新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

田中将大は心配だ

2015-04-07 08:12:08 | コラム
田中将大は今シーズン中に潰れるのではないか:

田中将大は開幕戦で敗戦投手になってしまった。矢張りかと思ってニュースを見ていた。

5日に愚息と「今年の田中は危ない」との点で議論が一致したばかりに、今朝・の敗戦投手である。愚息は(ご記憶の向きもあるかと思うが、フットボールのXリーグでオフェンスコーチだった)それなりに自分の専門の競技以外にも一家言を持っている。「フットボールでは投げないのでは」という疑問をお持ちの方もあるかと思うが、QB(クオーター・バック)はあのボールを50ヤードも投げる肩と技術が求められているし、その指導をもすると思って頂きたい。

私と一致した見方は「田中はDarvishと違って肘の手術を回避した。しかし、シーズン前からの投げ方を見ていると明らかに肘を気遣った形で昨年までとはフォームが変わっている。第一に力一杯に直球(ストレートは和製語である、念のため)を投げていない。明らかに怖がっている」だった。結論は「あれではしズンが終わるまでの壊れてしまう危険性が高い」となった。しかし、手術すべきかどうかは我々が言及出来ない範囲にある問題だ。

さて、終わったばかりの試合だ。所々しか見ていないが、明らかに力一杯の速い投球を避け「スプリット」と言われる変化球中心の組み立てだった。先程テレ朝に出た里崎は「ストレートが少ない」点を指摘していたが、あれだけの経験がある捕手だった彼が、田中の何処に問題があるかくらいを解っていないはずはあるまい。だが、それをあの場で言うわけには行かなかったのだろうと読んだ。

また、我が国のテレビ局は「三振奪取」を殊の外有り難がる。また、海外に出たサッカーの連中の報道でも「得点」乃至は「得点に絡んだ」事を特に有り難がる傾向がある。何度でも言うが「アメリカの打者は勝負に出てくるので”目にものを見せてやるぞ”とばかりに振ってくるので、三振が穫りやすいのだ。即ち、我が国の綿密な野球とは異なって投手と打者の虚々実々の駆け引きは極めて希だ」と承知していれば「三振」は獲りやすいし、獲られやすいという文化の違いがある。

たった一度敗戦投手になったからと言うだけで、田中の今シーズンを占うのは早計かも知れない。だが、あの全力で直球を投げるのを躊躇っているかの如き田中の姿勢を見ていると、彼の行く手は暗いのではないかと、悲観論者の私は考えてしまうのだ。彼は昨年にはあのような「担いだ」ような投げ方をしていなかったと記憶するから言うのだ。

同様に極めて先行きが暗いと見るのがホークスに帰ってきた松坂大輔だ。報道では「フォームがバラバラだ」とあるが、私が見た感じでは田中以上に「担いだ投げ方」で、あれではほとんど嘗て言われた「キャッチャー投げ」だった。あの投げ方では速い球はとても期待出来ないだろう。彼もアメリカであそこまでやった実績を残したが、最早往年の力も技術も体力も残っていないので、大きな期待をせずに見守ってやったら良いのではないか思うのだ。

スマホ止めますか、信大生辞めますか

2015-04-07 07:26:51 | コラム
マスコミの摘まみ食い報道批判:

これは信州大学の入学式での学長の講演の中から俗受けしそうなところだけを抜き出した、例のよって例の如きマスコミの報道の仕方である。講演の要旨の全体を見れば、学長は「本を読みなさい。自分の頭で考えなさい」と言うためにこの表現を使われたのは歴然としている。「依存するな。安易に検索するな」という意味があると思って読んだ。「またか」とウンザリだった。少なくとも私は歓迎だった。

しかし、マスコミは「待ってました」とばかりにこ、こだけを抜き出して街頭インタビューをして多くの新入生に反対論を言わせていた。中には「スマホは身体の一部だ」とまで言う学生がいたが、私にとっては別段驚きでも何でもなかったように聞こえたが、これが私にも解る現代の風潮なのだ。

私に後期高齢者として言わせて貰えば「スマートフォンは21世紀の開発商品の中でも最悪の一つである」となる。この理論は嘗て「携帯電話は20世紀で最悪の開発商品」と断じたことの延長線上にある。携帯電話が普及し始めた頃に既に「メール」が一般的になってしまっていた。そこを捉えて漫才の松本人志は「電話やろ。話せばええやないか」と言ったのが忘れられない。

スマートフォンなる代物は最早「フォン」なる表現が当てはまらないと思うほど、多種多様な機能を持つパソコン以上にコンピュータ的に存在になってしまった。しかも、私が見る限り多くの中学や高校の子供たちも若き女性たちも良い大人も、乗り物の中だろうと何処だろうとゲームとやらに熱中するための貴重な道具と化してしまっている。これが果たして我が国の社会にとって有益な器機と言えるのかと、私などは常に疑問に感じている。

確かに、スマホかタブレットを持っている者が直ぐそばにいてくれた場合には、何か急にその場で知りたい事柄か疑問に感じた案件は直ちに検索して解決して貰える便利さはある。忘れたことを幾つかのヒントなることを言えば検索で思い出させて貰えるのも確かだ。だが、後期高齢者は検索する知恵はいきなり出ては来ないので、先ず衰えた記憶を呼び起こすことから入る。だが、現代の若者はその過程を全く飛び越して検索で済まそうとすると思っている。

私は遺憾ながら、その何れの手段乃至は方法が正しいとか時代感覚に満ちあふれているかを論ずる勇気はない。と言うよりも、時代が器機の進歩と発達のお陰で変わってしまったと認識せねばなるまいと、諦めるべきかとすら考えているからだ。そういう時代に文明の利器で育ってきた若者が支配し統治する時代が何れやってくるのだろうが、私はその頃にはこの世にはいないのだから。

しかし、スマホやタブレットの便利さを認めるのに吝かではないが、それらを使用するためには頻繁に充電せねばならないのであるし、電気代は上がることこそあれ、下がっていく気遣いがほとんどない時代にあってはその便利さを享受するためには「他の製品や商品向けの消費が携帯電話が普及し始めた頃に『みんなが持っている』という殺し文句で子供に持たせて可処分所得が消えたことと同じ現象が起きはしないのか」と私は危惧するのと同時に「考えないで済む」傾向が広まっていく時代が来ることも、決して歓迎すべきではない」と懸念しているのだが。