新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月14日 その3 珍しく携帯電話が鳴った

2020-04-14 16:41:19 | コラム
国立国際医療研究センター病院(NCGM)の泌尿器科の主治医からだった:

言うなれば「本日の驚き」だった。出てみれば、主治医のN医師で「17日の予約があるが、現在の状態は」との問い合わせから始まって「特に異常がなければ、このような時期に公共交通機関を利用してこちらまで来て頂くには及ばないと思うので、予約を2ヶ月間延期しておくと同時に、薬が切れてはいけないので掛かりつけの調剤薬局に郵送しておくから、2~3日後に直接確認してから受け取って貰いたい」と極めて明快だった。有り難く承って6月まで延期とした。掛かりつけの薬局名も確認したが、病院のコンピュータには記録されているようだった。

何もかも行き届いたご配慮かと思った。実は、正直なところでは当日は朝は9時過ぎに入って採血と採尿を済ませてから、予約時刻まで2時間近く待つのは、如何にあの大病院でも一寸危険がありはしないかと気にはなっていた。その心配が一気に解消されてしまった次第だ。誠に有り難いN先生のご配慮だと感謝申し上げた。

NCGMは新型コロナウイルスの感染が大問題になって以来、感染症の専門科があるので担当の医師が度々テレビにも出てこられている。恐らく感染した患者が数多く入院しているのではくらいの察しはついていた。だが、発熱者用の受付からは一般の外来には入れないようにはなっているから、病院内で感染者からウイルスを移される危険性があるとは思えない。だが、「別の病気で一般の外来に来ている患者さんがウイルスに感染していることだってあり得るのでは」とも考えていた。

私にとっては肝腎の循環器内科の予約は5月25と26日となっているが、その頃までには目出度く新型コロナウイルスを制圧できていて、安心して公共交通機関(都バス)で通院が可能になっていてくれることを祈るだけだ。


4月14日 その2 言葉は正確に使おう

2020-04-14 14:22:04 | コラム
何でもカタカナ語にすれば良いっていうことじゃない:

このところ、某副座長様を“「オーバーシュート」と「ロックダウン」の使い方の誤りというか、カタカナ語を使うことに必然性も必要も認められない。”として非難し続けてきた。ところが、専門会議の副座長様ともなれば、マスメディアも一般の方もテレビに登場することが生業になっている芸人(俗称はタレント)も嬉々として真似てしまうのだ。カタカナ語の排斥論者としては繰り返して嘆き且つ怒ってきた。今回はこれではなく「ストレス」のおかしな使われ方を取り上げたい。

この言葉は「外出自粛」と学校の「一斉休校」が要請されて以降、一気に流行りだしてしまった。それはマスメディアが「親御さんもそうだが、子供たちが家に籠もらされて外で遊べないことでストレスに感じる」というような報道の仕方をするようになった為なのだ。この誤った語法は既に指摘した。即ち、Oxfordには“stress”とは“pressure or worry caused by the problem in ~’s life”とある。初めてこういうのを訳しておくと「誰それの生活に問題があって、それにより精神的な圧力がかかるか心配事が生じること」とでも言えば良いか。

親御さんは措くとしても「子供如きが家に籠もって、精神的な圧力がかかるか心配事が生じるか」と言いたいのだ。違うだろう。先に指摘したことは「これは欲求不満であってストレスではない」だった。因みに英語では“frustration”だが、この動詞形はOxfordには“to make ~ feel annoyed or impatient because they cannot do or achieve what they want”となっていて明快である。ジーニアス英和辞典には分かりやすく「欲求不満」と出てくる。これは訳さないが、子供たちの不満が表されているのではないか。

ここまでは以前の指摘したことの繰り返しかも知れない。だが、情けないなと感じたのは、先ほど見ていたバイキングにテレウワーキングのような形で登場した加藤タキさんが「家に籠もっているとストレスになる」と言ったことだった。確かアメリカの大学のご出身と来た記憶があるのでWikipediaに訊いてみた。卒業されたのは後にキリスト教系のポートランド大学に合併されたマルトノノマ大学(Multnomah College)の卒業生だった。「それだったら、ストレスとフラストレーションの違いくらいご存じなければ」と、嘆き且つ怒っていたのだ。

私は在職中は常に(本来は悩む必要もない物事を)考えすぎては、それ故に悩み、ストレスとなって苦しんでいる」と、本部でも秘書さんにも知られていたし、一部の取引先の幹部にまでも知られていた。某商社の本部長さんには「あんたはストレスに苦しんでいるが、そのストレスと闘わねば生きていけへんのじゃ」とまで揶揄されたほどだった。恥を忍んでこんな例を挙げたのは「ストレス」と、欲求不満である「フラストレーション」とは明らかに違うという点を立証したかったからだ。言葉を誤用してはならないのだと言いたいのだ。英語で離すときにこんな誤った使い方をすれば恥をかくだけだ。

もう一例、近頃流行っているおかしなカタカナ語の使い方を採り上げよう。それは「コロナ」(=corona)である。これは「光環;(太陽・月の光環)」のことである。ところが「新型コロナウイルス」の感染が発生するや否や、猫も杓子も全部始めから終わりまで言わずに「コロナ」と呼び、書き、語るようになってしまった。しかも、困ったことに、これで全ての人が何を意味するかを理解するのである。私に言わせて貰えば「新聞ならば限られた紙面の文字数を減らす為に省略するのは未だ許すとしても、テレビでは全部言っても何秒も時間を食わないだろうに」なのだ。

即ち、「君等が妙な略語を案出して使うから、罪なき一般大衆が真似るのだ。厳重に注意して反省せよ」とマスメディアに言いたいのだ。ここでも「英語での会話などして“I am infected by corona.”などと言ってしまえば、聞いた外国人は「???」となってしまうだろう。ここまで言ったのだから、敢えて言えばアクセントは「コロウナ」のようになるのだ。堅苦しいことを言うなと言われても言うが「言葉は正確に理解して正確に使おう」ということを強調しておきたい。要するに「カタカナ語の本当の英語の形を知っておくと良い」となるのだ。


出勤する者を7割減らせ

2020-04-14 10:29:30 | コラム
総理の出勤者の7割削減の要請を考える:

極めて単純に考えれ、ば集団感染等の危険を減らす為には極めて尤もな要請であると思う。昨日辺りからテレビで報道されている品川駅港南口の早朝の夥しい人の流れを見れば、三つの「密」の塊のようであり「皆で感染しましょう」と言っているのと同じではないかとすら感じていた。インタビューされた会社員たちは異口同音に「出勤せざるを得ない」とマスク越しに答えていた。だが、よく考えても見よ、「私は出勤しなくても済む人材だ」と言える奴がいるか。私は今こそ会社側の経営担当者(今時真の意味の経営者がどれだけいるか)は出勤者削減の方法を真剣に考えるべきではないのか。

これまでに私は何度もアメリカの会社での仕事の進め方を説明してきた。「その異文化の世界の仕事の仕方が、危機に直面している我が国の企業における出勤者削減の方法の参考にでもなれば大いに欣快に存じます」とでも申し上げておこうか。

私が何度か採り上げた比喩的な表現は「アメリカの会社では例えばウエアーハウザーという世界的に著名な大きな貸しビルがあり、そこに多くの色々な業種のテナントが店を出して思い思いに営業している。ビルのオウナーはテナントの営業方針に介入せず、毎月の家賃と売り上げからの歩合を遅滞なく納めてくれればそれで結構という鷹揚な姿勢である」だった。貸しビルなのかだら、福利厚生の施設もなく、テナントがビルのオウナーに対して忠誠心も何もない。ただ自分の成績を挙げることだけに努力しているのだ。テナント間の連帯意識などは極めて以上に希薄だ。

大体からして我々は自分の仕事の都合で出勤時間も退勤の時刻の決めていたし、報告書の原稿などは自宅でやっていても同じだと思っていた。要するに皆がそれぞれの“job description”に従って仕事をしているのだから、直行や直帰をしても誰からも苦情はでないのだ。秘書さんが分かっていれば不在の間のことは裁いてくれるし、緊急ならばお仮に客と打ち合わせ中でも電話で知らせてくるようになっていた。要するに個人が主体だから、各自の裁量に任されていた。

私が17年間お世話になった日本の会社とその間に取引があった会社は、アメリカとは全く異なる文化と思考体系で運営されていた。私が今となっては好ましくない制度と批判する「遅刻」などは「毎日毎朝同じ時刻に皆で揃って一斉に仕事に取りかかろう」という我が国独得の企業社会の文化の表れである。この「皆で一丸となって」というのが最も大事なのだ。換言すれば「同僚、乃至は他人に迷惑をかけてはいけない」という美しい心遣いと配慮があるのだ。全てが組織というか団体の単位で考えられている。個人が主体のアメリカでこんな風に考えている者はいないと思う。

我が国の会社では概ね大卒でも高卒でも新卒の者を採用し、それぞれの会社の独自の文化、思想・信条と哲学の下に教育していくのが私が入社した1955年頃には一般的だった。担当する仕事の難易度も重要性も勤務年数が増えるのに伴って上がっていったと記憶している。即ち、先輩(実は、私はこの言葉が好みでないのだが)や上司たちが通ってきた道を新入社員たちも歩いて熟練度も上がり、能力も高くなっていくのだ。この辺りが我が国の会社の美風であろう。先輩は後輩を可愛がって常に指導して一人前に育ててやらねばならないと信じて行動しているのだ。

比較論はここまでにして、一気に飛躍したことを言えば「課長なり課長代理なりの管理職になっている者たちは新入社員の時には何をせねばならないか、自分の後から後輩になる新入社員が入ってきたらどのように扱うかを経験してきているのだ。多くの場合には課長ともなると実務から遠ざかっていることもあるが、日常的に何が起こっていて、何をすれば良いかは経験済みなはずだ、アメリカのように“job description”が各自に割り当てられていて、誰も他人と重複する仕事をしてないというのと訳が違うのだ。

だから、その課なり部なりに10人いたとすれば、常時出勤すべきなのは課長かその代理、ある程度の経者と新卒者の3人で事足りるのではないのか。これで見事に7和紙削減が達成できてしまった。アメリカのようにお互いに重複しないように仕事が割り振られていれば、誰も出張中か欠席者の不在中にその空白を埋めてやろうとはしないし、大体からして出来る訳がない。第一「そんなことの為の給与を貰っていない」のだ。

だが、敢えて「私が経験した範囲内のことから」言えば、日本的な組織ではこのような3割出勤は成り立つのではないのかなと勝手に考えて見た次第だ。しかも時代はテレウワーキングだがら、先方の会社まで出向かずにも済むのではないのか。昔のように「電話で失礼します」などという時代はとっくに終わったのではないのかな。

私が以前にも指摘したことは「我が国の会社員の方々は非常に会社に対して忠実であり、忠誠心を持っておられる。だから、社則を遵守して遅刻も欠勤も自己都合の早退などせずに、兎に角如何なる悪条件が生じようと出社される」のだ。会社側も管理職もそこに期待して、その点が査定の項目に入っているようだと感じていた。だが、現在のような非常時(異常時)にはそこまでの束縛は必要がないのではと思ってしまう。折角性善説を信奉しているのだから、社員に出勤を命じなくとも自宅で懸命に寸暇を惜しんで報告書やプリゼンテーションの原稿を書いていると思っていれば良いじゃないか。