新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

1月8日 その2 カーラ・ヒルズ大使は言った

2017-01-08 10:53:12 | コラム
「買わない日本が悪い」と:

これまで1994年7月にNHKホールで開催されたパネル・デイスカションでの同大使の発言を紹介してきた。大使はアメリカの対日輸出が何故伸びないかの原因の根本的な点を躊躇なく認める発言をされた。長年対日輸出を担当してきた者の1人としては「善くぞ言ったものだ」と寧ろ感心していたくらいだった。だが、大使は「それでも、買わない日本が悪い」と締めくくられたのだった。

それは、原因がアメリカの製品の品質が、飽くまでも一般論としてだがこの点は重要だ、劣っている為に伸びないのだと認めたのだから重要なのだ。その劣っていることの原因が労働力の質にあると認識していると認める発言なのだから、アメリカの労働市場の実態をご存じでない向きには、何のことか解らなかっただろうと、その場で聴いていた私には閃いたのだった。

ここまで言っても未だ何のことかがお解りにならない方はおられるのではないかと危惧する。即ち、アメリカの国内市場で受け入れられている品質では(お断りしておくが紙パ案業界のことを云々しているのではない)世界の市場就中我が国では通用しないという、悲しくも冷厳な事実なのである。しかし世界最大の経済大国と自他共に許したアメリカでは、メーカーも最終需要者も「我が国の製品こそ世界最高である」と過信している言うなれば井の中の蛙の集団なのである。

世間では古くから「セラーズ・マーケット」と「バイヤーズ・マーケット」という言い方がある。だが、アメリカでは「セラー」はおらず「プロデユーサー」がいるだけなのだ。言わば「プロデユーサーズ・マーケット」なのだ。その連中は自分たちの生産効率を最大限に発揮することが可能なスペック(specification)を設定し、ひたすら大量生産に励むのだった。そのスペックには市場と最終消費者が求める要素は最小限度にしか考慮されていないと思っていて誤りではないのだ、生産効率を追求する以上は。その辺りを英語では”product out”などと表現されている。

仮令そうであっても、そのスペックの下に製造する現場の労働力の質が望ましくなければ、イヤ世界の平均的水準以上でなければ、世界市場での競走能力は低下するのだ。世界の諸国の技術水準と生活水準がアメリカ以下だった頃には、アメリカは世界に冠たる技術王国であり、その高水準にある研究開発(R&D)能力とその資本力によって世界を圧倒してきたのだった。しかしながら、アメリカが同じ水準に止まっている間に、世界の諸国は多くの面でアメリカを抜き去っていたのだった。

その辺りと言うか、アメリカがR&Dの能力の凄さは何もW社に転進する前から十分に認識させられてはいた。だが、紙パルプ・林産物業界の世界的大手である自社の巨大なテクノロジー・センターを現実に見て、そこに投入されている豊富な人材と資金には圧倒されたのだった。同時に一般論として「アメリカのR&Dの能力が世界最高であることは認めるにしても、そこで産み出された革新的な技術やアイデイアを商業生産に移行した場面での労働力の質が伴わず、競合国や後発の諸国に追い抜かれてしまう結果になってしまうのが、悲しくも冷厳な事実なのである。

私は日本市場という世界でも最も品質に対する要求が細か過ぎるし且つ厳格な国を相手にして、全く予期せざる苦労を強いられたのだった。簡単に言えば、アメリカでは我が国で当たり前のように達成されてきたごく当たり前のことである受け入れ基準を満たすことが出来ていない紙が市場では大手を振って通用しているという、何とも言いようがない現実があった。それにも拘わらず、クリントン政権は「原料だけ買うな。世界最高の紙である。サー買え。買わないとスーパー301条を発動するぞ」と脅しにかかったのだから救いようがなかった。ヒルズ大使は一般論としてその誤認識をご存じだったと理解して聴いていた。

それでも、当時「猛女」などと酷評したメデイアもあったほどで、大使は自分の職務に忠実に我が国に向かって「もっと輸入せよ、世界最高のアメリカ製品を買え」と迫っておられただけだと理解していた。私はトヨタを始めとする自動車メーカーがメキシコに生産拠点を設けようとする根拠が果たして労務費だけの問題なのか否かなどを知る由もないが、トランプ次期大統領はこれからカーラ・ヒルズ元大使にでもブリーフィングして貰ってアメリカの労働力の問題をおさらいする必要があるのではないかと危惧するのだ。

もしも、何らの予備知識もなくあの種のと言うか所謂暴言・失言の範疇に入る発言をしておられたのであれば、アメリカの何処かの層の国民はオバマ大統領に続いて、大変な人物を選んでしまった結果になるのではないかと密かに恐れているのだが。尤も、百もご承知であったのならば、少しは気が休まると思うが、これから先に新大統領が如何なることを言い出してくるかを思う時に、正直にな所恐ろしさを禁じ得ない。


7日目に入ったインフルエンザ日記

2017-01-08 08:22:42 | コラム
遂に7日目に入ったインフルエンザ:

ここまで来て思い出したことがあった。それはこの一向に治ろうとしない嫌らしい風邪と同じように苦しめられた経験があったと、1月8日の朝に思い出したのだった。今朝も目覚めた瞬間は2枚組のテイシュペーパーの1枚を剥がした程度の復調感があったが、朝食を終える頃にはタオルを持ってこなければならないほどの相変わらずの発汗があった。集中力も未だ不十分である。鼻水も一向に止まってはくれないのだ。これでは新たにクリネックスを買いに行かねばならないかと危惧する。

その経験とは、40年ほど前だっただろうが、家内の祖母のお葬式がある日に時間的に余裕があるからと、藤沢四十雀のサッカーに湘南高校のグラウンドに出かけた。当時は未だ藤沢に住んでいた、念のため。そして帰宅後に、何と言わば武士の魂にも喩えられそうなサッカーの靴を何処かに置き忘れたことに気が付いたのだった。慌てて学校に連絡すると、OB会の幹事さんが預かってくれている由だった。

後日幹事さんに連絡して恥を忍んで頂きに出かけた。その日は生憎と天候が不順で現地に到着する前に雨が降り始め、雨具を用意していなかった当方は何となく嫌な感じがする濡れ方をしたのだった。その結果か間もなく風邪を引き、その嫌らしさが現在悩まされているインフルエンザの状態に酷似していると気が付いたのだった。そして、この何とも嫌らしい風邪には一ヶ月近くも苛まれたのだった。

インフルエンザと普通の風邪(common coldと言うが)と同じかどうかは知る由もないが、あの時の名状しがたい辛さを、昨日ふと思い出したのだった。そして昨日の午前中に急遽とった行動は「安全な状態にあることを再確認しよう」とばかりに、1988年からの掛かりつけである高田馬場のSクリニックに向かうことだったのだ。S医師には「貴君は(精神的に?)脆いところがあるから」と笑いながら言われたものの「大丈夫だ」と診断され、予定通りに安心して帰宅した次第。但し、昨年末に受けた新宿区の高齢者の健康診断には循環器系以外で多少問題があるところがあり、別途国際医療研究センター病院への紹介状をあらためて頂いた。

そこで考えたことは「当方より2日前に同じA型を発症していた家内の方が遙かに順調に回復しているにも拘わらず、私のこの何とも言いようがないすっきりしない状態には今更思い悩まずに、インフルエンザとはこういうものだと諦めて、長いつき合いをする気で行けば良いじゃないか」なのである。実際には熱もなく咳も出ず、昨日などは好天にも助けられSクリニックまでの片道10分弱を、久し振りの外の空気を楽しみながら快調に歩いていたものだった。どうやら「病は気から」でしかないようだ。

午後からは高校サッカーの準決勝戦などは音声を聞くだけにしたし、ラグビーの決勝戦はキックオフ直後から東福岡が押しまくったのを見て東海大仰星の勝ちはないと見切って、ご贔屓の沢口靖子のドラマの再放送を見る方を優先してしまった。夜もさして見たい番組もなくBSを各局で見ていれば、何と昔懐かしき和田弘とマヒナスターズが出ており、昭和30年代だったかの大名曲「好きだった」を松平(だったか?)が歌うのを聴くことが出来た。

度々公言か広言してきたように流行歌は好みではないが、流石にあの頃の流行歌(はやりうた)を聞かされ、あの連中の顔を見れば、その懐かしさには言うなれば涙流るる思いだった。マヒナスターズはハワイアンとして一流だったはずだが、あの分野の歌に出ていって大成功したし、メンバーの中には確か当時の湘南電車で通学と通勤していた者もいたので、その意味でも懐かしさが一入だったのだ。俺も歳をとったものだと実感させられた一時だった。