先日、母さんが、
「あそこのお宅の娘さんって、
確かお前と同い年位だったよなぁ。
この前、お母さんとばったり会ったら、
忙しそうにしててよ。
わしは、誰かは聞き取れんかったが、
とにかく15歳で亡くなって今から火葬場行くって言ってたけど、
あれか?お孫さんが亡くなったんかのぉ?」と言った。
おはようございます。
「母さん、それは、犬だ。愛犬のココちゃんだ。」
たまに会うと、必ず私に唸っていた威勢のいい、あの子も、
ついに旅立ったか・・・
私は、死というものを、必ずしもネガティブには捉えていない。
もちろん、愛する存在に先立たれれば、涙が流れる。
しかし、それは必ずしも、悲しいだけの涙ではない。
この世に生まれたからには、必ず死が訪れる。
例えば、
1匹の猫と出会った瞬間、
死へのカウントダウンが始まると言っても過言ではない。
いつ、どう死ぬかなんて、誰も分かりはしない。
ただ、少なくとも今は生きている。
いつ果てるか分からぬ、その命が尽きるまでは、
必ず生きているという事は、はっきりとわかる訳だ。
いつ死ぬか分からないのなら、
今生きているという事は、奇跡だ。
ぼんやりとしか分からぬ死は必然、
はっきりと分かる生は、実は奇跡。
私は、そう捉えている。
必然の時のために、奇跡は繰り返され、
必然の時があるから、奇跡は輝く。
奇跡は、必然があるからこそだ。
奇跡の輝きが今ここにあるから、
必然が、いつかが分からないから、
私達は、今を懸命に生きようと思えるのではないだろうか。
休日の私だって、輝いているはずだ。
傍から見れば、腐乱死体と見まがうほどの昼寝姿も、
それはそれで、きっと・・・輝いてるんだってばさ!
うんこを拾った時、
あの時は、さすがに戸惑った。
あまりに小さかったのだ。
獣医からも期待するなと言われるほど、
良くない状態でもあった。
当時、必然は遠くないと覚悟したが、
11年経った今も、彼女は奇跡を繰り返している。
そして、輝いている。
鼻なんて、いつもテカテカだ。
鼻炎で、鼻がテカテカだ。
そんな、うんこさんのお気に入りの場所がこれだ。
うんこの飛ばす鼻水で、いい感じに汚れている、これ。「鼻水チェア」
ところが、最近になって、
なぜか、よね婆さんが、鼻水チェアに興味津々。
興味の視線が、矢のごとく、突き刺さり
ついには
奪われた?
うんこさん、奪われたんか?
うんこ「貸してあげてんのよ、母さん」
うんこは、よねが欲しがるようになってから、
鼻水チェアに座らなくなった。
いいのか?
うんこ「いいのよ、母さん」
ほんとに、いいのか?
うんこ「いいのいいの、いいんだもん」
優しいうんこは、我慢しちゃうんだよな。
でもね、うんこさん?
奇跡の贈り物が、届くからな。
待ってろよ。
・・・・・・・・・・・・・次回へ、つづく