新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

1月16日 その2 情けなかったU-23のサッカー

2020-01-16 14:00:32 | コラム
森保一監督だけの責任ではあるまい:

昨15日の夜には全く見る気もなかった消化試合と言っても良いだろう、対カタールの試合に偶然にチャンネルを合わせてしまった。正直なところ「未だやっていたのか」と思ったものの、折角だからと前半の途中まで見てしまった。「見てしまった」という言い方はないだろうと言われそうだが、見る価値があるとも思っていなかったのだった。

実に「ウンザリ」とさせられてしまう質の低いサッカーを、事もあろうに寄って集って外国まで行ってやって見せてくれた。あんな締まりがない消極的なサッカーを選抜テイームがやるのであれば、私はその積極性と技術と技巧を評価したばかりの静岡学園を出した方が幾らかマシではないのかと、残念至極な思いで見ていた。私はつい先日森保監督を酷評したばかりだが、あのU-23の連中のサッカーを見せつけられると、監督に全責任を押しつけるのは不公平で酷ではないかと考えるに至った。

責任逃れのパス回し:
その理由は沢山あるが、先ず指摘したい点は「あの責任逃れとしか考えられない、相手が誰も当たっても寄せても来ない安全地帯で得意の後ろ→横→横のパスをこれでもかと展開すること」である。陳腐な言い方に「攻撃は最大の防御」があるが、あの試合振りは「味方同士で安全にパスを回しているのが最大の時間潰し且つ相手の攻撃を封じる手段」と思ってやっているとしか見えなかった。全員で責任逃れをしていただけだ。情けなかった。私は森保監督があのパス回しを容認しているのであれば、即刻退陣させても良いと思う消極的なサッカーだった。

消極的すぎる:
次は「WMフォーメーション」の時代に育った私には理解できない、縦パス交換とでも言いたい消極策。これはバックスが前方に一応フリーな形でいるFW乃至はMFに縦パスを通すのだ。前にいる者は相手のゴールの背を向けている。すると当然のように相手のデイフェンスが寄せてくる。その瞬間に前にいる者は躊躇なく勢い良くバックスに真っ直ぐにパスを戻すのだ。即ち、得意技の「バックワードパス」だ。我々が育った頃の常識では「背中に背負った相手のバックスに対してフェイントかけてから、その逆方向にトラッピングをして素早く前を向け」となっていた。

やってやろうという気が見えない:
ところが、現代のサッカーでは先ずフェイントはかけないし、何とかして後ろから迫ってくる相手を抜こうという意欲は見せないのが定石のようなのだ。言い換えれば「やってやろう」という類いの意欲は見せずに「ひたすら安全策を採る」サッカーをやってみせるのだ。恐らく、代表にまで選ばれてきた若者たちに森保監督が「フェイントはかけるな」、「相手のデイフェンスを抜こうとするような無理はするな」と指導することはないと思っている。私は選手たちは幼少の頃からそういうサッカーを指導されてきたのだと推理している。いや、代表テイームの監督さんが基礎を教えはしないだろう。

動かない:
これで最後の非難とするが、兎に角後陣での安全第一の球回しの間に、前線にいるFW乃至は攻撃的MFたちは何時でも拱手傍観で動きもせずに、自分の足下にパスが来るのを待っているだけだ。しかも、自分の方向にパスが来たら、一歩でもそのパスが来る方向に動いて相手のデイフェンスに先んじてボールを確保しようとかコントロールしようという動きはないのだ。敢えて言うが、これも監督さんが代表にまで上がってきて者たちに「一歩でも良いから素早く球の線に入ってトラッピングでもストッピングでもせよ」と指導するべきことではない。


監督だけの責任か:
換言すれば、森保監督が選んだ23名だか何名だか知らないが、あの選手たちは高校乃至はJリーグの下部組織で何を教えられて来たのかという疑問である。基本技に触れところでもう一つ疑問点があった。杉岡と言ったか左サイドを駆け上がった者が右からゴール前に入ってきた絶好のセンターリング(今やクロスという呼称に変わった)を大原則であると我々の世代は教え込まれた右足ではなく、自分の前を通り過ぎた後でわざわざ左足でボレーキックしてゴールの枠を遙かに外してしまった。彼等は基本技を正常に教えられてきたのだろうか。

精神論も:
最後は精神論を。技術的は言いたいことは言ったが、彼らの試合振りには全くやる気も戦意も感じられなかったし、勿論「ここで意地を見せてやって見せてやろう」という類いの意欲は毛ほども感じ取れなかった。精神力が薄弱だった。これは監督の指導法の問題だろうと思った。極論を言えば「あの選手たちの上にあの監督では、将に『割れ鍋に綴じ蓋』とでもなるか」なのだ。同じ事を二度言うが、少なくとも「森保監督のA代表との兼務は解くべし」と締めて終わりたい。私はラグビーの連中の意欲と較べれば見劣りするのが余りにも残念なのだ。


桃田賢斗君を気遣う

2020-01-16 08:03:29 | コラム
海外で交通事故の被害者になると:

交通事故は恐ろしいものであることは言うまでもない。ましてや、文化というか言語や風俗・習慣が異なり、恐らく医学それも救急治療についての技術と対策等にも違いがあるだろう外国での貰い事故となれば、事態は一層難しくなるだろう。その海外での貰い事故の被害者に不幸にもなってしまった私でなければ解らず、且つ語れない点が多々あると言いたいのだ。私は誰がどう考えても世界の最先端にあるはずのアメリカで被害者になったのだが、その治療と対策は驚くほど杜撰だったのだ。

桃田君の場合は失礼になるかも知れないことを省みずに言えば、医学的に世界の最先端にあるとは直ちに思えないマレーシアでの事故であれば、事態は私よりも難しいのではないかと、事故と聞いた途端に直感した。ここまでは単に医学でのと言うか、外科的な処置を論じているのであって、精神面についての配慮というか手当を彼の地で何処まで出来たかという点は考慮していない。

私にはアメリカの救急病院でのX線等による検査と診察、治療と投薬等の素っ気なさには、後になって我が国の行き届いた治療等と比較すれば、余りの杜撰さには驚く他なかったのだった。簡単に言ってしまえば、肋骨骨折が2本だったのを1本と見誤ったし、頸椎の捻挫を完全に見落としていた。この事実は、帰国後に診察して頂いた慶応大学出身にして私の小学校の2期下だった脳外科の名医・志澤先生によって発見されたのだった。志澤先生は頸椎の捻挫の見落としは「考えられないミス」と断定された。

私にマレーシアの医学水準を云々する意図など毛頭ないが、先進国であるアメリカの救急病院でさえこの有様であるから、桃田君が彼の地で絶対安心出来る診察と診断を受けられたのかと疑ってみたくなるのだ。尤も、アメリカという国を一般の方よりも遙かに良く承知していると自負する私に言わせて貰えば「アメリカの医学界では研究の面では世界最高水準にあるだろうが、それと現場での診察の水準が同一であるかは別問題ではないかと言える」となるのだ。現に、私の場合は誤診があった。それだけではない「アメリカ人の物事に対する感覚はおよそ大雑把である」という問題もあるのだ。

その大雑把さに加えて永年彼等の中で彼らと共に過ごしてきて言えることは「彼らの身体の出来具合という骨格と体格は、我々よりも遙かに頑丈に出来ていて、ちょっとやそっとのことでは損傷しないようなのだ。しかるが故に、私は重症患者であったはずの私がなまじっか救急病院で意識があったが為に普通に英語で対応してしまったので、ごく普通にアメリカ人を扱うように対応されたのではないか」と疑っている。具体例を一つ挙げておけば「頭を打たれていて非常に痛い」と訴えたら「それなら氷袋をやるよ。帽子で抑えて充てておけ」というだけの処置。

そこで桃田君だが、今までの所では事故に遭った際に寝ていたかどうかの確たる報道がない。起きていたかどうかで大きな違いが出ると思う。私の場合は右からフォードのマスタングが突っ込んで来るのも当たる瞬間も見えていた。恐怖なんて言うものではない。その恐怖感がその後の復調して業務に復帰する6ヶ月間にどれほど私を苛んだかどうかは解らない。だが、10月に受けた被害は自律神経失調症と神経性下痢となって2度の入院となって、その間は昼間は精神安定剤で寝る前には睡眠導入剤を毎日投与されて、精神状態を保っていた。

桃田君が頭を打たれたかどうかも報道されていないが、打たれていなければ幸運である。私は頭も凹んできたドアによって強打された結果で部分的な記憶喪失にも苦しめられた。記憶喪失と簡単に言うが「当人には記憶のどの部分が欠落したか」は解らないのである。しかも桃田君は微妙な左手の動きでラケットとシャトルを操っている世界のランキング第1位の名選手である。このような精神面の安定と「どういう時にはどう動く」といったような反応を司る神経が、正常に動くかどうか重大な問題ではないか。私は自律神経失調症に冒されていないことを祈るだけだ。

要するに医学的というか外科的な治療が完璧でなければならないことに加えて、精神面の安定をどのようにして取り戻すかは、より一層重要だと言い切りたい。お医者様たちはお解りで治療されるのだが、精神面の問題は被害者当人でなければ解らないのだ。どれほどの強靱な精神力で辛さに耐えて「必ず乗りきってみせる」という当人の決意というか意欲が必須なのだ。周囲から「早く立ち直ってくれ」などと要らざる期待をかけずに、桃田君自身の心身両面の回復を待つべきだと思う。