第9回目の社会人大学の講師は、画家の“ささめやゆき”さんだった。社会人大学のパンフレットを見たとき、名前からして女性だと思っていた。写真も見ても帽子を被っていて、いかつい感じの人だと思ったが、こういう女性もいるのかぐらいにしか思っていなかった。しかし、実際本人が登場して、開口一番「皆さん女と思っているのではないかと思うが、私はれっきとした妻も子もある男性です」と紹介があり、勘違いしていたことがわかった。“ささめやゆき”とはペンネームであり、本名は「まさゆき」さんとおっしゃりれっきとした男性だったのだ。
まずは、プロフィールを紹介しておく。
1943年東京に生まれる
1985年ベルギー・ドメルフォフ国際版画コンクールにて銀賞
1995年第4回小学館絵画賞受賞
著者「ぼくのイラストレイション的自叙伝」(アボック社)
「ほんとうらしくうそらしく」(筑摩書房)
絵本「ブリキの音符」文・片山令子(白泉社)
「テントの旅人」文・中澤晶子(汐文社)
「ガドルフの百合」文・宮沢賢治(偕成社)
さて、実際の講演がそれから始まった。話が始まって最初に感じたのだが、何か話をするのが苦手のような感じがして大丈夫なのかなと心配になった。だが、控え目でとつとつとした話し方が次第に心地よくなっていた。講演の内容は、本人が初めて就職して仕事についたころから、画家を目指すようになった経緯、世界を旅した話など風貌とは裏腹な波瀾万丈の人生を話してくれた。これがなかなか面白くて、ついつい最後まで聞きいってしまった。
ささめやさんが、最初に採用に就職したのが雑誌で有名な集英社だった。編集の一員として有名な作家回りをしていたそうだ。おかげで、有名作家の隠れたエピソードや人となりをよく知っている。川端康成は有名女優には愛想がいいが、編集者には無愛想だったとか、三島由紀夫は小心者だったが、自分を大きく見せる為にボディビルをやっていたとか、へー!と思うような話を聞かせてくれた。ただ、そんな仕事もそれほど興味をもてず、通勤電車で見た多摩川の工場の煙を見て絵を書きたくなったという話が面白かった。
ただ、絵を描き始めてもなかなか物にならなかったらしい。そんな時、会社の待遇に不満を持っている同僚に誘われ労働組合の活動に加わっていく。断ることも出来ず、副委員長になってしまい、それが原因で結局は会社を辞めることになってしまう。やはり、自分が出来るのは絵を描くことだと思い、一念発起してパリに行くことにした。だが、パリに行くまでも大変な苦労だったらしい。日本から船でソ連に渡るが、長い船旅は酷い船酔いの連続だったという。ソ連では大陸鉄道でヨーロッパに向かうが、食べる物も事欠きロシア人から食べ物を恵んでもらい人の温かさを知る。
やっとのことでパリに着き、絵を描き始めるがなかなか収入も増えない。観光ビザが切れる前にアメリカに出稼ぎに出ることにした。だが、貧乏人の絵描きにとってアメリカに行くのは一苦労だ。しかし、なんとか闇市場で格安の航空券を手にいれニューヨークに着く。ニューヨークではお決まりのレストランでの皿洗いをする。だが、転機はあるものでレストランのシェフのビザが切れていることが見つかり国外追放となってしまう。そこで、ささめやさんにシェフをやらないかとオーナーから誘いがあった。ほとんど素人みたいなものだが、パリでの自炊経験が役立ち、それなりの料理が出来るようになった。お客には、有名人がかなりきたそうだ。ジョン・レノンにチャーハンを作ってあげたのは私だけだろうなんて話も面白かった。結局、ニューヨークで3年レストランのシェフを勤めたが、オーナーの誘いを断って再びフランスに戻る。
フランスでは、自転車で各地を回り、シェルブールで腰をすえることになった。しかし、ある時イギリスからラジオ放送で美空ひばりの歌を聞き、日本に急に帰りたくなったという。ただ、日本に帰国しても仕事がなかったが、何故か集英社の時の知り合いに出会い、子どもの本の絵を描かないかと誘われた。一生懸命書いて渡すものの、過去の組合活動を知っている副社長の一声で、結局その話がダメになったそうだ。しかし、時が解決するもので集英社の雑誌『すばる』の表紙画を描かないかと、ささめやさんの絵を気に入った編集長より打診があり採用されたという。その後は、いろんな童話の挿絵などを書くようになり現在にいたっているようだ。
まだまだ、話したいことがあるようだったが、時間が足らなくなり終わってしまった。単なる自慢話ではなく、自分の今まで生きてきた経過を淡々と話している様子に好感が持てた。「人生は回り舞台」のタイトルどおり、目くるめく人生を生きてきた様子が伺えた。もっともっと話を聞いてみたかったものだ。
講演では、話だけでささめやさんの絵がどんなものか見ることができなかったが、後でいろいろ調べてみたら、優しくてほんわかとした絵が多かった。しかも、いろんな児童書の挿絵を描かれている。いままで知らなかったが、本当は凄い画家だったのだ。
まずは、プロフィールを紹介しておく。
1943年東京に生まれる
1985年ベルギー・ドメルフォフ国際版画コンクールにて銀賞
1995年第4回小学館絵画賞受賞
著者「ぼくのイラストレイション的自叙伝」(アボック社)
「ほんとうらしくうそらしく」(筑摩書房)
絵本「ブリキの音符」文・片山令子(白泉社)
「テントの旅人」文・中澤晶子(汐文社)
「ガドルフの百合」文・宮沢賢治(偕成社)
さて、実際の講演がそれから始まった。話が始まって最初に感じたのだが、何か話をするのが苦手のような感じがして大丈夫なのかなと心配になった。だが、控え目でとつとつとした話し方が次第に心地よくなっていた。講演の内容は、本人が初めて就職して仕事についたころから、画家を目指すようになった経緯、世界を旅した話など風貌とは裏腹な波瀾万丈の人生を話してくれた。これがなかなか面白くて、ついつい最後まで聞きいってしまった。
ささめやさんが、最初に採用に就職したのが雑誌で有名な集英社だった。編集の一員として有名な作家回りをしていたそうだ。おかげで、有名作家の隠れたエピソードや人となりをよく知っている。川端康成は有名女優には愛想がいいが、編集者には無愛想だったとか、三島由紀夫は小心者だったが、自分を大きく見せる為にボディビルをやっていたとか、へー!と思うような話を聞かせてくれた。ただ、そんな仕事もそれほど興味をもてず、通勤電車で見た多摩川の工場の煙を見て絵を書きたくなったという話が面白かった。
ただ、絵を描き始めてもなかなか物にならなかったらしい。そんな時、会社の待遇に不満を持っている同僚に誘われ労働組合の活動に加わっていく。断ることも出来ず、副委員長になってしまい、それが原因で結局は会社を辞めることになってしまう。やはり、自分が出来るのは絵を描くことだと思い、一念発起してパリに行くことにした。だが、パリに行くまでも大変な苦労だったらしい。日本から船でソ連に渡るが、長い船旅は酷い船酔いの連続だったという。ソ連では大陸鉄道でヨーロッパに向かうが、食べる物も事欠きロシア人から食べ物を恵んでもらい人の温かさを知る。
やっとのことでパリに着き、絵を描き始めるがなかなか収入も増えない。観光ビザが切れる前にアメリカに出稼ぎに出ることにした。だが、貧乏人の絵描きにとってアメリカに行くのは一苦労だ。しかし、なんとか闇市場で格安の航空券を手にいれニューヨークに着く。ニューヨークではお決まりのレストランでの皿洗いをする。だが、転機はあるものでレストランのシェフのビザが切れていることが見つかり国外追放となってしまう。そこで、ささめやさんにシェフをやらないかとオーナーから誘いがあった。ほとんど素人みたいなものだが、パリでの自炊経験が役立ち、それなりの料理が出来るようになった。お客には、有名人がかなりきたそうだ。ジョン・レノンにチャーハンを作ってあげたのは私だけだろうなんて話も面白かった。結局、ニューヨークで3年レストランのシェフを勤めたが、オーナーの誘いを断って再びフランスに戻る。
フランスでは、自転車で各地を回り、シェルブールで腰をすえることになった。しかし、ある時イギリスからラジオ放送で美空ひばりの歌を聞き、日本に急に帰りたくなったという。ただ、日本に帰国しても仕事がなかったが、何故か集英社の時の知り合いに出会い、子どもの本の絵を描かないかと誘われた。一生懸命書いて渡すものの、過去の組合活動を知っている副社長の一声で、結局その話がダメになったそうだ。しかし、時が解決するもので集英社の雑誌『すばる』の表紙画を描かないかと、ささめやさんの絵を気に入った編集長より打診があり採用されたという。その後は、いろんな童話の挿絵などを書くようになり現在にいたっているようだ。
まだまだ、話したいことがあるようだったが、時間が足らなくなり終わってしまった。単なる自慢話ではなく、自分の今まで生きてきた経過を淡々と話している様子に好感が持てた。「人生は回り舞台」のタイトルどおり、目くるめく人生を生きてきた様子が伺えた。もっともっと話を聞いてみたかったものだ。
講演では、話だけでささめやさんの絵がどんなものか見ることができなかったが、後でいろいろ調べてみたら、優しくてほんわかとした絵が多かった。しかも、いろんな児童書の挿絵を描かれている。いままで知らなかったが、本当は凄い画家だったのだ。
いい話がきけました。
今日、ささめやゆきさんのトークイベントに行ったのですが、ところどころ聞き取れず・・・この記事にたどり着き
(そういうことだったのか・・・)
と。
私も女性だと思っていましたので、声を聞いて驚きました。
お元気でいていただきたいと思います。
ささめやゆきさん、まだお元気で活動されているのですね。この記事を書いたときは、本当に面白い話だったと感じたので、いろいろ思い出して投稿したのではないかと思います。参考になったなら幸いです。