新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月には何があったか

2015-04-11 16:32:13 | コラム
我が家の4月:

去る8日(水)は毎週の行事である病院でのリハビリテーションの日で、状態が安定して来たと言われて一安心して帰宅した。だが、結果として何となくそれ以前までの緊張感が薄れて来たのは要注意であると、自戒している。実は、8日はこのアパートに越してきた27回目の記念日であると同時に、昭和16年(1941年)に私の転地療養と偶然にも疎開となって離れた東京に藤沢から戻ってきた記念すべき日でもある。

さて、10日は我が夫婦の52回目の結婚記念日だった。昨年末から大病を患い続けた身からすれば、よくぞ我が家でこの日を迎えられたという感が深い。2年前の金婚式とやらはその日を祝って一寸高級な寿司屋に行ったものだったが、減塩食を励行する現在の私の体調ではそれどころではない。そこで、リハビリ療法士に許された行動範囲の限界にあるケーキ屋まで歩き高価な?ケーキを買ってきて家内に感謝の意を表した。

11日は亡母の祥月命日なのだが、生憎の雨模様の曇天では現在の当方の体調では墓参の遠出は見送らざるを得ず、仏壇にお参りして延期をお願いした。今月中には何とか出掛けられれば良いがと念じている。因みに、墓地は決して遠いところではなく、最寄り駅がJRの巣鴨である都営の染井霊園なのだ。

13日は色々なことがあった日だ。その昔と言うか、私が生まれる以前の昭和2年(1927年)に父方の祖母が亡くなった日だ。その上に、何れは私の健康が好転すれば帰るはずだった東京の家が、アメリカの大空襲で消失した何とも残念な日なのだ。その焼け跡は色々と事情があって処分されてしまっている。戦後70年経った今までにそこを訪れたのは3回くらいしか記憶がない。

日付けは前後するが、4日が大正12年に祖父が亡くなった日だった。祖父は森鴎外と対立していたと物の本にもある軍医監だったが、残念ながら私は仏壇の中の写真でしか見ることがない。因みに、昭和12年に交通事故で亡くなった父も医者だったが、三代目の私が不勉強で当家の伝統?を維持出来なかった。

という具合で、振り返れば我が家では4月の前半には斯くも色々なことが起きていたのだったと半ば感心している。本日も午後4時に近くなった今頃になって日が当たり始めた。これでは衰えを感じさせられる足を鍛えるべく日課にしてきた散歩に出ていくのには遅い。兎角この世はままならないものだと思っている。

英語の発音の考察

2015-04-11 08:00:07 | コラム
私は発音については「発音が良いのは七難隠す」と長年唱えてきた。そこで、ここでは「発音が良い」とは何を指すのかを考えてみる。

正確であること:
これは日本語にはない音で英語独特の発音である、“th”、“lとr”、“fとv”、“w”等に加えて“a,e,i,o,u”の後に“r”がついた音をどれだけ”native speaker”に近く発音出来るか、または出来ているかであるかが重要であると考えている。

ここでは、初めて英語を教えられた時に、どれほど正確に発音を教えられたかが重要な要素であると思う。ということは「誰がどのように教えたか」という問題でもある。即ち、由緒正しきnative speakerだったか、外国人離れした発音しか出来ない日本人の先生だったかということだ。ここでカタカナ表記的な発音しか教えられていないと正確にも綺麗にもならない点が問題だと危惧する。

明瞭であること:
ここで言いたいことは「相手が正確に聞き取ってくれるだけ明瞭であるか」なのだが、「通じるだろうか」などと躊躇うことなく自信を持って発音出来るかなのである。換言すれば「そこまで出来るように教えられてあったか、またはそこまで行くための訓練を受けたか乃至は練習をしてきたか」となる。

綺麗であること:
これは最初に綺麗な発音を教えられたかどうかの問題だが、「正確であること」で指摘したように、そこを教えられていないと綺麗な発音にはなりにくいのである。

Native speaker並か:
ここは上記の「綺麗であること」と連動する。望むらくは「正確」で「綺麗」な発音を最初に教えられて、極力英語を母国語にする人たちの発音に近付こうとする努力がないと進歩しないと考えている。

Native speaker教えられれば良いのか?:
私は解りやすくいえば「native speaker盲信」を排除するものである。理由は数々あるが、先ずは体験談を。20年ほど前だったが、我が家の近所で若きアメリカ人夫妻に道を尋ねられたことがあり、立ち入ったことで「何をしに日本に来たのか」と尋ねてみた。

彼等は嬉しそうに「英語学校で英語を教えに来た」と答えたので「アメリカで外国人に英語を教える教職課程でも取ってきたのか」と問い質すと「何ら資格は持っていない」と言うではないか。そこで私は「それは最早犯罪行為に近い。君らのような無知蒙昧な連中が来て出鱈目な英語を教えることには百害あって一理もない。早速そのまま成田に向かって引き返すと良い」と言ってやった。可哀想に目を白黒させていた。そこで、「まー、私が言ったことをよく噛みしめて一日か二日良く考えろ」と言って解放してやったものだった。この辺りが英語教師と言ってやってくるアメリカ人によく見られる例である。

しかも、英語と言っても、アメリカでは西海岸、東部、南部では異なるアクセントも語彙もある。英連合王国で所謂”Queen’s English”を話す人たちが全体の何割いるのか、London Cockneyで話す者がどれほどいるのか、オーストラリアやニュージーランドや、はたまたカナダでは如何なる英語を話しているのかを承知して、それぞれを正確に聞き分けて「日本人に英語を教えるのに適確か」と判定出来る人が沢山いるのだろうか。いや、いるはずがないというのが私の結論だ。

より厳しく言えば、その外国人が如何なる社会的階層の出身者かと言うのも重要な問題だ。私はオバマ大統領が多発される“I’m gonna ~.”や“I wonna ~.”式の語法を批判し続けて来た。私は矢張り“I am going to ~.”と“I want to ~.”をキチンと覚えて使って次の段階でこういう形を私的な会話で使うのは妨げないが、大統領ともあろうお方が嬉々として使って貰いたくないと思う。知らない者が「あれで良いのだ」と誤解するから。

これでも解りにくいと言われる向きには「嘗て山形県に住み着いて山形弁を身に付けたDaniel Carlのようになりたいのか」と問い掛けたい。マスコミが「貴公子」と名付けたサッカーのDavid Beckhamは自らの名前を「ダイヴィッド」と言っている。これぞCockneyである。こんな英語をイギリスの正調な英語であるなど思って真似てはならないのだ。

おかしな言い方になるが、我が国で学んでいる限りnative speaker並には容易にならないとは思うが、そこを目指しておく心がけは必要だろうと思う。

アクセント、イントネーション、ポーズ、センテンス・ストレス:
私はこれらの重要な書店を我が国の学校教育では厳しく教えられていないと感じている。私自身の経験では「英語には日本語にはないようなリズム感があり、それが単語毎のアクセント(accent)であり、イントネーション(抑揚)であり、ポーズ(pause)であり、センテンス・ストレス(sentence stress、文中の何処を強制するか)であると考えている。

英語で、英語を話すようになった頃にこれらの諸点があったために知らず知らずの間に身体でリズムをとって話していたものだった。この点がどちらかと言えば全体に抑揚がなく平板な日本語の流れと異なる点だと思う。

これらの点で大いに問題があると私が常に指摘してきたのがJRやメトロ等の車内放送の英語を担当しているクリステル・チアリの英語である。私は何故フランス人で我が国で生まれた彼女を採用したのか全く理解出来ないが、あの英語は実に不正確なのだ。

何時も指摘してきた問題点を挙げておくと“Please change your trains here for the Odakyu Line.”のような場合に、一度切るべきである“here”で止まらずに、その後の“for”を「フォーア」等と声高らかに言っているのは「無教養な英語である」と疑われても仕方がないのだ。この点を厳しく指摘しているのは私だけではなく、何人かの同胞が怒っておられるというに止める。私に言わせて貰えば「国辱的な酷さ」なのである。

“for”や“to”や“of”のような「前置詞」や「接続詞」や「副詞」などはアクセントを置かないものなのである。上記の例文では“for”は精々「フ」くらいに止めて置いて良いのだ。

発声:
英語は感覚的に捉えて言えば「腹から声を出す」のであり、大きく口を開けて話す積もりで良いと捉えている。一方の日本語は余り大きく口を開けておらず、音域が低い言語だと思っているから言うのだ。現に混み合った電車内でも英語圏の人たちが会話をしていると直ぐに聞こえてくる。これは発声の違いと高い音域のためであると認識している。

筋肉トレーニング:
おかしな事を言うと思われるだろう。これは英語では使う筋肉が日本語とかなり違うので、日頃からそれに必要な個所を鍛えておくというか慣らしておかないと、イザという時に動いてくれないし、正確な発音になりにくいという意味だ。それは、私が言う音読で鍛えておくことも必要だということでもある。

私は最早一年の365日を英語だけで暮らす生活を離れて20年以上も過ぎたので、顔面の筋肉がすっかり英語の動きを忘れてしまって、それこそ偶に英語で話さねばならない時が来ても思ったように動いてくれず、もどかしい思いをしたのである。

また別な表現をすれば、現職であった頃の写真を見ると(現代には通用しないかも知れないが)所謂「二世顔」(日系米人の顔付きで、ここでもまた古い表現で恐縮だが、最初に日本のプロ野球に入って来たハワイ出身の与那嶺要の顔を思い出せる方は思い出して頂きたい)なのである。だが、今では綺麗サッパリ日本人に戻っている。

回りくどい言い方だったが、正確で切れに英語を発音しようと思えば、顔面の筋肉をトレーニングしておくことが肝心なのである。

私自身の発音:
これは最初に中学1年の時に教えて頂いた先生が言わばアメリカ人だった喜代田先生に正確で綺麗なアメリカ式発音を仕込まれたので、可なりアメリカ人に近い発音が出来るようになっていたのが幸運だった。

しかし、高校を出る前には当時ラジオで英語を教えていたJames Harrisなる者が「日本人には“ar、er、ir、or、ur”をアメリカ人式に発音するのは難しいことだし、この点は放棄して、イギリス式との中間を目指す方が無難だ」と言っていたのに影響されたわけでもないが、確かに発音しやすい中間を採っていたのは確かだった。

その成果かどうかは不明だが、オーストラリアでもカナダでも“You speak beautiful English.”と褒められた中間派が「何故そう言うか」と訊き返すと「アメリカ語ではないから」と彼等の反アメリカ精神が露骨に出てきた。

そこで会社の同胞たちに「俺の英語がQueen’s系か」と尋ねると大笑いされて「何がQueen’s系か。君の発音はアメリカ系でしかない」と言われた。どうやら中間派は何れの発音でもないカメレオンのような発音らしい。

しかし、自信を持って言えることは何人かの同僚や友人に「君の発音は明瞭だ。(clarityという表現だった)今後もその点は維持するように」と言われ事だ。これは自信を持って話せるようになったので躊躇うことがないようになったことも手伝っていると思う。