広島市内に戻り宿泊したのは、広島カープの本拠地であるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のすぐ近くのホテルだ。さすが広島カープのお膝元であるだけに、ローソンの色が赤というのは驚いた。
翌朝、ホテルから歩いて広島城に向かう。
広島城公園の中に入ると、大本営跡という石碑が立っていた。広島大本営は、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争の戦争指揮のために広島城内に設置された大本営だが、1945年の原子爆弾投下で全て吹っ飛んでしまい、今は基礎石だけが残っているのみだ。
広島城の入り口に着いた。安土桃山時代から江戸時代の城で、毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城である。1945年(昭和20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存していたが、アメリカ軍の原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものだ。また名古屋城、岡山城と共に日本三大平城に数えられる、日本100名城の一つにも選定されている。天守閣に入り、1階から5階までいろんな歴史資料を見学して広島城を後にした.
入るときは、裏御門から入ったが、出るときは表御門から出る。
広島城から歩いてすぐにあるのが、おりづるタワーだ。世界遺産「原爆ドーム」の東隣に位置した施設で、被爆前、被爆後、現在の街並みの変遷を通じて、平和への願いや重みを感じる場所だ。入場料を払って、屋上に向かうと、ウッドデッキの展望スペースが広がっている。
ウッドデッキの展望スペースは、平和記念公園・原爆ドームと宮島の弥山(みせん)まで、広島の2つの世界遺産を同時に望むことができる。
12階のおりづる広場には、アバターと呼ばれるディスプレイがあり、白く輝く仮想空間に浮遊する無数のおりがみが、人間の「色 / color」に反応し、合わせ鏡のような不思議な世界を映し出す。
世界中から集まる平和への想いや祈り、それらが積み重なって完成する「おりづるの壁」に参加してみようという事で、おりづるを作ってみる。
おりづるタワー専用の折紙で折ったおりづるを、おりづるタワーのシンボルである「おりづるの壁」に投入するのだが、投入場所は透明なガラスの床になっていて、結構立つのが怖い。
おりづるを小さな投入口から投げ入れる。
ひらひらとおりづるが舞っていくのが見える。
12階から下に降りるには、エレベーターで降りることもできるのだが、スパイラルスロープを散歩気分で歩いて上り下りができる。そして、中央部には、くるくると回りながら滑り下れるすべり台「くるくるくーる」があり、アクティブに楽しみながら下っていける。
おりづるタワーのすぐ目に前にあるのが、原爆ドームだ。現在では、被爆当時の惨状を残す姿がノーモア・ヒロシマの象徴として、時代を越えて核兵器の廃絶と恒久平和の大切さを世界へ訴えるシンボルでもあり、一度は見ておきたかった場所である。
この建物は、大正4年(1915年)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建てられ、広島県美術展覧会や博覧会も催されていた。本来の名称は「広島県産業奨励館」だが、今は原爆ドームという通称で世界に通用する場所になってしまった。
平成8年(1996年)12月、ユネスコ第20回世界遺産委員会メリダ会議で、核兵器の惨禍を伝える建築物として世界文化遺産に登録されている。
原爆ドームの先にあるのが、平和記念公園。爆心地周辺を恒久平和の象徴の地として整備するため、昭和25年(1950年)から平和記念公園及び施設の建設が進められ、昭和30年(1955年)に完成した公園だ。
最後に寄ったのが、広島平和記念資料館。悲惨な原子爆弾の被害の様子を知る為には、この資料館に立ち寄らなければならない。跡形もなくなった街の惨状や被害者のリアルな写真、亡くなった人たちの形見の品々等、涙なくして見ていられないものばかりだった。
一通り見て資料館を後にしたが、入り口には、引きも切らずに見学者の列がつながっていた。
一日中歩き回っていたので、さすがに帰りはタクシーで広島駅に戻り、帰路についた。初めての地、広島では二つの世界遺産を見て回ることができ、有意義な旅となった。
翌朝、ホテルから歩いて広島城に向かう。
広島城公園の中に入ると、大本営跡という石碑が立っていた。広島大本営は、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争の戦争指揮のために広島城内に設置された大本営だが、1945年の原子爆弾投下で全て吹っ飛んでしまい、今は基礎石だけが残っているのみだ。
広島城の入り口に着いた。安土桃山時代から江戸時代の城で、毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城である。1945年(昭和20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存していたが、アメリカ軍の原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものだ。また名古屋城、岡山城と共に日本三大平城に数えられる、日本100名城の一つにも選定されている。天守閣に入り、1階から5階までいろんな歴史資料を見学して広島城を後にした.
入るときは、裏御門から入ったが、出るときは表御門から出る。
広島城から歩いてすぐにあるのが、おりづるタワーだ。世界遺産「原爆ドーム」の東隣に位置した施設で、被爆前、被爆後、現在の街並みの変遷を通じて、平和への願いや重みを感じる場所だ。入場料を払って、屋上に向かうと、ウッドデッキの展望スペースが広がっている。
ウッドデッキの展望スペースは、平和記念公園・原爆ドームと宮島の弥山(みせん)まで、広島の2つの世界遺産を同時に望むことができる。
12階のおりづる広場には、アバターと呼ばれるディスプレイがあり、白く輝く仮想空間に浮遊する無数のおりがみが、人間の「色 / color」に反応し、合わせ鏡のような不思議な世界を映し出す。
世界中から集まる平和への想いや祈り、それらが積み重なって完成する「おりづるの壁」に参加してみようという事で、おりづるを作ってみる。
おりづるタワー専用の折紙で折ったおりづるを、おりづるタワーのシンボルである「おりづるの壁」に投入するのだが、投入場所は透明なガラスの床になっていて、結構立つのが怖い。
おりづるを小さな投入口から投げ入れる。
ひらひらとおりづるが舞っていくのが見える。
12階から下に降りるには、エレベーターで降りることもできるのだが、スパイラルスロープを散歩気分で歩いて上り下りができる。そして、中央部には、くるくると回りながら滑り下れるすべり台「くるくるくーる」があり、アクティブに楽しみながら下っていける。
おりづるタワーのすぐ目に前にあるのが、原爆ドームだ。現在では、被爆当時の惨状を残す姿がノーモア・ヒロシマの象徴として、時代を越えて核兵器の廃絶と恒久平和の大切さを世界へ訴えるシンボルでもあり、一度は見ておきたかった場所である。
この建物は、大正4年(1915年)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建てられ、広島県美術展覧会や博覧会も催されていた。本来の名称は「広島県産業奨励館」だが、今は原爆ドームという通称で世界に通用する場所になってしまった。
平成8年(1996年)12月、ユネスコ第20回世界遺産委員会メリダ会議で、核兵器の惨禍を伝える建築物として世界文化遺産に登録されている。
原爆ドームの先にあるのが、平和記念公園。爆心地周辺を恒久平和の象徴の地として整備するため、昭和25年(1950年)から平和記念公園及び施設の建設が進められ、昭和30年(1955年)に完成した公園だ。
最後に寄ったのが、広島平和記念資料館。悲惨な原子爆弾の被害の様子を知る為には、この資料館に立ち寄らなければならない。跡形もなくなった街の惨状や被害者のリアルな写真、亡くなった人たちの形見の品々等、涙なくして見ていられないものばかりだった。
一通り見て資料館を後にしたが、入り口には、引きも切らずに見学者の列がつながっていた。
一日中歩き回っていたので、さすがに帰りはタクシーで広島駅に戻り、帰路についた。初めての地、広島では二つの世界遺産を見て回ることができ、有意義な旅となった。