風邪で伏せっていたときに思ったことのひとつが、これでした。
よく物語で何を言いたいのか、何を伝えたいのか、メッセージはなんなのか? という問いかけがあります。児童文学ならではのことで、それは子供に向けてものを書く上では大事なことです。
あきらめない人生。人とのつながり。命の大切さ。などですよね。
でも私の場合、メッセージがはっきりとしていないものも中にはあって・・・。それはダメなのかなあと思ったりしていたのですが。
そうじゃないよ。ちゃんとあるよ! と思ったのです。
それが今日のタイトルである「森羅万象に対する畏敬」の念です。
さかのぼって、ずーっと以前に、辻桃子主宰に「雲海」という季語についておたずねしたことがありました。「雲海」とは、夏の季語で、本来山に登って見るもの、なので山登りが盛んな夏の季語というのはわかる。でも、現在飛行機から雲海が見えるということはよくある。飛行機から見た雲海も夏ならば季語として成立しますか? とおたずねしたのです。
答えは。
どの季語もつきつめれば根底には神への畏敬の念があるもの。「山開き」は山の神様への挨拶であるように。なので、飛行機から見た雲海でも神への畏敬の念があればよい。
とのことでした。
そして今思うのです。春はすべてが芽吹き、命が息吹をあげる時期。春の言葉を使うときはその喜び、そしてそれらを恵みを与えてくれる神への畏敬の念を持って句を作るべき。夏も秋も冬も、それぞれに。
それは、言葉を糧として物語りをつむいでいるものすべてが抱くべきものではないか。
絵本や幼年ものの物語を書くとき、対象はまだこの世に生まれて十年も経っていない子供なのです。この世は素晴らしい、私達はすばらしい世界を賜っているのだということを伝えるという姿勢でいなくてはならないのではないか。
なんていうか・・・、メッセージは別にあってもその根底にあってほしいもの。
そんなことを思ったのでした。
ん・・・。というころは、この世を素晴らしいものにする責任もあるということだ。
*ところで、先日、友人のご主人が(という言い方は好きではないのですけどね。慣例的に使っています) このブログを読んでいるということを聞かされ・・・。そりゃあ、公開しているわけなので、誰が見ているかわからないのですが。
時に真面目ぶってこんなことを書いたかと思うと、どうでもいいことをつぶやいて。
そんな感じなのに、ありがとうございます!!