新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

逆さの文化を克服せよ

2015-04-29 09:05:19 | コラム
ポールって誰のこと?:

好い加減に欧米人の氏名を表記する場合には、失礼に当たらないように名字だけにするかフル・ネームにするかを決めて、罪なきおかしな英語教育を受けた一部の国民皆様を惑わさないようにして貰いたいものだ。誰が惑わすのかって、マスコミにだ。必要とあれば、何れを表記したかを何処かで述べておけば事足りるのではないか。何れにせよ、”first name”での表記か呼称は願い下げたが。

昨日?ポール・マッカートニーの日本での最終公演があったと報じられている。しかし、私が気に入らないことがある。それはテレビ局と新聞によってこのUKの歌手の氏名の表記がバラバラという点だ。テレビでは圧倒的に「ポール」で、時に「ポールさん」というのがある。ごく偶にポール・マッカートニーと呼ぶことがあるがね。新聞でもポールとする方が多く、ポール・マッカートニーの方が少ない。

余談に近いがビートルズはUKでその功績を認められて”sir”の称号が与えられており、本来ならばマカートニー卿と呼ぶのが礼儀だと思う。また彼のフルネームは”Sir James Paul McCartney”であって、彼はミドル・ネームをニック・ネームに使っているのだ。故に、固いことを言えば、彼を「ポール呼ばわり」するのは私は余り褒めたことではないと危惧するのだ。失礼ではないかと言っているのだ。

こういう文化の違いを私がW社内で正式語り始めたのが1990年だった。そのプリゼンテーションの最初の1ページ目は「逆さの文化」=”Reversed culture”だった。そこに数多ある日米間の「逆さの文化」の一例として挙げたのが”First name first”対”Last name first” basisの違いだった。総理を例に採れば「安倍晋三」は英語表記では”Shinzo Abe”となるようなことだ。

この名字を先に表示する我が国の文化で育ってきた多くの方々は戦後70年後とでも言っておけば良いのだろうが、未だに欧米人の名前(誤った日本語では「下の名前」だが、今は横書きの時代だと言うことを忘れている)を先に表示し、名字(surname, family name, last name)を後にする文化に馴れていないようなのが残念だ。思うに学校教育での英語に至らざる点があるのだろうか。

解りやすく言えば、欧米人の名刺などにアルファベットで表記されている氏名で、先に出てくるのは名字(the last name)ではなく名前(first name)だということ。それだけではない、人によっては、そこにミドル・ネームかニック・ネームから始めている場合があると承知して置いて貰いたい。

余談になるが、私も「英会話」等というものをご指導申し上げたことがあったが、その際に名刺を交換した後にファースト・ネームが”Bill Clinton” 等とニック・ネームが表示されていたならば、確認のために”How may I call you, Bill or Mr. Clinton?”と尋ねておくと良いといっていたものだった。

しかし、我が国、特にマスコミの間では未だにこの”first name first basis”の文化に不馴れというか、我が国の文化と混同したままなのか、欧米人の氏名を記事にするか放送する時に混乱している。卑近な例を挙げれば故人となったマイケル・ジャクソンが適切だろう。ほとんどの場合彼は「マイケル」か「マイケルさん」で、「ジャクソン」か「ジャクソンさん」、「マイケル・ジャクソン」とされたのを見聞した記憶は1~2度ほどしかない。

私何度も「マイケル」としただけでは何処の誰とも特定しないと、ブログ上でも講演の際などに指摘して理由を解説したが、一向に効果はなかったようだ。即ち、アメリカだけでも「マイケル・ジョーダン」や「マイケル・ジョンソン」(=オリンピックで金メダルを取った陸上の走者)がいるではないか。尤も、この件を在米40年の人と語り合った際に「大体からしてマイケルが誤記だ。あれはマイクルだ」と言われたのには参った。正確にはその通りだから。

面白い混同の例を挙げておこう。我が国のレコード屋(今やCD屋でもなくなるかも知れないが?)では外国人アーティストをアルファベットで分類する際に”first name”になっていることだ。Jazzを例に挙げれば、往年の大名手”Miles Davis”は”M”に、”Winton Marsalis”は”W”に入っているのだ。ところが、嘗てロンドンでTower Recordに入って見ると、全部が”Last name basis”になっていた。当たり前か!

もう一つ「悲しき勘違い」という例を。エンジニアの”George Smith”(仮名)は我が国で配る名刺のカタカナ表記を何の迷いもなく「ジョージ・スミス」として置いた。彼は何年も日本に来ていたが、何処に行っても他人行儀に「ミスター・スミス」と呼びかけられ続け、ファースト・ネームで呼びかけてくれる打ち解けた関係が築けていないと不安だった。

ところが、馴染みの工場の新任の課長さんが彼の名刺を矯めつ眇めつ眺めた後で、何と喜ばしいことに「ジョージさん」と呼びかけてくれたのだった。彼は心秘かに喜んだ「やっと彼等の仲間とし認められたのだ」と。だが、私は課長さんの単なるカン違いだと思っていたが、敢えて折角喜んでいるジョージにはそうは言わないでおいた。後刻、課長さんに確認すると「えっつ、あの人はジョージが名字じゃなかったのですか」だった。

このような一見簡単なことが70年も経っても未だに理解出来ていないようでは、真の日米相互理解等は「大志」(ambitiousがこう訳されているので、引用しただけ)どころか、何時まで経っても「夢のまた夢」になりはしないかと、心中密かに危惧している。しかし、勿論「杞憂」に終わることを切望している。