあり、松代で最大の地下壕だという。このうちの519mが公開されている。


数百m進んだところで広い場所があったので、写真を撮る。地下壕の中は、岩がむき出しになっており、こんな場所に大本営を移転しようと考えたこと自体が、当時の日本軍が狂気の沙汰であったことが窺い知れる。それにしても、広大な地下壕を僅か8ヶ月ほどで8割方完成させたという事は、相当な人の数を要したことであろう。終戦に伴い、工事は中止になったというが、強制的に労働に駆り出された朝鮮の人たちが相当数犠牲になったらしく、日本人としてこのような戦争遺産が松代に残っていることを忘れてはならないだろう。


その後、急いでトレランの会場に向かう。

我々の仲間が最後にゴールしたのは、14時過ぎ。まだ明るいので、舞鶴地下壕に向かう。ここも大本営と天皇・皇后御座所(ござしょ)、宮内省が入る予定だったというが、終戦後、地下壕を有効に利用する為、1947年に中央気象台松代分室が設置され地震観測が始まり、現在は、気象庁地震観測所になっている。


主要な地震計は、舞鶴山山頂下100mの松代大本営跡の地下坑道内に設置され、1965年8月3日から始まった松代群発地震で貴重なデータを採取するなど、日本における地震観測研究の中心的組織であったというが、現在は常駐する職員はいなくなっている。




そして、地上部にある半地下式のコンクリート建物は、地震観測室庁舎として利用されているが、当初は、天皇御座所として利用する予定だったという。


室内には立ち入れないが、建物の外から窓越しに部屋の様子を見られる。天皇の居室に予定されていた和室が残っている。実際には、天皇がここを使うことはなかったのだが、莫大なお金が使われたことであろうと思うと、虚しさを感じてしまう。


2日間で、知らなかった松代の歴史的背景を知ることが出来て、大いに勉強になった。

「2024松代トレイルツアー:3日目尼巌山・奇妙山トレッキング」に続く。

2024松代トレイルツアー:1日目松代観光

2024-11-12 15:47:24 | 観光
11/8~10にかけて長野県の松代に出かけてきた。メインの目的は、9日に行われる松代ラウンドトレイルに参加するためだ。1日目は、昼過ぎに着いたので、松代の観光をすることにした。

まずは、松代城跡の駐車場で観光ガイドの人と待ち合わせをする。観光ガイドは、友人である地元のIさんの発案で、あらかじめ手配してくれてあった。松代城は、武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦で、武田側の拠点として築城されたといわれている。千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城」と呼ばれ、江戸時代、真田氏が松代藩主となると、松代城を中心に真田10万石の城下町が発展したという。


その後、ガイドと共に歩いて真田宝物館に移動する。真田家十二代当主・幸治氏から1966(昭和41)年に譲られた武具、調度品、書画、文書などの大名道具を収蔵・展示する博物館である。


松代藩真田家の歴史と、大名道具を紹介する常設展示室、テーマを定めた企画展、特別企画展が行われる企画展示室からなっている。


次に向かったのは、真田邸だ。九代藩主・幸教が、義母・貞松院(幸良の夫人)の住まいとして1864(元治元)年に建築した松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていたそうだ。


出入り口となる正面の玄関には、広い式台が設けられている。式台は玄関の低くなった板敷の部分で、武家の家にだけ許された設備である。また、正面玄関は江戸時代には殿様やお客様の出入りにだけ使われ、家老など上級武士でも、右の「小玄関」から出入したといわれるが、我々は、正面玄関から入る。


真田邸は、江戸末期の御殿建築の様式をよく伝え、表座敷に居間、湯殿(お風呂)に雪隠(トイレ)がそのまま残る貴重な建物だ。特に、居間から座って眺める庭園は、「水心秋月亭」と名付けられ、後ろに見える山も景色に取り入れた美しい景観だ。


最後に寄ったのは、文武学校。文武を奨励した松代藩八代藩主・幸貫が水戸の弘道館にならって計画し、九代・幸教の時代に完成した松代藩の藩校である。教室にあたる文学所、武術を学ぶ剣術所、柔術所、弓術所、槍術所などが配置されている。


柔術所と呼ばれる建物では、バーチャル砲術を体験できる。バーチャル砲術体験は、「スペンサー銃」「火縄銃」「臼砲」の3種類を体験する。実際に体験してみたものの、火縄銃の重さにビックリ。なかなか標的には当たらず、未熟者と叱られてしまった。


その後、松代城跡に戻り、集まったメンバー8人で城の入り口前で記念撮影する。


城内をぐるっと回ってから、この日の宿に向かい、1日目が終わった。

「2024松代トレイルツアー:2日目松代ラウンドトレイル」に続く。

2024袈裟丸山登山ツアー:1日目足利市観光

2024-10-23 10:48:40 | 観光
今まで行ったことのない方面の山にも足を延ばそうと思い、栃木県と群馬県の境にある袈裟丸山に行くことにした。袈裟丸山(けさまるやま)は前袈裟丸山・中袈裟丸山・後袈裟丸山・奥袈裟丸山・法師岳の総称のことで、三百名山の一つに数えられている。一般的には前袈裟丸山がこう呼ばれる。ただ、前袈裟丸山と後袈裟丸山との間のルートは通行止めとなっているので、前袈裟丸山までのルートだけで良しとした。

まずは、JRと私鉄を乗り継ぎ足利市まで行く。1日目は半日ほど時間があったので、初めての足利市の観光をすることにした。

まず、向かったのは足利学校だ。下野国足利荘(現在の栃木県足利市)にあった、平安時代初期(もしくは鎌倉時代)に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関で、日本最古の学校と呼ばれている場所である。


足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、「坂東の学校」と称されたという。


中に入ると、観光ボランティアの人がいて、施設の案内をしてくれるという事でガイドをお願いする。ガイドさんの説明によると、学校と呼ばれる場所は、ここの場所のことで日本には一つしかなかったという。それがいつの間にか、学問を学ぶところが日本中に広がり、それらと区別するために足利を付けるようになったというだ。


学校門の手前には、儒学の始祖である孔子の像が建っている。これは、ふるさと創生事業の1億円で足利市が中国の業者には発注してできたものだという。したがって、狛犬や龍のデザインも中国式で日本とはやや違うようだ。


狛犬は左右でオスメスの違いがあるのだが、メスは足で子供を踏みつけている?というのがポイントらしい。


そして、龍の指は日本式では3本だが、中国式では5本になっているという。


そこで、足の指が5本かどうか触って確かめてみる。


方丈と呼ばれる建物。この中で、学生が勉学に勤しんだといわれる。


玄関から中に入ると、竈などがあり、天井まで吹き抜けになっている。


孔子座像。


足利学校を出て鑁阿寺に向かう途中で、足利尊氏の立像があった。足利尊氏は、室町幕府を開いた初代征夷大将軍で、足利将軍家の祖として知られている。


その先にあるのが、鑁阿寺(ばんなじ)だ。鎌倉時代、建久七年(1197年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山で、山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来が祀られている。


境内には国宝指定の本堂など貴重な建物が多い。また、約4万平方メートルに及ぶ敷地は、元々は足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されている。またこの事から「史跡足利氏宅跡」として、「日本の名城百選」にもなっている。


次に向かったのは、足利織姫神社だ。足利はその昔、機織りの街として栄えていた。1705年、機織りの神社がないことに気づいた戸田忠利により、織姫山の中腹に遷宮されたのが始まりだという。足利織姫神社のご祭神は、機織りの神様「天御鉾命(あめのみほこのみこと)」と、織女であった「天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)」である。足利織姫神社の鳥居をくぐると、総数229段の階段が見える。この階段を上ってから参拝すると願いが叶うとされているため、石段に挑戦してみる。


229段というので数えながら登ってみるが、そのうちキツクなってどうでもよくなったが、何とか登り終える。振り返ると足利市内が良く見え、遠くには富士山やスカイツリーも見えた。


ご祭神の二柱は、機を織って天照大神に献上していたといわれている。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を織りあわせてひとつの生地になることから、男女の結びつきを強める縁結びの神社として知られ、カップルも多い。


参拝を終えると、七色の鳥居をくぐって降りていく。この七色の鳥居は、足利織姫神社の「七つの御神徳」を表現している。神社からみて「人」との縁を結ぶ赤の鳥居から始まり、「健康」と縁を結ぶ黄色、「知恵」と縁を結ぶ緑、「人生」と縁を結ぶ青と続きます。「学業」と縁を結ぶ若草色に、「仕事」と縁を結ぶ朱色、「経営」と縁を結ぶ紫色と、鮮やかな鳥居をくぐっていく。




さて、足利市といえば自分の中では、渡良瀬橋のイメージが強い。大ファンである森高千里の「渡良瀬橋」という歌で頭にインスパイアされている。ここからは、「渡良瀬橋」の聖地巡礼に向かう。広い道路を歩いていくと、交差点の角に今ではなかなか見られない公衆電話ボックスがあった。ここだと思い、横断歩道を渡り反対側の道に出る。


やはり、「床屋の隣にポツンとある公衆電話」の歌詞通り、床屋さんもしっかりあった。出窓には、森高のポスターも貼ってある。


そしてその先にあるのが八雲神社だ。八雲神社はおよそ1100年ほど前の創建とされる歴史ある神社で、「渡良瀬橋」の中でも歌われている。


2012年12月に火災で焼失してしまったが、再建を求める声を受け、翌年2月には復興再建委員会が組織されて全国各地から支援金が寄せられた。森高千里も市内で開催したコンサートで支援を呼び掛けたことにより無事再建できたという。


そして、最後に向かったのは、渡良瀬橋の袂にある「渡良瀬橋」の歌碑だ。


近くのボタンを押すと、森高千里の歌が流れてくる。


歌碑の場所から渡良瀬橋を眺めてみる。


渡良瀬橋からは、きれいな夕焼けと赤城山が見える。


渡良瀬橋を渡り足利市駅に戻る。荷物を回収後、駅前のレンタカー屋さんで車を借りて、みどり市の宿に向かう。翌日に袈裟丸山に登る予定だ。

「2024袈裟丸山登山ツアー:2日目袈裟丸山登山」に続く。

2024東北紅葉登山ツアー:1日目猊鼻渓

2024-10-09 11:38:14 | 観光
10月に入って最初の登山は、東北方面の紅葉を見に行くことにした。まず一日目は、移動のみで東北新幹線の一ノ関駅で下車する。ホーム内には、なぜかピカチュウがお出迎えだ。


ちょうどお昼を過ぎていたので、一ノ関駅近くの「ふじせい」という店に寄っていく。ここは、一ノ関の郷土料理であるもち料理を気軽に食べられる店だ。箸休めの大根おろしに9種類のもち料理(あんこ餅・ずんだ餅・くるみ餅・ごま餅・じゅうね餅・納豆餅・ショウガ餅・ふすべ餅、引き菜のお雑煮)の入った「ひと口もち膳」をいただく。


昼を済ませると、駅前でレンタカーを借り、猊鼻渓まで移動する。猊鼻渓は、日本百景の一つにも数えられ、砂鉄川の浸食でできた高さ100メートルの絶壁に奇岩、洞窟、滝など迫力のある絶景が広がる景勝地だ。


猊鼻渓名物といえば、船頭が棹一本で操る「舟下り」だ。どの船も満員で、続々と観光客が乗船していく。


早速我々も乗船し、船下りに出発する。船頭さんは、この日がお客を乗せての初めての操船だという事で、ちょっと心配だったが、ベテランの船頭がもう一人付いていたので一安心する。


絶壁の木々は少し色づき始めており、紅葉シーズンはなかなか見ごたえがありそうだ。


船頭の案内を聞き、景色を見ているうちに船は進んでいく。


長さ約30mの鍾乳洞「毘沙門窟(びしゃもんくつ)」の内部には毘沙門天が祀られ、設置された賽銭箱にお賽銭を投げることができるというが、船が近づかないと賽銭箱に入れるのは難しい。


前の方には、折り返して戻ってきた船が見える。


川の流れはほとんどないので、船が揺れることもなく景色をゆっくり眺めていられる。


人の顔のように見える岩。


折り返し地点の船着き場から岸に上がり、散策する。


猊鼻渓一の大きさを誇る岩壁「大猊鼻岩(だいげいびがん)」をバックに記念撮影。


橋を渡り、「大猊鼻岩」の岩穴に粘土玉を投げ入れる「運玉投げ」場に向かう。縁や愛、寿、財など、約10種類の粘土玉の中から自分の願いにあったものを選び購入したら、岩穴に粘土玉を投げ入れる。穴に粘土玉が入ると、願いが叶うと言われているが、穴に入れるのはなかなか難しい。


散策が終わったら、ふたたび船に乗って帰路につく。後半のハイライトはベテラン船頭さんによる舟唄。舟を漕ぎながら、猊鼻追分を声高らかに披露してくれる。静寂に包まれた渓谷に響き渡る舟唄はなんとも心地よく、時間の流れがゆるやかに感じられる。


往復90分の船下りが終わり、駐車場に戻るとき、川の上に架かった線路の上を、ピカチュウがラッピングされた列車が通っていった。後で調べたら、一ノ関・気仙沼間を運行しているPOKÉMON with YOU トレインという観光列車だった。どうりで、大勢の人がカメラを構えていたわけだ。


猊鼻渓を出ると、焼石クアパーク「ひめかゆ」に向かう。「ひめかゆ」に宿泊して、早朝から焼石岳に登る予定だ。

「2024東北紅葉登山ツアー:2日目焼石岳」に続く。

2024越後里山三山登山ツアー:2日目観光

2024-05-29 22:03:55 | 観光
袴腰山から下山してもまだお昼過ぎだ。近くの道の駅「漢学の里しただ」でランチ休憩とする。


お腹も満たされたので、午後からは観光だ。まずは、Mさんお勧めのSnow Peak MUSEUMに向かう。スノーピークは、燕三条に本社を持つアウトドアグッズのメーカーだ。


ショップで製品を見ていると、MUSEUMの案内が始まるという事で、会場に向かう。


2階からガラス越しに1階の社員のワークスペースを見学する。この日は休日のため、社員はいないが、平日はこのフロアでアウトドアグッズの企画や商品開発が行われているという。


テントやタープ、服などを回収して、ポリエステルの粉末から繊維状に変え、新たな服を作る装置だという。


テラスからキャンプ場を眺める。スノーピークの周囲は広大な敷地が広がり、キャンプ場になっている。


最後に1階のMUSEUMの中に入る。ここは、スノーピークが、ユーザーとともに築き上げてきたものづくりの歴史、日本のオートキャンプの歴史を振り返る展示空間で、ユーザーから寄贈されたスノーピーク製品約200点と、その製品とともに過ごした寄贈者のキャンプの思い出などが展示されている。正面の壁に、ものづくりの歴史が映像で紹介された。


スノーピークを出て次に向かったのは、諏訪田製作所だ。1926年、ニッパーの前身「喰切(くいきり)」の鍛冶屋として創業。以来、ものを挟んで切る道具に特化。刃物本来の持つ機能「切る」ことを追い求め、鍛造から仕上げまですべて熟練職人の手で行っている。爪切りでは、他の追随を許さない会社だ。

工場は、誰でも見学ができ、ショップも併設されている。ショップの入り口に入ると、爪切り等の材料である鉄鋼の廃材を利用した宇宙人のようなオブジェが展示されている。


こちらは、獅子のオブジェ。


階段を下りると、実際に作業をしている様子が見られる。数人の従業員が、刃物を研磨しているようだ。


工場内を見学した後、ショップに戻り、よく切れるというSUWADAの剪定鋏と野菜鋏を高いけどつい買ってしまった。

最後に、予定にはなかった「みつけイングリッシュガーデン」にも案内してもらった。日本の英国園芸研究の第一人者であるケイ山田さんのデザイン監修による、本格的な英国庭園様式のガーデンだ。多くの花が咲き乱れる、美しい庭園を見ることが出来た。




「2024越後里山三山登山ツアー:3日目弥彦山」に続く。

2024東寺夜間拝観

2024-04-18 07:07:02 | 観光
明日香村周遊を終え、飛鳥駅から東寺駅まで移動する。駅を降りて、東寺まで歩いていくと、そろそろ日が暮れ始め、ライトアップが始まっていた。この日は、「夜の特別公開 東寺 夜桜ライトアップ(金堂、講堂夜間特別拝観)」の最終日となり、長い一日の最終イベントに突入だ。

特別拝観料を入り口で払い東寺の境内に入る。最終日というのに大賑わいで数珠つなぎに観光客が入っていく。ふとお濠を見るとライトアップされた鳥の置物が見えた。と、思ったら動いたので、本物のシラサギとわかった。


そして、お濠の先にはライトアップされた五重塔と水面に映る五重塔がダブルで見える。


さらに進むと、水面には桜の花弁で埋め尽くされ花筏となっている。


五重塔近くまで行くと、まだ残っていた桜とのコラボが見られた。


広場の周りは、不二桜や染井吉野・枝垂桜など約200本の桜の木がライトアップによって、金色やピンク、緑、黄、空の青とカラフルで幻想的な空間が広がっている。


やはり、五重塔をバックに記念写真を撮る。


黄金色に輝く五重塔。東寺の五重塔は54.8mと日本一の高さを誇る木造塔だ。


桜の花びらを通して撮影すると、完全に黄金の塔になる。


八重桜越しにも五重塔を撮る。


金堂および講堂の夜間特別拝観もして、帰路につく頃、最後に五重塔を眺めると夜の帳が一段と落ちて、さらに金色に浮き上がっているように見えた。


東寺からは、歩いて宿に向かい、遅い夕食を済ますと長い一日が終わった。

2024三輪山登拝&明日香村周遊

2024-04-17 18:49:32 | 観光
大和三山登山の翌日、町屋ゲストハウス三輪前で集合写真を撮る。三輪といえばソーメン発祥の地として有名だが、日本最古の神社の一つとして知られる大神(おおみわ)神社のある町でもあり、辺りは何もなく静かで厳かな雰囲気が漂う街並みが良かった。


町屋ゲストハウスのご夫婦に見送られて、大神神社に向かう。


大神神社の大鳥居が見えてきた。高さ32.2m、柱間23mの巨大な鳥居だ。大きさ的には、熊野本宮大社の旧社地・大斎原に建立された高さ34m、幅42mの鳥居が日本一だと思うが、それに負けず劣らずの大鳥居である。


しかし、我々は、昔からある一之鳥居から参道に向かう。大鳥居が出来たのは、1986年と新しく、かつて参詣者はこの鳥居をくぐって神社に参詣したのだという。


三輪山を正面に眺めながら、整備された参道を進む。


二ノ鳥居まで来た。


玉砂利が敷き詰められた参道をさらに進む。


大神神社に到着。『古事記』や『日本書紀』に記され、日本最古の神社の一つとされる古社。ご祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が三輪山に鎮まることから、古代より本殿は設けず、拝殿の奥にある三ツ鳥居を通して三輪山を拝する。境内は神気に包まれ、清々しい気持ちになる。縁結びや夫婦円満を願う女性も多く訪れるそうだ。


祈祷殿の前で参拝記念の集合写真。


大神神社から、薬草などが植えられた「くすり道」を通って奥へ進むと狭井神社(さいじんじゃ)がある。古くから病気平癒の神様として信仰され、拝殿の脇には、万病に効くといわれ薬水とも呼ばれる霊泉が湧き出る薬井戸があり、自由に飲むことができる。また、三輪山登拝をする人たちの入り口でもある。本来、ご神体と呼ばれる山は、勝手に入ることは許されていないが、狭井神社で受付を済ませ、注意事項を守ることで登拝をすることが出来るのだ。


ここから先は、登山やハイキングではなく、慎みと祈りの心を持ち、お参りを目的に登るという事で、撮影は禁止、山内のことは他言無用とされている。往復2時間程度の登拝であったが、山頂(467m)では、神秘的なパワーをいただいたような気分になった。

三輪山登拝を済ますと三輪駅まで歩き、電車で飛鳥駅まで移動する。


飛鳥駅前でレンタサイクルを借り、電動自転車で移動する。明日香村は坂が多いので電動自転車の方が移動しやすい。まずは高松塚壁画館前でお昼を済ませて高松塚古墳を見ていく。


高松塚壁画館では、古墳内の石室で発見された色彩鮮やかな西壁の女子群像の壁画が有名だが、それらの発見の様子や副葬品、棺のレプリカ等が展示されている。


明日香村では、自転車で移動する人が多く、サイクリング道が整備されている。


次に向かったのは、有名な亀石。カメのような石でかわいらしい巨石。亀石は現在南西を向いているが、西を向いた時、大和盆地は泥沼になるという言い伝えがある。


厩戸皇子(聖徳太子)生誕の地とされる橘寺の参道入り口。


石碑の横にポツンと咲く花桃がいい。


橘寺で拝観料を払って中に入る。


橘寺境内には、聖徳太子を乗せて全国を駆け巡ったと伝えられる「黒駒」の像が建っている。


橘寺の本堂のすぐ横にあるのは飛鳥時代の石造物といわれる二面石。高さが1メートルほどの石の左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現しているといわれている。こちらは悪相。


反対側に回ると善相だ。


飛鳥寺に行く途中に寄ったのは、酒船石。長方形に近い形の花崗岩でできており、平らに加工された表面には、円、隅丸方形、楕円の窪みが彫られ、それらを直線で溝が結ぶ不思議な模様がある。酒造りに用いたと伝わることからこの名が付いたが、用途はいまだにわかっていないという。


酒船石のすぐ近くにあるのが飛鳥寺だ。


609年、当代一流の仏師であった仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)によって造られた日本最古の仏像。寺の意向で自由に写真を撮ることが出来る。


次の目的地とした石舞台古墳まで頑張って自転車を走らせる。


ここに来るのはもう何度目かになるが、石舞台古墳の巨岩に圧倒される。


巨石の下には大きな空間が広がっているのも凄い。


最後に向かったのは、キトラ古墳。名前の由来は、中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説、古墳の南側の地名「小字北浦」がなまって「キトラ」になったという説、またキトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎) から「亀虎」と呼ばれていたという説など、いろいろな説がある。石室の中で見つかった本格的天文図や四つの方位を守る神とされる四神や十二支の美しい絵などは、キトラ古墳壁画体験館四神の館で見ることが出来る。


この日は、午前中は山登り、午後はサイクリングといろいろ動き回ったが、さらに夜の予定があるので、飛鳥駅から京都に向かった。

参考1.三輪山の高低図&コースタイム


参考2.三輪山のコースマップ

2024明日香村等観光

2024-03-12 21:33:26 | 観光
先週末は、飛鳥ハーフマラソンに参加するため明日香村に出かけていた。明日香村は何度か行ったことがあり、今回で3回目となるが、面白い遺跡や文化財が数多くあり何度行っても興味深い。

まず、最初に立ち寄ったのは、飛鳥資料館だ。日本の心のふるさと「飛鳥」の歴史と文化を紹介する資料館である。飛鳥は、古代国家が誕生した場所として広く知られ、592年に推古天皇が豊浦宮に即位してから、694年に持統天皇が藤原京へ遷都するまでの約100年間、飛鳥には天皇の宮殿が継続的に営まれ、政治と文化の中心として栄えた。壮麗な宮殿、石組みの苑池や噴水施設、時を告げる水時計(漏刻)、猿石や亀石などの石造物が造られ、石舞台古墳などの古墳も造られていた時代だ。キトラ古墳・高松塚古墳には大陸風の極彩色壁画が描かれた。資料館には、これらの数多くの資料が展示されている。

資料館の庭には、いろいろな石造物のレプリカが置かれている。一番目立っているのが、そのユーモラスな顔つきから明日香村観光のシンボルともなっている亀石だ。


二面石のレプリカ。善面と悪面2つの顔をもつ石造物で、実物は橘寺境内にある。


石人像のレプリカ。盃を口にあてた男性に女性が寄り添う形をしていて、古代の噴水施設とされている。本物は、飛鳥資料館内で見学できる。


高松塚古墳の西壁女子群像の顔ハメ。


この他にも、数多くの発掘調査でみつかった遺構や遺物の資料が展示されていて、埋もれていた歴史を垣間見ることが出来、興味深い。明日香村には、なつかしい田園風景の中に、はるか古代の遺跡があちこちに点在しているが、目に見えるものだけでなく、地面の下にも『日本書紀』や『万葉集』の風景が未だに埋もれているという。

その後、立ち寄ったのは岡寺だ。正式には、『東光山 真珠院 龍蓋寺』となるが、古くからこの土地の名から『岡にある寺』=『岡寺』として親しみもこめて呼ばれており、現在でも正式名の『龍蓋寺』よりも『岡寺』と呼ばれている。真言宗豊山派に属しており西国三十三ヶ所観音霊場の第七番札所で、日本最初のやくよけ霊場としても知られている。

大師堂。宗祖 弘法大師が御本尊。お堂の前には大師の幼少期の『稚児大師像』と四国の地を巡り修行していた頃の『修行大師像』が建っている。


三重宝塔。軒先に吊るされた琴は全国的に見ても復元されている例はなく、珍しいという。夜間には、ライトアップされて一際目立つ塔だ。


厄除鐘。厄除のため誰もが自由に突けるのがありがたい。


三重宝塔から見た岡寺の全景。


岡寺本堂。本堂には、奈良時代の制作にかかる巨大な如意輪観音座像が本尊としてまつられている。塑像(土でできた仏像)としては日本最大の仏様で、日本三大仏にもあげられており、重要文化財に指定されているという。


本堂の前では、西国三十三ヶ所観音霊場巡りの団体の人たちが、熱心にお経を上げていた。


岡寺のすぐ下の民宿に泊まる予定だったので、そこでレンタサイクルを借り、他の観光スポットを回る。最初にレプリカの亀石を見たが、やはり本物がいい。畑や住宅の間に突然現われた巨石が亀石だ。重さ10トンを超す花崗岩に亀の顔が巧みに彫られているが、何のためにここにあるのかは謎とされている。亀が西を向いた時、大和国一帯が泥の海に沈むという言い伝えが残っているそうだ。


次に向かったのは、飛鳥寺だ。588年蘇我馬子が建てたと伝わる日本最古の本格的仏教寺院。大化の改新の主役、中大兄皇子と中臣鎌足が知り合ったのも飛鳥寺の槻木の下で行われた蹴鞠(けまり)の会であったといわれている。


飛鳥寺のご本尊である飛鳥大仏。609年、当代一流の仏師であった仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)によって造られた日本最古の仏像だ。通常、ご本尊は撮影禁止のところが多いのだが、飛鳥大仏だけは撮影OKなのだ。そして、大仏様の表情が、見る方向によって表情が違うという。右から見ると、目尻が長く、口元がキュッと締まっている。


対して、左から見ると、ちいさな口元で柔和なやさしい表情に見える。


夕方近くとなり、寒くなってきたので宿に帰る事にしたが、途中にあった酒船石にも寄っていく。長さ5.3m、幅2.27m、厚さ1mの石の平坦な上面に奇妙な溝が彫られている。昔、酒の醸造に使用されたという言い伝えから酒船石と言われるがいろいろな説があるようだ。


翌日、マラソンを走った後、石舞台古墳を見ていく。6世紀の築造。巨石30個を積み上げて造られた石室古墳。その規模は日本最大級を誇る。盛土が失われて、露出した天井石の上面が平らなことにちなんで、石舞台と呼ばれる。石の総重量は推定2,300t、古墳最大の巨岩である天井石は、南側が約77t、北側約64tもあるという。この巨大古墳が誰の墓なのかは不明であるが、付近に蘇我馬子の庭園があったことから、馬子の墓ではないかとの説が有力だ。


開口部から中に入ってみる。


石室の長さは19.1m、玄室は高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6mといい、如何に巨大な石室だというのがよく分かる。


入り口の案内看板には、石舞台古墳をどうやって作ったのかという解説が載っていたが、膨大な年月と労働力がかかったのではないかと思われる。当時の権力者の力の強大さを窺い知れる。


帰り道の最後に寄ったのは、橿原市の今井町だ。戦国時代に称念寺を中心に発展した寺内町で、東西約600m、南北約310mの敷地に、約600件の建物が建ち、うち約500件が伝統的建造物。その数は全国の中で最も多く、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。防衛のため町を環濠で囲んだ城塞都市で、織田信長との戦いで町を守り抜いた功績を称えられ、自治権が与えられた。以降、商業都市として発展を遂げ、「海の堺 陸の今井」と呼ばれるほど、豊かな経済力を手に入れる。江戸時代になると独自の紙幣「今井札」を流通させ、「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄したという。


現在も江戸時代の風情を残す町並みは、映画やドラマの撮影に使われることもあり、多くの人が訪れる観光地として注目されている。江戸時代の建築物内部の見学だけでなく、町家を改装したお店でランチやティータイムを楽しむこともできるのがいい。知り合いから奈良に行ったらぜひ寄ったらと聞いたので、初めて寄ってみたのだが、これほどの広範囲で江戸時代の風情を残す町並みが残っているとは思いもよらなかった。


旧米谷家住宅。かつて「米忠」という屋号で金物屋を営んでいた豪商の旧家。今井町では珍しい広い土間には大きなかまどが残り、土間を抜けた先には数寄屋風の蔵前座敷もある。裏庭の縁側は、CMのロケ地として話題になったそうだ。


見学できるのは、17時までと言うことであまり時間もなく、とても全部を見て回ることはできなかった。奈良県には、まだまだ知らない名所がたくさんあることがよく分かった。

2024岡の里名水マラソンツアー:3日目別府観光

2024-03-07 18:23:28 | 観光
最終日は、早朝に宿を出て別府市内に向かう。大分県と言えば、観光の王道は別府だ。まずは、4年前コロナ禍で入園できなかった高崎山自然動物園に行く。

高崎山自然動物園には、大分マリーンパレス水族館「うみたまご」の駐車場から、国道10号にかかる陸橋を渡っていく。


陸橋の下は、片側2車線の国道10号が通っており、交通量は激しい。


陸橋を渡りきったところに、階段とエレベーターがあり、高崎山自然動物園の入園受付に行ける。


高崎山のサルの餌付けは、高崎山山麓の万寿寺別院の境内である。まずは、小型モノレール「さるっこレール」で餌付け場に向かう。モノレールを降りると、すぐ目の前に、多数のサルが我が物顔に歩き回っている。


サルへの餌付けは、30分に1回行われるとあって、もうじきその時間になるとあって、係員の周りには、多くのサルが集まってきていた。


餌の小麦を撒き始めると、一斉にサルが集まり始め、その勢いはものすごい。


地面に落ちた餌を一つ一つ摘まみだしている様子が可愛い。


高崎山のサルは、野生で国の天然記念物に指定されている。終戦直後には200頭程度にまで増えて農作物への被害が深刻となったため、狩猟などによるニホンザルの駆除が試みられたが失敗する。これを耳にした当時の大分市長が、駆除に代えて餌付けし観光資源として利用しようとしたのが高崎山自然動物園の始まりだという。

高崎山自然動物園を後にすると、次に向かったのは、有名な地獄巡りだ。大分県別府市に位置する鉄輪・亀川の地獄地帯は、1000年以上も前より噴気・熱泥・熱湯などが噴出していて、近寄ることもできない忌み嫌われた土地だったそうだが、明治時代に遊覧施設を整え入場料を徴収したことをきっかけに、観光としての「地獄めぐり」が始まったという。

別府地獄めぐりのスタートは「海地獄」。約1300年前、鶴見岳の噴火によって誕生したといわれている。


コバルトブルーの池は地獄とは思えないほど美しいが、泉温は98度で深さは200mもあり、まさに地獄。海地獄は国指定名勝でもあり、敷地内は自然に囲まれた庭園が広がり、季節に応じた色とりどりの景色を楽しめ外国の観光客が多かった。


2番目に向かったのは、鬼石坊主地獄。


灰色の熱泥が沸騰する様子が坊主頭に似ている事から「鬼石坊主地獄」と呼ばれるようになったという。ポコポコと音を立てながら沸騰する様子は、つい見入ってしまう。




かまど地獄は、1〜6丁目まで6つの地獄がありバラエティ豊かな地獄だ。


気温や天候によって色がかわる地獄がある。




線香の煙を浴びせると、白煙が発生する様子をスタッフが実演してくれる。




鬼が出迎えてくれるのは鬼山地獄だ。


鬼山地獄は別名「ワニ地獄」とも呼ばれており、その名の通り沢山のワニが飼育されている。1923年、日本で初めて温泉を利用したワニの飼育施設である。ただ、ほとんど微動ともしないワニを見ても面白くない。


5番目の地獄は白池地獄。


落ち着いた雰囲気で、美しい日本庭園の作りになっているのが大きな特徴。また温泉蒸気熱を利用した熱帯魚館も併設され、その中には生きた化石と言われるピラルクやピラニアなど、珍しい魚がいる。


約1億年間ほとんど姿が変わっていないと考えられているため、「生きた化石」と呼ばれているピラルクの剥製。


6番目、7番目の地獄は3キロほど離れているので、車で移動する。

日本最古の天然地獄として知られている血の池地獄は、赤く染まったドロドロ熱泥が迫力満点だ。




血の池軟膏売り場左手の階段を登ると血の池地獄を一望できる撮影スポットがある。


最後は国指定名勝の龍巻地獄。ほかの地獄と違い間欠泉の地獄となる。世界でも間欠泉の温泉はあるが、龍巻地獄は噴出周期が短いことが特徴。一定の周期で噴出しており、屋根が取り付けられているが、この屋根がなければ約30mも吹き上がるという。


別府の地獄は、地獄組合という団体に加盟している7ヶ所の地獄が一般的であるが、加盟していないフリーの地獄もあるらしい。

時間的に余裕があったので、鉄輪温泉の少しはずれの高台にある眺望絶景スポットにある貴船城に立ち寄る。鎮西八郎為朝(源為朝。源頼朝、義経兄弟の叔父)が平安時代末期に砦を作ったと言われ、その為朝の砦を思い復元したお城だそうだ。


城内に入ると、代々飼われた大白蛇金白龍王(きんぱくりゅうおう)に触ることができる(撮影禁止)。白蛇に触ると金運がゲットできるという。また、お城の中には歌川広重の東海道五拾三次浮世絵が55枚揃った展示や2階には狩野探幽の屏風絵など江戸時代の様々な物が展示されている。

お城の庭からも絶景だが、3階の天守閣からの眺めは四方見渡せ、鉄輪温泉の湯けむりや別府湾が間近に見えて素晴らしい。




別府観光の最後は、やはり温泉だ。100%源泉かけ流しで、創業大正11(1922)年の100年続く温泉施設「ひょうたん温泉」で、男女別の内風呂や露天風呂、蒸し湯、瀧湯、浴衣を着て利用する砂湯などバラエティに富んだ風呂を楽しみ帰路についた。 

2024岡の里名水マラソンツアー:1日目竹田観光

2024-03-05 22:34:18 | 観光
先週末、岡の里名水マラソンに参加するため、大分県に向かった。大会は、大分県竹田市で開催されるため、大分空港からレンタカーで熊本県境に近い竹田市の白水の滝に向かう。

白水の滝は、大分県と熊本県の県境の大野川の源流にある高さ約38mの滝だ。阿蘇山系の伏流水が岩盤から湧き水となって湧きだし、幾筋もの糸のような滝となって流れ落ちて、その滝水が白く見えることから、白水の滝と呼ばれる。また、99本の滝筋があり、100に1つ足りなかったので、百から一の横棒を抜いて白水の滝としたとの説もある。


駐車場に着くと、入り口にはお茶屋が建っている。かっては幅約100mに及ぶ壮大な滝で日本一の飛泉と讃えられ、岡藩主の中川氏によって滝見物のためのお茶屋も設けられたという。


滝壺までは歩いて15分と言うことで遊歩道を歩いて行くと、岩盤の隙間から水が流れ落ち、小さな滝がいくつも見えてきた。


名前の通り、白い筋となって滝が流れ落ちている。


更に奥に進むと、高いところから流れ落ちている滝も出てきた。


画聖田能村竹田は、備後(岡山県)の学者を伴ってここに遊び誇らしげに白水の滝を讃えたとも言われ、途中途中に見事な滝が出てきて、飽きることがない。


そして、一番上流まで来ると、思わず声を上げてしまうくらい見事な滝が現われてきた。江戸時代、ここを訪れたある学者は、この滝について「水の白きこと雪にもまさり、たとへんものなし」と感嘆し、「この滝のたたずまいは、いかに見るともあくことなし」と讃えたというが、まさにその通りだと感じた。


白水の滝が一番遠い場所だったので、次に向かったのは、マラソン大会会場となる竹田市の中心部だ。竹田市の一番の観光スポットは、岡城跡である。1185年に源義経を迎えるために築城されたと伝えられ、南北朝期から戦国期までは志賀氏の支配下にあり、江戸時代には中川氏の居城として重要な役割を果たしたという。


急坂の石段を登っていく。


石段を登っていく途中に見えた山は、九重連山の大船山。数日来の冷え込みで山頂にはうっすらと雪が被っている。


岡城の入り口となる大手門跡は、まるでヨーロッパの古城のような形の石垣を見ることができる。とても日本のお城とは思えないような景色に驚嘆した。


西の丸跡は、広大な敷地で、御殿のほかに馬場や庭園等があり、城内で最も広い場所だったそうだ。


西方向に見える山脈は阿蘇山だ。お釈迦様が寝そべっているように見えるからすぐ分かる。


明治に廃城となった後、城内の建物は取り壊されたため、現在は石垣しか残されていないが、断崖絶壁上を石垣で取り囲んでいるので、いかにも難攻不落の城だったことが窺い知れる。


隙間なく積まれた石垣は、藩主の権威の象徴であり、岡藩の石積技術の高さが伺えるものとなっている。


近戸門から「七曲り」と呼ばれるつづら折りの坂道を下っていく。通用口としての機能を持ち、家臣や領民の日常的な出入りに使用されていた道という。しかし、道の上には断崖絶壁がそびえ立ち、まさに天然の要塞と言うことがよく分かる。


岡城跡から、豊後竹田駅まで戻り駅前駐車場に車を止める。


竹田駅前の商店街は、城下町の風情を残した歴史ある町並みだ。


城下町の一角にあるのは、滝蓮太郎の旧宅だ。


滝は東京生まれだが、父親の仕事の関係で少年期を竹田で過ごしたという。ここから約1キロメートル先の小学校に通学し、学校の裏にある岡城跡で遊んだり、石垣に座り尺八を吹いたりしていたという。この時期の経験から有名な「荒城の月」がつくられたそうだ。


蔵の中は、展示スペースとなっており、滝廉太郎の像がある。「荒城の月」以外には、「箱根八里」「鳩ぽっぽ」「お正月」等も作曲していたとわかり、後世に残る曲をいくつも作っていた人だったのだとあらためて感心した。


竹田の商店街では、岡藩城下町雛まつりが行われていて、多くの店でお雛さまが飾られていた。


その後、宿泊先のホテルに行き、翌日のマラソン大会参加に備える。

「2024岡の里名水マラソンツアー:2日目岡の里名水マラソン」に続く。