とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

2024金勝(こんぜ)アルプス

2024-03-18 09:14:30 | 山登り
先週末は、17年ぶりに滋賀県にある「金勝(こんぜ)アルプス」に出かけてきた。アルプスとはいっても一つの山の名前ではなく、標高605mの竜王山を最高峰とするいくつかの山々の集まりだ。風化した花崗岩が作り出す独特の地形が特徴で、ゴツゴツとした岩場が続く岩稜帯はアルペンムードがたっぷりの山である。また、コース上には岩場、鎖場、ロープ、渡渉、遺跡巡りと、アドベンチャー感満載で登山の面白さがギュッと詰まった楽しい山である。

登山口は、新名神草津田上インターからすぐの一丈野駐車場からだ。8時半に到着したが、駐車場は8割方は埋まっており、人気の高さが窺われる。滋賀からのメンバーも加わり、総勢10人でスタートする。


まずは普通の樹林帯の中を進む。


すぐに岩盤の上を歩くことになる。岩の上にはところどころに水が流れ、滑りそうだが、ちょっと面白そうな気分になってくる。




登山道脇は、シダ類に覆われ、ちょっとしたジャングル探検のような気分にもさせられる。


途中から脇道にそれて進むと出てきたのは、落ヶ滝。水量は多くはないが、約20mの高さから落ちてくる滝は見応え充分だ。黄色と黒の岩肌、要塞のような壁、落ち口の大きな岩、きれいな段々の流れ、非常に個性的だ。




落ヶ滝からは、元の登山道に戻り、先に進む。この後は、岩登りの道が続く。


岩肌の上を水がさらさらと流れ、滑らないよう気を遣う。


ロープを頼りに巨大岩の上りが、何度も出てくる。


雨水で削り取られた水路のような細い道を進む。


尾根伝いの道に出ると、一面岩だらけの峰々が広がっている。目指す天狗岩も目の前に見えている。これが金勝アルプスの醍醐味だ。


尾根筋には、巨岩が点在し、胎内巡りのように岩穴を通り抜けられる場所もある。


対面に見える天狗岩を遠望すると、岩の上に立つ人の姿が見える。我々もすぐにあそこまで行かなくてはと気がせく。


天狗岩の下の広場に着いた。


上の方を見ると、既に多くの人で賑わっているようだ。早速ロープを頼りに岩を駆け上がる。


岩をよじ登ったりしてついに天狗岩上部に到着する。少し前に、遠望して見えた場所に到着したのだ。


天狗岩の周りも岩岩だらけで、休憩できそうな場所もあったが、移動が結構大変で身軽でない人には一苦労しそうな岩が多い。人も多く、渋滞の原因になりそうなので、天狗岩下の広場まで戻り、ランチ休憩とした。


ランチ休憩後、少し歩いた先の展望スポットからは、天狗岩の全景が良く見える。まさに金勝アルプスのシンボルともいえる存在だ。


こちらは耳岩。耳の形に似ているのだろうか。


白石峰の分岐から、竜王山方面に向かう。すぐにあるのは茶沸観音。岩を舟形に穿ったくぼみに、石仏像が厚彫りされている。この石仏は、鎌倉時代に作られたと推定されているそうだ。ここで参詣者に茶のもてなしが行われていたことから、この名の由来があるという。


金勝アルプス最高峰の竜王山605mに到着する。


再び白石峰に戻り、下山道に入ると、「重岩」の奇岩が忽然とあらわれる。よくもこんな風に岩が積み重なっているものだ。ふと見ると、下岩の側面に石仏が線刻されている。


狛坂寺跡に到着する。


狛坂寺跡と向かい合うかたちで、大きな花崗岩の磨崖面には、三体の仏さまが刻まれている。これが、金勝アルプスでは有名な狛坂摩崖仏だ。高さ約6m、幅3.6mの壁面に高さ3メートル、顔幅70cmの阿弥陀如来坐像を中尊として、観音・勢至の両脇侍を刻み、その周囲に12体の仏像が半肉彫りされている。


ゴール間近に出てきたのは、逆さ観音。鎌倉時代の初め頃に刻まれた石仏だが、当初は逆さではなかったらしい。説明板には『大岩の一端は、下流の「オランダ堰堤」堤築造時、(明治二十二年完成)に石材の不足が生じて、それに使われたのです。そのため後にバランスを失った山上からずり落ちて逆さになったのです』と説明がされている。


通称「オランダ堰堤」は、草津川の上流にあたる滋賀県大津市上田上桐生町にある草津川の砂防ダムである。堰堤の下の水は冷たくてきれいだ。夏場になると、この場所で水遊びをする人が多いらしい。


この堰堤が「オランダ堰堤」とよばれる理由は、明治時代に来日したオランダ人技術者デレーケが堰堤築造の指導を行ったと考えられている。


オランダ堰堤を過ぎると、すぐに登山口である一丈野駐車場だ。通常6時間ほどのコースだが、ハイペースで、5時間18分でゴール。天気は最高で、寒くもなく、変化にとんだ山旅を楽しむことが出来た。

参考1.金勝アルプスの高低図&コースタイム


参考2.金勝アルプスのコースマップ

2024飛鳥ハーフマラソン

2024-03-13 21:21:31 | マラソン
1週間前にフルマラソンを走ったばかりだったが、飛鳥ハーフマラソンにもエントリーしていた。2022年の第1回に参加して以来、2回目の参加だ。明日香村内の史跡や遺跡周辺をくまなく回る面白いコースだが、アップダウンが厳しく、結構ハードな大会である。ただ、その分制限時間も3時間半と大分緩いので、完走率は95%以上と結構高い。ちなみにコースマップは以下の通りだ。

           (飛鳥ハーフマラソン大会公式HPより)

スタートは、キトラ古墳前の丘からだ。丘陵内の通路に数珠つなぎの状態でランナーが整列している。


スタートは午前9時だが、後方のブロックにいたので、スタート地点を通過するまでには数分を要した。


スタート地点には、ゲストランナーのワイナイナさんや川内優輝さんが声援を送ってくれている。彼らは、最後尾からランナーを追いかけてあっという間に前に飛び出していった。


最初の折り返し地点。飛鳥寺が近い。


沿道では、黄、赤、青の衣装で揃えた可愛い園児たちが応援してくれている。


甘樫の丘前を通過。


飛鳥水落遺跡前のエイドを通過。斉明女帝の息子である中大兄皇子が造った我が国初の漏刻(水時計)の建物跡だ。


最初の給食エイドで出たのは、あすかルビーのくずアイス。明日香村の名産イチゴを葛で固めて冷凍したアイスだ。ハーフマラソンでこれだけの給食が出るのはちょっと贅沢ともいえる。


小学生たちの応援を浴びながら、石舞台古墳方面に向かう。


コースの途中から、石舞台古墳が見える。


この大会の最難関である激坂の上りに入る。


激坂の折り返し地点前にあるエイドでは、ノンアル甘酒が提供された。


折り返し地点に到着。長かった上りが終わり、ここから下りとなりやっと走って行ける。


太鼓の応援に元気づけられる。


後半の上り坂を進むランナーの列が見えるが、そこまで行けるのはまだまだ先であるだ。


飛鳥川の上に掛け渡された男綱を見ながら走る。豊作と子孫繫栄を願い、川下からの災厄や疫病を封じる意味合いがあるとされる奥飛鳥のシンボルだ。


最後の給食エイドでは、古代米柿の葉寿司が出た。通常、ハーフマラソンでは、飲み物と簡単な飴やチョコくらいしか出ないのだが、これだけの給食が提供される大会は他には聞いたことがない。


しばらく前に見えていた後半の上り坂にやっとたどり着いたが、さすがにもう歩くしかない。


坂道の途中に見える菜の花が美しい。


坂道の上からは、起伏に富んだ明日香村の景色がよく見える。桜も咲いている。


文武天皇陵が見えてきた。


高松塚古墳前を通過。


高松塚古墳公園を抜けると残り1キロ。ゴールまでの緩い上り坂が、まったく走れない。1週間前のフルマラソンの疲れが残っていたのか、ラストスパートもできずなんとか無事にゴールする。


フィニッシュ後には、あすかルビー🍓を1ついただく。これが甘くて美味しかった。フィニッシュ会場には、模擬店がたくさんあり、空腹を満たした後、レンタサイクルで石舞台古墳に寄りながら、宿泊先の宿に戻り、帰路についた。明日香村は、坂が多いのでレンタサイクルに乗るなら電動が楽だというのが一番の収穫だった。

2024明日香村等観光

2024-03-12 21:33:26 | 観光
先週末は、飛鳥ハーフマラソンに参加するため明日香村に出かけていた。明日香村は何度か行ったことがあり、今回で3回目となるが、面白い遺跡や文化財が数多くあり何度行っても興味深い。

まず、最初に立ち寄ったのは、飛鳥資料館だ。日本の心のふるさと「飛鳥」の歴史と文化を紹介する資料館である。飛鳥は、古代国家が誕生した場所として広く知られ、592年に推古天皇が豊浦宮に即位してから、694年に持統天皇が藤原京へ遷都するまでの約100年間、飛鳥には天皇の宮殿が継続的に営まれ、政治と文化の中心として栄えた。壮麗な宮殿、石組みの苑池や噴水施設、時を告げる水時計(漏刻)、猿石や亀石などの石造物が造られ、石舞台古墳などの古墳も造られていた時代だ。キトラ古墳・高松塚古墳には大陸風の極彩色壁画が描かれた。資料館には、これらの数多くの資料が展示されている。

資料館の庭には、いろいろな石造物のレプリカが置かれている。一番目立っているのが、そのユーモラスな顔つきから明日香村観光のシンボルともなっている亀石だ。


二面石のレプリカ。善面と悪面2つの顔をもつ石造物で、実物は橘寺境内にある。


石人像のレプリカ。盃を口にあてた男性に女性が寄り添う形をしていて、古代の噴水施設とされている。本物は、飛鳥資料館内で見学できる。


高松塚古墳の西壁女子群像の顔ハメ。


この他にも、数多くの発掘調査でみつかった遺構や遺物の資料が展示されていて、埋もれていた歴史を垣間見ることが出来、興味深い。明日香村には、なつかしい田園風景の中に、はるか古代の遺跡があちこちに点在しているが、目に見えるものだけでなく、地面の下にも『日本書紀』や『万葉集』の風景が未だに埋もれているという。

その後、立ち寄ったのは岡寺だ。正式には、『東光山 真珠院 龍蓋寺』となるが、古くからこの土地の名から『岡にある寺』=『岡寺』として親しみもこめて呼ばれており、現在でも正式名の『龍蓋寺』よりも『岡寺』と呼ばれている。真言宗豊山派に属しており西国三十三ヶ所観音霊場の第七番札所で、日本最初のやくよけ霊場としても知られている。

大師堂。宗祖 弘法大師が御本尊。お堂の前には大師の幼少期の『稚児大師像』と四国の地を巡り修行していた頃の『修行大師像』が建っている。


三重宝塔。軒先に吊るされた琴は全国的に見ても復元されている例はなく、珍しいという。夜間には、ライトアップされて一際目立つ塔だ。


厄除鐘。厄除のため誰もが自由に突けるのがありがたい。


三重宝塔から見た岡寺の全景。


岡寺本堂。本堂には、奈良時代の制作にかかる巨大な如意輪観音座像が本尊としてまつられている。塑像(土でできた仏像)としては日本最大の仏様で、日本三大仏にもあげられており、重要文化財に指定されているという。


本堂の前では、西国三十三ヶ所観音霊場巡りの団体の人たちが、熱心にお経を上げていた。


岡寺のすぐ下の民宿に泊まる予定だったので、そこでレンタサイクルを借り、他の観光スポットを回る。最初にレプリカの亀石を見たが、やはり本物がいい。畑や住宅の間に突然現われた巨石が亀石だ。重さ10トンを超す花崗岩に亀の顔が巧みに彫られているが、何のためにここにあるのかは謎とされている。亀が西を向いた時、大和国一帯が泥の海に沈むという言い伝えが残っているそうだ。


次に向かったのは、飛鳥寺だ。588年蘇我馬子が建てたと伝わる日本最古の本格的仏教寺院。大化の改新の主役、中大兄皇子と中臣鎌足が知り合ったのも飛鳥寺の槻木の下で行われた蹴鞠(けまり)の会であったといわれている。


飛鳥寺のご本尊である飛鳥大仏。609年、当代一流の仏師であった仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)によって造られた日本最古の仏像だ。通常、ご本尊は撮影禁止のところが多いのだが、飛鳥大仏だけは撮影OKなのだ。そして、大仏様の表情が、見る方向によって表情が違うという。右から見ると、目尻が長く、口元がキュッと締まっている。


対して、左から見ると、ちいさな口元で柔和なやさしい表情に見える。


夕方近くとなり、寒くなってきたので宿に帰る事にしたが、途中にあった酒船石にも寄っていく。長さ5.3m、幅2.27m、厚さ1mの石の平坦な上面に奇妙な溝が彫られている。昔、酒の醸造に使用されたという言い伝えから酒船石と言われるがいろいろな説があるようだ。


翌日、マラソンを走った後、石舞台古墳を見ていく。6世紀の築造。巨石30個を積み上げて造られた石室古墳。その規模は日本最大級を誇る。盛土が失われて、露出した天井石の上面が平らなことにちなんで、石舞台と呼ばれる。石の総重量は推定2,300t、古墳最大の巨岩である天井石は、南側が約77t、北側約64tもあるという。この巨大古墳が誰の墓なのかは不明であるが、付近に蘇我馬子の庭園があったことから、馬子の墓ではないかとの説が有力だ。


開口部から中に入ってみる。


石室の長さは19.1m、玄室は高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6mといい、如何に巨大な石室だというのがよく分かる。


入り口の案内看板には、石舞台古墳をどうやって作ったのかという解説が載っていたが、膨大な年月と労働力がかかったのではないかと思われる。当時の権力者の力の強大さを窺い知れる。


帰り道の最後に寄ったのは、橿原市の今井町だ。戦国時代に称念寺を中心に発展した寺内町で、東西約600m、南北約310mの敷地に、約600件の建物が建ち、うち約500件が伝統的建造物。その数は全国の中で最も多く、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。防衛のため町を環濠で囲んだ城塞都市で、織田信長との戦いで町を守り抜いた功績を称えられ、自治権が与えられた。以降、商業都市として発展を遂げ、「海の堺 陸の今井」と呼ばれるほど、豊かな経済力を手に入れる。江戸時代になると独自の紙幣「今井札」を流通させ、「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄したという。


現在も江戸時代の風情を残す町並みは、映画やドラマの撮影に使われることもあり、多くの人が訪れる観光地として注目されている。江戸時代の建築物内部の見学だけでなく、町家を改装したお店でランチやティータイムを楽しむこともできるのがいい。知り合いから奈良に行ったらぜひ寄ったらと聞いたので、初めて寄ってみたのだが、これほどの広範囲で江戸時代の風情を残す町並みが残っているとは思いもよらなかった。


旧米谷家住宅。かつて「米忠」という屋号で金物屋を営んでいた豪商の旧家。今井町では珍しい広い土間には大きなかまどが残り、土間を抜けた先には数寄屋風の蔵前座敷もある。裏庭の縁側は、CMのロケ地として話題になったそうだ。


見学できるのは、17時までと言うことであまり時間もなく、とても全部を見て回ることはできなかった。奈良県には、まだまだ知らない名所がたくさんあることがよく分かった。

2024岡の里名水マラソンツアー:3日目別府観光

2024-03-07 18:23:28 | 観光
最終日は、早朝に宿を出て別府市内に向かう。大分県と言えば、観光の王道は別府だ。まずは、4年前コロナ禍で入園できなかった高崎山自然動物園に行く。

高崎山自然動物園には、大分マリーンパレス水族館「うみたまご」の駐車場から、国道10号にかかる陸橋を渡っていく。


陸橋の下は、片側2車線の国道10号が通っており、交通量は激しい。


陸橋を渡りきったところに、階段とエレベーターがあり、高崎山自然動物園の入園受付に行ける。


高崎山のサルの餌付けは、高崎山山麓の万寿寺別院の境内である。まずは、小型モノレール「さるっこレール」で餌付け場に向かう。モノレールを降りると、すぐ目の前に、多数のサルが我が物顔に歩き回っている。


サルへの餌付けは、30分に1回行われるとあって、もうじきその時間になるとあって、係員の周りには、多くのサルが集まってきていた。


餌の小麦を撒き始めると、一斉にサルが集まり始め、その勢いはものすごい。


地面に落ちた餌を一つ一つ摘まみだしている様子が可愛い。


高崎山のサルは、野生で国の天然記念物に指定されている。終戦直後には200頭程度にまで増えて農作物への被害が深刻となったため、狩猟などによるニホンザルの駆除が試みられたが失敗する。これを耳にした当時の大分市長が、駆除に代えて餌付けし観光資源として利用しようとしたのが高崎山自然動物園の始まりだという。

高崎山自然動物園を後にすると、次に向かったのは、有名な地獄巡りだ。大分県別府市に位置する鉄輪・亀川の地獄地帯は、1000年以上も前より噴気・熱泥・熱湯などが噴出していて、近寄ることもできない忌み嫌われた土地だったそうだが、明治時代に遊覧施設を整え入場料を徴収したことをきっかけに、観光としての「地獄めぐり」が始まったという。

別府地獄めぐりのスタートは「海地獄」。約1300年前、鶴見岳の噴火によって誕生したといわれている。


コバルトブルーの池は地獄とは思えないほど美しいが、泉温は98度で深さは200mもあり、まさに地獄。海地獄は国指定名勝でもあり、敷地内は自然に囲まれた庭園が広がり、季節に応じた色とりどりの景色を楽しめ外国の観光客が多かった。


2番目に向かったのは、鬼石坊主地獄。


灰色の熱泥が沸騰する様子が坊主頭に似ている事から「鬼石坊主地獄」と呼ばれるようになったという。ポコポコと音を立てながら沸騰する様子は、つい見入ってしまう。




かまど地獄は、1〜6丁目まで6つの地獄がありバラエティ豊かな地獄だ。


気温や天候によって色がかわる地獄がある。




線香の煙を浴びせると、白煙が発生する様子をスタッフが実演してくれる。




鬼が出迎えてくれるのは鬼山地獄だ。


鬼山地獄は別名「ワニ地獄」とも呼ばれており、その名の通り沢山のワニが飼育されている。1923年、日本で初めて温泉を利用したワニの飼育施設である。ただ、ほとんど微動ともしないワニを見ても面白くない。


5番目の地獄は白池地獄。


落ち着いた雰囲気で、美しい日本庭園の作りになっているのが大きな特徴。また温泉蒸気熱を利用した熱帯魚館も併設され、その中には生きた化石と言われるピラルクやピラニアなど、珍しい魚がいる。


約1億年間ほとんど姿が変わっていないと考えられているため、「生きた化石」と呼ばれているピラルクの剥製。


6番目、7番目の地獄は3キロほど離れているので、車で移動する。

日本最古の天然地獄として知られている血の池地獄は、赤く染まったドロドロ熱泥が迫力満点だ。




血の池軟膏売り場左手の階段を登ると血の池地獄を一望できる撮影スポットがある。


最後は国指定名勝の龍巻地獄。ほかの地獄と違い間欠泉の地獄となる。世界でも間欠泉の温泉はあるが、龍巻地獄は噴出周期が短いことが特徴。一定の周期で噴出しており、屋根が取り付けられているが、この屋根がなければ約30mも吹き上がるという。


別府の地獄は、地獄組合という団体に加盟している7ヶ所の地獄が一般的であるが、加盟していないフリーの地獄もあるらしい。

時間的に余裕があったので、鉄輪温泉の少しはずれの高台にある眺望絶景スポットにある貴船城に立ち寄る。鎮西八郎為朝(源為朝。源頼朝、義経兄弟の叔父)が平安時代末期に砦を作ったと言われ、その為朝の砦を思い復元したお城だそうだ。


城内に入ると、代々飼われた大白蛇金白龍王(きんぱくりゅうおう)に触ることができる(撮影禁止)。白蛇に触ると金運がゲットできるという。また、お城の中には歌川広重の東海道五拾三次浮世絵が55枚揃った展示や2階には狩野探幽の屏風絵など江戸時代の様々な物が展示されている。

お城の庭からも絶景だが、3階の天守閣からの眺めは四方見渡せ、鉄輪温泉の湯けむりや別府湾が間近に見えて素晴らしい。




別府観光の最後は、やはり温泉だ。100%源泉かけ流しで、創業大正11(1922)年の100年続く温泉施設「ひょうたん温泉」で、男女別の内風呂や露天風呂、蒸し湯、瀧湯、浴衣を着て利用する砂湯などバラエティに富んだ風呂を楽しみ帰路についた。 

2024岡の里名水マラソンツアー:2日目岡の里名水マラソン

2024-03-06 22:22:58 | マラソン
マラソン当日の朝となった。スタート時間は10時という事で、朝は比較的のんびりだ。スタート会場は宿から歩いて15分くらいなので、朝食もしっかりとって8時半過ぎに会場となる竹田市総合運動公園に向かう。

着替えなどを荷物置き場に置き、グランドの方に出ると、開会式が始まっていた。参加者は、全種目入れても1000人程度と、のんびりした風景だ。


スタート前に、表彰台の上に乗って写真を撮り、表彰者の気分だけ味わう。


フルマラソンスタート時間直前となり、スタート地点前にランナーが集まる。


因みにフルマラソンのコースは、下記の通りだ(大会公式HPより)。


10時ちょうどにスタートとなり、まずはトラックを1周する。


スタート地点からすぐに急坂の下りとなるが、すぐに緩やかな上りになって山の方に向かっていく。10キロほど走ると、石積みの歴史のありそうな橋が見えてきた。正式名称は「明正井路(めいせいいろ)第一拱石橋」といい、1919年(大正8年)に竣工され、連数(6連)、橋の長さ共に日本一を誇る石橋水路橋だ。現在も水路には水を湛えているそうで、美しい6つのアーチが山裾の川から車道までを跨いでかかる堂々とした姿が印象的だ。


明正井路第一拱石橋を過ぎると最初の分岐となり、神原渓谷(こうばるけいこく)沿いの道に入る。


神原渓谷は、祖母山を源流とする神原川の渓谷で、約9kmにわたって渕あり瀬あり滝ありの変化に富んだ景観が続く。


15キロ地点で最初の折り返しとなる。


今まで徐々に登ってきたので、折り返し後は、下り坂となり、気持ちよく走っていける。


すぐにエイドがあり、タイムを稼ぐ前に水分と食料を補給していく。


21キロ地点で、もう一つの折り返しコースの分岐となり、26キロ地点までの上り坂を進む。2番目の折り返し地点が見えたときはホッとする。これで、残りはほとんどが下り坂だ。


あとは、写真を撮る余裕もなく、ひたすらゴールを目指し走る。ゴール直前の残り1キロ過ぎから激坂の上りとなるが、なんとかクリアして、竹田市総合運動公園のゴールにたどり着いた。走る前は、時間内にゴールできるか不安だったが、走ってみれば最近のタイムと比べると意外と早くゴールできたので自分でもビックリ。


会場を出て宿に向かうが、帰り道にある竹田市歴史文化館・由学館の奥にある国指定史跡「旧竹田荘」に寄っていく。竹田荘(ちくでんそう)は、江戸時代の文人画家、田能村竹田の住まいであった武家屋敷だ。


竹田荘右手の階段を登っていく。


階段を上った先にあるのが画聖堂で、田能村竹田の作品が展示されている。


一番奥には、田能村竹田の像が祀られている。


竹田市歴史文化館では、竹田市の歴史などがいろいろ紹介されていたが、一番興味をそそられたのが、前日立ち寄った岡城跡のジオラマだった。


そして、もう一つ立ち寄ったのが、愛染堂だ。城下町竹田で現存する最も古い建物で、寛永12年(1635)に二代藩主中川久盛により建立された。本尊の愛染明王は恋愛成就の願掛けで有名だというが、竹田市のポスターではこの石段がいい雰囲気で撮られていた。


「2024岡の里名水マラソンツアー:3日目別府観光」に続く。

2024岡の里名水マラソンツアー:1日目竹田観光

2024-03-05 22:34:18 | 観光
先週末、岡の里名水マラソンに参加するため、大分県に向かった。大会は、大分県竹田市で開催されるため、大分空港からレンタカーで熊本県境に近い竹田市の白水の滝に向かう。

白水の滝は、大分県と熊本県の県境の大野川の源流にある高さ約38mの滝だ。阿蘇山系の伏流水が岩盤から湧き水となって湧きだし、幾筋もの糸のような滝となって流れ落ちて、その滝水が白く見えることから、白水の滝と呼ばれる。また、99本の滝筋があり、100に1つ足りなかったので、百から一の横棒を抜いて白水の滝としたとの説もある。


駐車場に着くと、入り口にはお茶屋が建っている。かっては幅約100mに及ぶ壮大な滝で日本一の飛泉と讃えられ、岡藩主の中川氏によって滝見物のためのお茶屋も設けられたという。


滝壺までは歩いて15分と言うことで遊歩道を歩いて行くと、岩盤の隙間から水が流れ落ち、小さな滝がいくつも見えてきた。


名前の通り、白い筋となって滝が流れ落ちている。


更に奥に進むと、高いところから流れ落ちている滝も出てきた。


画聖田能村竹田は、備後(岡山県)の学者を伴ってここに遊び誇らしげに白水の滝を讃えたとも言われ、途中途中に見事な滝が出てきて、飽きることがない。


そして、一番上流まで来ると、思わず声を上げてしまうくらい見事な滝が現われてきた。江戸時代、ここを訪れたある学者は、この滝について「水の白きこと雪にもまさり、たとへんものなし」と感嘆し、「この滝のたたずまいは、いかに見るともあくことなし」と讃えたというが、まさにその通りだと感じた。


白水の滝が一番遠い場所だったので、次に向かったのは、マラソン大会会場となる竹田市の中心部だ。竹田市の一番の観光スポットは、岡城跡である。1185年に源義経を迎えるために築城されたと伝えられ、南北朝期から戦国期までは志賀氏の支配下にあり、江戸時代には中川氏の居城として重要な役割を果たしたという。


急坂の石段を登っていく。


石段を登っていく途中に見えた山は、九重連山の大船山。数日来の冷え込みで山頂にはうっすらと雪が被っている。


岡城の入り口となる大手門跡は、まるでヨーロッパの古城のような形の石垣を見ることができる。とても日本のお城とは思えないような景色に驚嘆した。


西の丸跡は、広大な敷地で、御殿のほかに馬場や庭園等があり、城内で最も広い場所だったそうだ。


西方向に見える山脈は阿蘇山だ。お釈迦様が寝そべっているように見えるからすぐ分かる。


明治に廃城となった後、城内の建物は取り壊されたため、現在は石垣しか残されていないが、断崖絶壁上を石垣で取り囲んでいるので、いかにも難攻不落の城だったことが窺い知れる。


隙間なく積まれた石垣は、藩主の権威の象徴であり、岡藩の石積技術の高さが伺えるものとなっている。


近戸門から「七曲り」と呼ばれるつづら折りの坂道を下っていく。通用口としての機能を持ち、家臣や領民の日常的な出入りに使用されていた道という。しかし、道の上には断崖絶壁がそびえ立ち、まさに天然の要塞と言うことがよく分かる。


岡城跡から、豊後竹田駅まで戻り駅前駐車場に車を止める。


竹田駅前の商店街は、城下町の風情を残した歴史ある町並みだ。


城下町の一角にあるのは、滝蓮太郎の旧宅だ。


滝は東京生まれだが、父親の仕事の関係で少年期を竹田で過ごしたという。ここから約1キロメートル先の小学校に通学し、学校の裏にある岡城跡で遊んだり、石垣に座り尺八を吹いたりしていたという。この時期の経験から有名な「荒城の月」がつくられたそうだ。


蔵の中は、展示スペースとなっており、滝廉太郎の像がある。「荒城の月」以外には、「箱根八里」「鳩ぽっぽ」「お正月」等も作曲していたとわかり、後世に残る曲をいくつも作っていた人だったのだとあらためて感心した。


竹田の商店街では、岡藩城下町雛まつりが行われていて、多くの店でお雛さまが飾られていた。


その後、宿泊先のホテルに行き、翌日のマラソン大会参加に備える。

「2024岡の里名水マラソンツアー:2日目岡の里名水マラソン」に続く。