三浦知良には彼の選んだ道を進んで貰いたい:
張本勲に激励された結果か三浦君がまたへディングで得点した。48歳と1ヶ月24日だったそうだ。偉いものだ。
そこで、私が48歳の時にどのような(「どのように」でも良いが)サッカーを楽しんでいたかを思い出してみた。暫し、回顧談にお付き合い願いたい。正直なところ記憶力を誇る私は「藤沢四十雀」というクラブに何時加盟し、何時止めたかの記憶がないし、記録も残していないのだった。しかし、間違いなく1976年には入っていたし、81年までは嬉々として試合に出ていた。ということは48歳まではサッカーをやっていたことになる。
このクラブは極めて大らかなもので、40歳以上の人が集まっており、上を見れば嘗ては関東大学一部リーグの正選手(一本目でも良いか)もいれば、下には(失礼だが)サッカー経験がない素人の方もいて、皆で楽しくリクリエーションとして楽しんでいられるような組織だった。
私は全国制覇を逃した高校の頃は兎も角、関東大学四部リーグの花形?だったが、卒業後5年ほどは母校の非公認コーチを務めた後はサッカーと縁を切った形だった。そして、1976年には16年の空白を経て、見知らぬ人たちの中に入ってボールを蹴ることになった次第だ。
そこで驚かされたのが靴とボールの進歩と変化だった。物がなかった中学から高校の時期と大学の頃には考えられなかったほどキック力が向上したと思わせられたほど、球を遠くまで蹴ることが出来たのだった。同じクラブや対戦相手となったティームにいた高校の下級生だった連中に「40歳を超えてなおキック力が向上した人を見たことがない」と皮肉とも褒められたとも採れることを言われた。
しかも、嘗ては雲上人とまでは言わないまでも自分たちの四部リーグでは手の(足の?)届かない名選手だと思っていた連中も、40歳を過ぎればただの小父さんだったのにも「案外なものだ」と痛感させられた。思うに、彼等は一部校ので猛練習と厳しい試合を続けたために体力を使い果たしてしまったのに対して、碌な練習もせずに過ごした四部校の出身者には未だ高校当時の体力がある程度維持出来ていたのだろう。
回りくどい言い方だったならばお詫びするが、私は往年の名選手の中に入って体力とキック力の点ではひけを取らずに、楽しくリクリエーションとしてのサッカーが出来たのだった、48歳になっても。そう考えてくると、三浦君は高校の頃に一念発起してブラジルに渡って技術に磨きをかけ、全日本代表となるまで鍛え上げたことは、生半可な練習量ではなかったはずだ。
しかも、往年のスピード感も見えず、持ち過ぎることもないとは言え、自分の子供のような年齢の者たちの中に入って試合に出て、しかも得点出来ている体力と精神力を維持していることは誠に素晴らしいものがあると言って賞賛して良いだろう。私は体力も精神力も個体差というか個人差があると思っているので、三浦君が今後とも周りや張本が何と言おうと気にせずに、我が道を進んでいけば良いと思う。
しかし、重ねて言うが「晩節だけは汚さないよう」十二分に注意して貰いたいものだ。
張本勲に激励された結果か三浦君がまたへディングで得点した。48歳と1ヶ月24日だったそうだ。偉いものだ。
そこで、私が48歳の時にどのような(「どのように」でも良いが)サッカーを楽しんでいたかを思い出してみた。暫し、回顧談にお付き合い願いたい。正直なところ記憶力を誇る私は「藤沢四十雀」というクラブに何時加盟し、何時止めたかの記憶がないし、記録も残していないのだった。しかし、間違いなく1976年には入っていたし、81年までは嬉々として試合に出ていた。ということは48歳まではサッカーをやっていたことになる。
このクラブは極めて大らかなもので、40歳以上の人が集まっており、上を見れば嘗ては関東大学一部リーグの正選手(一本目でも良いか)もいれば、下には(失礼だが)サッカー経験がない素人の方もいて、皆で楽しくリクリエーションとして楽しんでいられるような組織だった。
私は全国制覇を逃した高校の頃は兎も角、関東大学四部リーグの花形?だったが、卒業後5年ほどは母校の非公認コーチを務めた後はサッカーと縁を切った形だった。そして、1976年には16年の空白を経て、見知らぬ人たちの中に入ってボールを蹴ることになった次第だ。
そこで驚かされたのが靴とボールの進歩と変化だった。物がなかった中学から高校の時期と大学の頃には考えられなかったほどキック力が向上したと思わせられたほど、球を遠くまで蹴ることが出来たのだった。同じクラブや対戦相手となったティームにいた高校の下級生だった連中に「40歳を超えてなおキック力が向上した人を見たことがない」と皮肉とも褒められたとも採れることを言われた。
しかも、嘗ては雲上人とまでは言わないまでも自分たちの四部リーグでは手の(足の?)届かない名選手だと思っていた連中も、40歳を過ぎればただの小父さんだったのにも「案外なものだ」と痛感させられた。思うに、彼等は一部校ので猛練習と厳しい試合を続けたために体力を使い果たしてしまったのに対して、碌な練習もせずに過ごした四部校の出身者には未だ高校当時の体力がある程度維持出来ていたのだろう。
回りくどい言い方だったならばお詫びするが、私は往年の名選手の中に入って体力とキック力の点ではひけを取らずに、楽しくリクリエーションとしてのサッカーが出来たのだった、48歳になっても。そう考えてくると、三浦君は高校の頃に一念発起してブラジルに渡って技術に磨きをかけ、全日本代表となるまで鍛え上げたことは、生半可な練習量ではなかったはずだ。
しかも、往年のスピード感も見えず、持ち過ぎることもないとは言え、自分の子供のような年齢の者たちの中に入って試合に出て、しかも得点出来ている体力と精神力を維持していることは誠に素晴らしいものがあると言って賞賛して良いだろう。私は体力も精神力も個体差というか個人差があると思っているので、三浦君が今後とも周りや張本が何と言おうと気にせずに、我が道を進んでいけば良いと思う。
しかし、重ねて言うが「晩節だけは汚さないよう」十二分に注意して貰いたいものだ。