我が家の4月:
去る8日(水)は毎週の行事である病院でのリハビリテーションの日で、状態が安定して来たと言われて一安心して帰宅した。だが、結果として何となくそれ以前までの緊張感が薄れて来たのは要注意であると、自戒している。実は、8日はこのアパートに越してきた27回目の記念日であると同時に、昭和16年(1941年)に私の転地療養と偶然にも疎開となって離れた東京に藤沢から戻ってきた記念すべき日でもある。
さて、10日は我が夫婦の52回目の結婚記念日だった。昨年末から大病を患い続けた身からすれば、よくぞ我が家でこの日を迎えられたという感が深い。2年前の金婚式とやらはその日を祝って一寸高級な寿司屋に行ったものだったが、減塩食を励行する現在の私の体調ではそれどころではない。そこで、リハビリ療法士に許された行動範囲の限界にあるケーキ屋まで歩き高価な?ケーキを買ってきて家内に感謝の意を表した。
11日は亡母の祥月命日なのだが、生憎の雨模様の曇天では現在の当方の体調では墓参の遠出は見送らざるを得ず、仏壇にお参りして延期をお願いした。今月中には何とか出掛けられれば良いがと念じている。因みに、墓地は決して遠いところではなく、最寄り駅がJRの巣鴨である都営の染井霊園なのだ。
13日は色々なことがあった日だ。その昔と言うか、私が生まれる以前の昭和2年(1927年)に父方の祖母が亡くなった日だ。その上に、何れは私の健康が好転すれば帰るはずだった東京の家が、アメリカの大空襲で消失した何とも残念な日なのだ。その焼け跡は色々と事情があって処分されてしまっている。戦後70年経った今までにそこを訪れたのは3回くらいしか記憶がない。
日付けは前後するが、4日が大正12年に祖父が亡くなった日だった。祖父は森鴎外と対立していたと物の本にもある軍医監だったが、残念ながら私は仏壇の中の写真でしか見ることがない。因みに、昭和12年に交通事故で亡くなった父も医者だったが、三代目の私が不勉強で当家の伝統?を維持出来なかった。
という具合で、振り返れば我が家では4月の前半には斯くも色々なことが起きていたのだったと半ば感心している。本日も午後4時に近くなった今頃になって日が当たり始めた。これでは衰えを感じさせられる足を鍛えるべく日課にしてきた散歩に出ていくのには遅い。兎角この世はままならないものだと思っている。
去る8日(水)は毎週の行事である病院でのリハビリテーションの日で、状態が安定して来たと言われて一安心して帰宅した。だが、結果として何となくそれ以前までの緊張感が薄れて来たのは要注意であると、自戒している。実は、8日はこのアパートに越してきた27回目の記念日であると同時に、昭和16年(1941年)に私の転地療養と偶然にも疎開となって離れた東京に藤沢から戻ってきた記念すべき日でもある。
さて、10日は我が夫婦の52回目の結婚記念日だった。昨年末から大病を患い続けた身からすれば、よくぞ我が家でこの日を迎えられたという感が深い。2年前の金婚式とやらはその日を祝って一寸高級な寿司屋に行ったものだったが、減塩食を励行する現在の私の体調ではそれどころではない。そこで、リハビリ療法士に許された行動範囲の限界にあるケーキ屋まで歩き高価な?ケーキを買ってきて家内に感謝の意を表した。
11日は亡母の祥月命日なのだが、生憎の雨模様の曇天では現在の当方の体調では墓参の遠出は見送らざるを得ず、仏壇にお参りして延期をお願いした。今月中には何とか出掛けられれば良いがと念じている。因みに、墓地は決して遠いところではなく、最寄り駅がJRの巣鴨である都営の染井霊園なのだ。
13日は色々なことがあった日だ。その昔と言うか、私が生まれる以前の昭和2年(1927年)に父方の祖母が亡くなった日だ。その上に、何れは私の健康が好転すれば帰るはずだった東京の家が、アメリカの大空襲で消失した何とも残念な日なのだ。その焼け跡は色々と事情があって処分されてしまっている。戦後70年経った今までにそこを訪れたのは3回くらいしか記憶がない。
日付けは前後するが、4日が大正12年に祖父が亡くなった日だった。祖父は森鴎外と対立していたと物の本にもある軍医監だったが、残念ながら私は仏壇の中の写真でしか見ることがない。因みに、昭和12年に交通事故で亡くなった父も医者だったが、三代目の私が不勉強で当家の伝統?を維持出来なかった。
という具合で、振り返れば我が家では4月の前半には斯くも色々なことが起きていたのだったと半ば感心している。本日も午後4時に近くなった今頃になって日が当たり始めた。これでは衰えを感じさせられる足を鍛えるべく日課にしてきた散歩に出ていくのには遅い。兎角この世はままならないものだと思っている。