新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

1月23日 その3 総合商社論

2020-01-23 14:34:22 | コラム
私が見てきた総合商社とは:

佐藤さんを交えたご意見の交換に刺激されて、永年付き合ってきた商社とは如何なる存在かを、私独自の見方で論じてみます。恐らく「意外」と受け止められるか「暴論では?」となるかも知れません。

私が1972年6月までお世話になっていた日本の紙パルプ産業界の会社時代には「総合商社とは仰ぎ見る存在で(飢餓輸出も含めて)輸出盛んなりし時代の英雄」でした。しかもその頃は「商社金融」なる融資の方式が盛んで、製造業者には銀行が貸し込みたがらず商社の金融能力と信用度を活かして、商社経由でしか設備投資が出来ないと言っても良いような傾向がありました。我が国策パルプでは新規の事業の投資にはA産業とM紅経由となって、既存の販売部門には代理店権も与えないという悔しいことが起きていました。

その頃の商社の機能は勿論輸出入の仲介でしたが、彼等は単に右から左に売り繋ぐだけではなく、金融機関の代行までするほど資金を潤沢に蓄えていました。同時に輸入品を一気に買い切ってユーザーや最終需要家に恣意的に販売するという、言わば配給をを執り行うほどの在庫能力と資金の立て替え能力(金利負担の能力)を持つ存在でした。即ち、現在のような過当競争がない時代には、中間でも十分に利益が挙げられる時代だったのです。

それが時移り人変わり、私が1972年にアメリカの会社に転出した頃には、一部の需要家には「商社不要論」が声高に唱えられるようになっていて、中間のマージン率を縮小するを要求する傾向が出始めていました。即ち、製造業界に供給過多の傾向が出始めた為に、商社が取るマージンが中間の加工業者等の(国際的?)競争能力(=competitiveness)を弱体化すると公然と言い出す需要家が増えてきたのです。この傾向が「中間で売り繋ぎをするだけの商社機能の冬の時代」の始まりでした。

これは何故かと言えば、それ以前は輸出入の業務は小難しい専門語だらけの輸出入関連の書類(ドキュメンツと言いました)は英語が使われており、これが解らないとL/Cの開設も発注も通関業務も出来ないと思われていたのですから。だが、時代の進歩と共に「需要家や最終ユーザーでも英語くらい解る組織も個人も出てきて「何も商社に依存することはない。自社でやって利益率を改善し、コストを引き下げよう」となってきたのです。

私の担当範囲内でも、最大の需要者だった客先はいち早く1%程度の総合商社のマージンが余計な負担だとばかりに、アメリカのサプライヤーからの直接の輸入に強引に切り替えてしまいました。我々サプライヤーとしては信用限度に不安がないユーザーとは徐々に直接取引に切り替えの要求を受け入れざるを得ないように変わって行きました。私はこの種の要求を謹んでお受けしただけで「彼は商社無用論者だ」という芳しくない評判が立てられました。正直に言って心外でした。言うなれば、世に言う「バイヤーズ・オプション」に過ぎないのでしたから。

この頃に最も苦労したのが、「その永年お世話になった商社に恩義は感じるし能力を評価しているが、競争がここまで激化した時代の変化の前にあっては、世界的な流れである中間業者を排除するのは止むを得ないのだ」と強硬に主張される大手ユーザーと、そのユーザーと共謀しているのではないかと疑われた我々の立場を如何にして商社に納得して貰うかでした。そのユーザーに商社と縁を切っては彼等が将来持ってきてくれるだろう新たな商機を失う危険性をご考慮を」とも説得した過程だった。結局は商社は納得した形になってしまった。

この次に商社に現れた現象が「単なる輸入代行業者の地位から離れて、海外をも含めて自社のプロジェクトを企画して、自社で製造した原料や最終商品を買って貰う方向に移行」とでも言えば良い「プロジェクトの時代」がやって来ました。この傾向は大手商社の間にアッという間に広まっていきました。しかも、成功した商社がいたのは当然でしたが、大小の失敗の例が出ました。何処とは言いませんが、失敗の結果で10大商社の中には不幸にも消滅してしまった所すら現れました。同時に、財閥系を中心にしてグループ化も強化されたという気もしたのです。
続く)



1月23日 その2 スポーツに思う

2020-01-23 08:20:00 | コラム
今度は福岡堅樹が壊れた他:

マスコミの褒めすぎは無用:

ラグビー日本代表の快速ウイング福岡堅樹は先頃のW杯でその俊足ぶりを遺憾なく発揮しただけではなく、何れはラグビーを辞めて医学の道に進むと、その選手として素晴らしさと共に賢者振りをもマスコミは高く評価して激賞していた。しかも福岡君は15人制からオリンピック代表を目指して、7人制に転向することも大きく報じられた。私は例によって例の如きマスコミの彼に対する過剰報道と褒めあげ方に何か不吉なものを感じていた。

するとどうだろう。その福岡君の15人制最後の試合として活躍したトップリーグのゲームで膝だったかを故障したというではないか。その為に当分の間は7人制の練習参加を見送るというではないか。厳しい練習を何か金科玉条の如くに尊んでいる我が国のスポーツ界では、仮令短期間でも練習を休んでしまうのは余り好ましいことではないのだろうか。特にラグビー界では前HCのエデイー・ジョーンズ氏の猛練習をマスコミは高く評価した。ということであれば、福岡君の7人制転向には何となく不安なものを感じるのだが。

大坂なおみさんが不安だ:
彼女自身は「あれが試合中のイライラの解消法だ」と言ったそうだが、オーストラリアオープンでの3回戦だったかの試合中に自分の失態に苛立ってラケットを放り投げて蹴飛ばして見せたのは、私の目には極めて悪い試合態度としか見えなかった。私は日本人の選手とであるというのならば、あのような試合の相手にも不快な思いをさせるだろうと思わせる振る舞いは自制して控えるべきだと言いたいのだ。少なくとも、世界のランキングで4位にある者がすべきことではないと思う。

私は彼女が所謂メージャー大会を二つも続けて制覇した頃から「あれは出会い頭ではないのか」と余り評価していなかった。事実、彼女は意識してかせずにか、大きな大会以外では実に簡単にアッサリと負けるべくして負けてしまう試合が多過ぎた。コーチの選び方(選ばれ方?)にも疑問が多かった。試合中の感情の起伏が甚だしすぎる傾向があった。換言すれば「世界のランキングの高さに相応しくない熟練度というか、試合態度に大人気ない振る舞いが多いと思っている。言うなれば『発展途上』にあるプレーヤーだ」と言うこと。マスコミには「褒めすぎるな」と頼んでおきたい。


枝野幸男の代表質問は嘆かわしい

2020-01-23 07:42:24 | コラム
<strong>枝野幸男は秋元司以下ではないか:</strong>

枝野幸男の代表質問は相も変わらず程度が低すぎる。既に彼等の支援団体であるマスコミは野党が桜を見る会問題等を中心に安倍内閣を責めると嬉しそうに報じていたので、枝野の質問の国会中継など見る気はなかった。それは、見なくともテレビでその桜を見る会等関連の質問を必ず取りあげるだろと解っていたからだ。果たせるかなニュースでは、得々とその辺りを切り取っており、枝野が責任を取って辞職せよと吠えている場面も見せて貰えた。

中継の全部を見ていなかったから批判する姿勢も少し及び腰だが、私は枝野乃至は他の野党党首が総理に問いかけるべき点としては「中国が漸く重い腰を上げて実体のほんの一部を発表したコロナウイルスによる肺炎の防止策をどうするか」があると思う。中国でさえ武漢市から外部に出ていくことを禁止した。だが、仮令武漢から来なくとも中国の他の都市と武漢を既に出ていて他の都市経由で我が国にやってくるだろう無数の中国からのお客に対する水際撃退作戦がどのような態勢かは、「桜を見る会」の問題よりも遙か重要な案件として総理に質すべきではないのか。

何時も同じ事を言うが、この程度の(与党も含めてだが)議員を選んでしまったのは、我々有権者の責任だ。カニだのイクラだのを配られて一票を投じてしまうような民度が我が国全体のことだとは思いたくないが、私は我が国の民主主義などは未だ怪しいものかと疑わねばならないのが残念だ。