うめと愉快な仲間達

うめから始まった、我が家の猫模様。
犬好きな私は、チワワの夢を見ながら、
今日も癖が強めの猫達に振り回される。

奇跡と必然

2018年01月21日 | うんこの事

先日、母さんが、

「あそこのお宅の娘さんって、

確かお前と同い年位だったよなぁ。

この前、お母さんとばったり会ったら、

忙しそうにしててよ。

わしは、誰かは聞き取れんかったが、

とにかく15歳で亡くなって今から火葬場行くって言ってたけど、

あれか?お孫さんが亡くなったんかのぉ?」と言った。

 

おはようございます。

「母さん、それは、犬だ。愛犬のココちゃんだ。」

たまに会うと、必ず私に唸っていた威勢のいい、あの子も、

ついに旅立ったか・・・

 

私は、死というものを、必ずしもネガティブには捉えていない。

もちろん、愛する存在に先立たれれば、涙が流れる。

しかし、それは必ずしも、悲しいだけの涙ではない。

 

この世に生まれたからには、必ず死が訪れる。

例えば、

1匹の猫と出会った瞬間、

死へのカウントダウンが始まると言っても過言ではない。

いつ、どう死ぬかなんて、誰も分かりはしない。

ただ、少なくとも今は生きている。

いつ果てるか分からぬ、その命が尽きるまでは、

必ず生きているという事は、はっきりとわかる訳だ。

 

いつ死ぬか分からないのなら、

今生きているという事は、奇跡だ。

ぼんやりとしか分からぬ死は必然、

はっきりと分かる生は、実は奇跡。

私は、そう捉えている。

必然の時のために、奇跡は繰り返され、

必然の時があるから、奇跡は輝く。

奇跡は、必然があるからこそだ。

奇跡の輝きが今ここにあるから、

必然が、いつかが分からないから、

私達は、今を懸命に生きようと思えるのではないだろうか。

 

休日の私だって、輝いているはずだ。

傍から見れば、腐乱死体と見まがうほどの昼寝姿も、

それはそれで、きっと・・・輝いてるんだってばさ!

 

うんこを拾った時、

あの時は、さすがに戸惑った。

あまりに小さかったのだ。

獣医からも期待するなと言われるほど、

良くない状態でもあった。

当時、必然は遠くないと覚悟したが、

11年経った今も、彼女は奇跡を繰り返している。

そして、輝いている。

鼻なんて、いつもテカテカだ。

鼻炎で、鼻がテカテカだ。

 

そんな、うんこさんのお気に入りの場所がこれだ。

うんこの飛ばす鼻水で、いい感じに汚れている、これ。「鼻水チェア」

 

ところが、最近になって、

なぜか、よね婆さんが、鼻水チェアに興味津々。

興味の視線が、矢のごとく、突き刺さり

 

ついには

奪われた?

 

うんこさん、奪われたんか?

うんこ「貸してあげてんのよ、母さん」

 

うんこは、よねが欲しがるようになってから、

鼻水チェアに座らなくなった。

 

いいのか?

うんこ「いいのよ、母さん」

 

ほんとに、いいのか?

うんこ「いいのいいの、いいんだもん」

優しいうんこは、我慢しちゃうんだよな。

でもね、うんこさん?

奇跡の贈り物が、届くからな。

待ってろよ。

・・・・・・・・・・・・・次回へ、つづく