新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

1月28日 その3 コロナウィルスによる肺炎は中国人の悪食によるのか

2020-01-28 15:35:30 | コラム
ギニ・ピッグまで食べていたのか:

中国人は野生動物を食べることで知られているが、私にはこの趣向は武漢(湖北省)だけのこととは思えない。そうであれば、野生動物の悪食に起因する肺炎が中国全土で発生していても何ら不思議ではあるまいと思う。私は1970年に初めて出掛けた外国である台湾で、何も知らされずに猿の脳みそというか頭を原形のままで食べさせられて、この民族はこんなものまで食べるのかと本当に驚いた経験をした。実は、豆腐を食べているような感覚で不味くはなかった。

余談の部類か英語の講釈と言うべきかも知れないことを。昨日ジムのサロンで読んだNY TIMESの肺炎関連の記事に、武漢の市場で扱っている wild lifeの詳細が記載されていた。その中に犬や猿や狐や狸や蛇なら兎も角、 guinea pig があったのには「ここまで食うのか」と些か驚かされた。先刻ご承知の方がおられるかも知れないが、これは「テンジクネズミ」のことであり、我が国で「モルモット」と誤って表現されている動物である。

因みに、marmot(=モルモット)はジーニアス英和辞典には「アルプスやピレネー山脈の穴に住む齧歯(けっし)類の動物。モルモットはguinea pig」と記載されている。私は初めて guinea pig という表現をアメリカ人が使うのを聞いた時には、何の比喩か理解できなかった。この言葉の発音は「ギニ・ピッグ」か「ギニー・ピッグ」と聞こえたのだった。不思議に思うのは、我が国で何故このような言葉の取り違えが生じたのかと言うこと。

1月28日 その2 武漢市からの邦人の救出に思う

2020-01-28 09:24:25 | コラム
橋本徹氏が言う民主主義政治の問題点なのか:

敢えて「漸く」と言うが、政府は約600人とも言うこのコロナウイルス性肺炎の都市・武漢からの邦人の救出の為のチャーター機を飛ばす決定をしたそうだ。だが、中国との折り合いがつかず本28日には飛べないようだ。私には先日も採り上げた橋本徹氏が批判した民主主義政治では即断即決、即実行というように事が運ばないのではと思って報道を聞いていた。中国が何らかの言辞を弄して受け入れを延ばしているのであれば極めて不当だろう。尤も、市内かその近郊から空港への輸送は容易な作業ではないと想像は出来るが。

私は昨日も愚息と語り合っていたのだが、そのチャーター機を羽田でも何処で着けた場合に、邦人の方々を如何に処置するかは大きな問題になるだろうと予測していた。羽田にすれば確かにその近くに多くの医療機関はあるだろう。だが、それよりも何よりも潜伏期間でも伝染の危険性ありと中国当局が発表してしまった以上、その600名は検査をするのは当然だろうし、自宅なり何処なりに送り返す前にその潜伏期間と言われている2週間は隔離せざるを得ないのではないかと危惧している。「指定感染症」とする以上、彼らの負担になろうともその選択肢しかないような気がする。

私は悲観論者であるから、この件は未だ未だ先があると思っている。即ち、14億人の人口を抱えている中国は全体的に見れば未だ民度はそれほど上がっていないと見たいのだ。それは、北京や上海のような大都市を除けば、未だ未だ衛生観念が他の先進国ほどには普及していないように思えるのだ。ということは「中国政府がこの肺炎の流行を今後半年以内に収束させられるのか」との危険性に辿り着くのだ。その半年先には東京オリンピックがあるし、中国からは大選手団が送り込まれてくるだろう。彼等がマスクをしてうがいと手洗いしくれば安全なのかと心配になってしまう。

本気で言えば、北京語だろうと思う言葉を話している若者ばかりが闊歩している大久保通りに行かねばならない用事がある今日などは、やや躊躇っている。と言うのも、既に武漢市以外でも患者は多数出ているし、死亡者も出ている事態だ。中国当局の努力程度では蔓延が阻止できていないのは明らかだ。武漢市というか湖北省からだけの救出で十分なのかという問題ではないのか。

私は常に政府の観光客誘致の姿勢(方針)に疑義を呈してきたが、今回は感染症という危険性まで生じてしまったではないか。しかも、その発生源の中国から来ている人が新宿区では最も多い外国人なのだ。政府は武漢市にマスクを250万枚も送られるとか聞いたが、国内にも十分な供給体制を整えよと号令をかけて貰いたいのだ。それはウッカリしていると、中国人に爆買いされてしまう危険性があるのだから。


アメリカの流通は

2020-01-28 08:25:59 | コラム
アメリカに商社はあるのか:

私は「アメリカには我が国のような総合的に幅広く何でも取り扱う商社はないという見方が正確である」と認識している。と言うよりも「我が国の総合商社は我が国独得の存在である」と考えるのも正しいと思っている。それではアメリカには何故総合的な商社がないのかと言えば「アメリカの習慣というか文化では、自社の製品は自社の組織内の社員が販売し、他社か他人の手は借りない」という思想がある。では商社のような存在が全くないのかと言えばそうでもなく、製紙業界などには流通機構に“paper merchant”という販売店があるし、専門分野を持つ小規模の商社は存在する。


だが、我が国のようにメーカーに「代理店」と呼ばれる一次販売店があり、その先に業界によっては2次店、3次店があり需要家や消費者に販売していくような流通機構が存在する訳ではない。既に述べたことであるが、我が国の製紙業界では昭和30年代までは輸出は言わば特殊技能であり、商社に一任してきた。だが、アメリかではメーカーの営業担当者は営業に担当である以上、当然のように国内市場だけではなく輸出も担当していた。見方を変えれば「国内市場に重きを置くアメリかでは、輸出はそれほど重要な分野ではなく、片手間でも良かった」とも言えるだろう。

やや話は変わるが、我が国ではごく当たり前のように「代理店」を“agent”と訳してきた。これがまたアメリカとの文化の違いである微妙な点だったのだ。アメリカにおけるagentとは解りやすいように言えば「個人営業者の仲介業者で、自分の事務所を構え電話なり何なりの手段を使って可能な範囲内でメーカーと中小の規模の需要者を結びつけ、成約すればメーカーから口銭を貰う」というブローカーのことだ。従って、製紙業界では一次販売店が自らの業態をagentと訳していると、アメリカのメーカーは奇異に感じることが間々あったのだった。

このような文化の違いがあるので、私が担当していた分野では代理店のようとして仲介を依頼していた商社やmerchantはおらず、飽くまでも最終需要家のオプションで我が社との直接取引とされるか、商社に輸入代行業務を依頼されるかという二通りの対日輸出の仕方だった。後難を恐れずに言えば、直接取引の方が意思の疎通をしやすかったのは言うまでもないこと。費用対効果の面で見れば、アメリカ式の直接販売方式の方が優れているだろうが、営業担当者の労働量などは「働き方改革」ではとても認められないだろうほど長時間になり、負担は大きかった。