一昨日、帰宅したと同時に、
父から電話があった。
「また胸が苦しいって言っとるけど、見に来てくれんか?」
おはようございます。
3月、母が心筋梗塞で倒れた時と似ている。
私は、ビクついた。
実家へ行ったら、しばらく家に戻れないかもしれない。
そう思い、とりあえず猫達にご飯をあげてから、向かうことにした。
最近、どうもいけない。
私は、母に苛立つことが増えて来ていた。
アルツハイマーは、容赦なく進行していく。
それに加えて、あの大飯食らいだった母が、物を食べたがらなくなった。
そのくせ、買い物へ連れて行けば、カゴに片っ端から食料を入れてしまう。
そんなの要らないでしょうと諫めると、
「食べるんや!欲しい!」
と駄々を捏ねる。
でも、買って帰れば、
「誰がこんなもん買ったんや?お前、頭おかしいわ」
とケロっと言うものだから、苛立つ訳だ。
しかも、全てを忘れ、
「わしは、車を取り上げられたから、どっこも出かけてられん。」
と文句を言う。
いや今、買い物から帰ったとこだろうがと言っても、
「ほっかや?お前がおかしいわ」
と逆ギレだ。
それでも、
最近、私はよく、母に料理を振る舞うようになった。
料理は、もう全くできなくなった母に、少しでも食べて欲しい。
そして、それ以上に、溢れた食材を救済したいからだ。
昔から、かずこは熱心に料理を作るような人ではなかった。
ましてや子供のために、子供が喜ぶような料理を作るような母親じゃなかった。
だから私は、唐揚げを知らない子供だった。
ハンバーグもオムライスも、スパゲッティーも知らなかった。
かずこが作るのは、もっぱら自分と父の為の酒のつまみだ。
唐辛子が贅沢に混入された、地獄のピリ辛こんにゃく。
こしょうを豪快に振り掛けた、具無し火噴きやきそば。
激的辛み大根おろしに、生姜多すぎの薬膳もどき素麺。
とにかく、辛いったらありゃしないのだ。
加えて、かずこは、味覚が音痴だ。
愛知のひばりちゃんと言わしめるくらい歌は上手だったのに、
味覚は絶望的に音痴なんだ。
そして、子供のために何かをするなどという発想は一切ない母親だった。
小学4年生の頃だったろうか。
学級内でお誕生日会なるものが流行った。
私は馬鹿だから、何人かの会に喜んで参加してしまった。
千鶴ちゃんのお母さんの作ってくれた唐揚げに出会い、
ともちゃんのお母さんの手作りケーキに出会い、
ゆりちゃんのお家でグラタンなるものに出会った。
どの子の家も、まるでお城みたいで、どの子もお姫様みたいだった。
ある日、
「おかっぱのお誕生日会にも呼んでね」
と言われ、ようやく気が付いて、心臓が止まりそうになった。
私は、歯を食いしばりながら家に帰り、酒をあおる母に、決死の覚悟で土下座したが、
母は、
「お前なんかのために、そんな面倒な事、やってられるもんか」
と、煙草の煙と共に吐き捨てた。
それでも、他の子の家に行ってしまったお返しはしなければと、
しぶしぶ受けてもらったが、
当日は、一人で会場となる部屋を掃除して、一人で大きなテーブルを運んだ。
その上に、飾られた料理は、全て母が適当に買って来た総菜だった。
私は、すでに嫌な予感がしていたが、
ゆりちゃんは、ニコニコしながら他の女の子たちに目配せをして、
「せーの」
と息を合わせた。
その時、いままでムスッとしていた母が、口を開いた。
「あのな、うちは子供のために、こんな事したるほど、暇やないんや。
今度だけやから。もう、こいつは呼ばんといて。」
女の子達の笑顔が凍りついたのを見て、私はただただヘラヘラしているしか術が無かった。
私はあの時、お姫様の代わりに、つまらない道化師になった。
猫達の給餌を済ませ、
実家に駆けつけると、母は不安そうな面持ちで座っていた。
食卓には、手付かずの缶ビールとグラスがセットされている。
「どんな風に苦しい?胸が痛い?」
私は問いかけながら、母の顔に汗をかいていないか触れた。
すると、母が、
「苦しくはない。」
と言うではないか。
「ん?」
苦しくは・・・ない?
「頭がぼーっとして、鼻水が止まらんのや。病院、行った方がええかな~?」
さすが、トンチンカンだ。
これは認知症のせいではない。
母は、元来トンチンカンだ。
昔から、時々心因性の『どっか悪い気がする病』に罹る。
本人は、そうやって自分に逃げ場を与えているとは気付いていない。
本気で、どこかが悪くなったように思えてしまうのだ。
そうなると、主訴はどんどん変わっていく。
痛いから苦しいに変化し、時にはフラフラするとなり、かなりこじれると、
「ありえんくらいのウンコが出た。おかしい。病院へ行った方がええか?」
と心配する始末だ。
かずこの『どっか悪い気がする病』は乙女心よりも気まぐれだ。
私は、とりあえず血圧を測ったけれど、数値は正常値。
顔に汗もかいていない。
ましてや、苦しくもない。
となると・・・きっと大丈夫だ。
「わしはよ、はよ死にたいわ。」
突如、嘆き始める、かずこ。
「よし、だったら、病院は行かずにおこう。
迂闊に行ったら死ねなくなるもんな。ほら、ビール飲もう。
大丈夫!じゃんじゃん飲んで、ころっと死ねたら、ラッキーだろ?」
私は笑いながら、母のグラスにビールを注ぎ、
その缶から直にビールを口に含んでみせた。
そして、大量に買い込まれた食材を前に、
「さて、なんか美味いもんを作ろうな。」
と腕まくりをした。
なんだよ、まったく!人騒がせなっと思いながら料理し始め、私はハッとした。
昔の、嫌な思い出を呼び起こしたって、もうそこに怒りは無い。
昔の恨みつらみが、付随してこないのだ。
以前の私は、なにかにつけ、昔の母のせいにしていた。
苛立つのも、怒れるのも、自分の人生が思うようにならないことさえ、
「母さんがあんな親だったからだ」という逃げ場に逃げ込んだ。
それなのに、
振り返ると、かずこは恐る恐るビールをちびちび吞んでいる。
怖いなら、呑まなきゃいいのにだ。
笑っちゃう。
イライラするけど、笑っちゃう。
私は、何かを乗り越えたのかもしれない。
心の中で、長いこと、うじうじした小さな私は、
恨みながら、妬みながら、母の愛を乞うてきた。
それが、私を長いこと、苦しめてきたし、握りしめてきた。
決して離すものかと、意地でも握りしめて生きてきたのだ。
何もかも忘れて行く母が恨めしかったはずなのに。
それでも、どんどん変わって行く母にがむしゃらに着いてきた。
かずこは、もう昔のかずこじゃない。
もっと酷い!
だけど今、私はまるで暴走列車かずこ号に乗って、
来たことのない景色に連れて来られたみたいな爽快な気分になっている。
爽快に、イライラしている!
「よし、できたぞー」
よし、ここからが本当の始まりだ。
今の母と、今の私とで紡ぐ時間が始まった。
「なんかよ、これ甘いな。菓子みたいに甘い。」
「うっさい!食べれ!!」
この頃は、うじうじしてたっけな。