新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月27日 その2 少数派の英語論:

2020-04-27 15:16:23 | コラム
少数派であることは私の誇りである:

私は英語とその基礎からの勉強法、英語による自分の考え方の表現の仕方、英語教育改革論等々については、遺憾ながら少数派であると確信していると同時に、そうであることを誇りにして良いと思っている。

私は1990年5月頃から、紙パルプ産業界の専門誌に光栄にも英語やアメリカ等についてのコラムというか、エッセー風のものを書く機会を与えられた。それまでは自分が書いたものが活字になった経験など皆無だったので、感激していた。そのごく初期に以下のように書いていた。

「我が国の学校教育の英語は生徒や学生に優劣の差をつける為、即ち5段階の評価をすることが目的で教えているので、会話の能力をつけるような意図などは最初からない」

これは私が言ったのではなく高校の英語の女性教師であり、その場はテレビでの公開の討論会だった。私は正直なところ「なるほど。そういう事だったのか」と妙に納得し、我が国の学校教育における英語の在り方を再確認出来たのだった。要するに「実用性などは頭から無視して、ただひたすら試験の為の枝葉末節なEnglishとは無縁の「科学としての英語」を教えているのだということだ。

その我が国の英語教育は21世紀の現在になっても、その手法も質も一向に改善されるどころか全く何らの変化もしていない様子なのだ。それだけには止まらず今や小学校3年生から英語を必須にして未だ頭が柔らかい子供の頃から英語に親しませて、将来国際人となれるように育てようなどという愚にもつかない事まで言い出したのだ。

その大目的の為に如何にもアメリカから輸入されたかのように装ったTOEIC等の我が国の至らざる英教育の成果を試す試験を導入して、ビジネスの世界にまで普及させてしまった。このテストで良い点が取れていないと大学を卒業させないであるとか、就職出来ないとか、昇進も昇給も出来なくなるとかいう呆れ返った事態までが生じている始末だ。あのテストがアメリカ産だと信じ切っている人々が多いというに至っては、最早漫画的な“naïve”なことである。言うまでもないが、これが英語では「ほとんどBAKA」という意味である正しい「ナイーヴ」の使い方である。

私はこれまでに何度か述べてきたが、私独自の「中学校1乃至2念の教科書の音読・暗記・暗唱」に加えるに「単語帳もカードも作らない」、「英文和訳も英作文もやらないで試験に備える」という勉強法を続けてきた。そしてその重要な背景には、GHQの秘書の方に厳しく教え込まれた「聞いたことは英語のままで受けとめて、英語だけ考えること」、「言いたいことを先ず日本語で思い浮かべてそれを英語の直そうなどと一切しないこと」があって、英語話す方法を教え込まれていた。

このように、私は我が国の学校教育の「科学としての英語」で無理やり育てられた方々とは異なる独自の勉強を採っただけで、22年以上もアメリカ人と言うべきか“native speaker”の中に入って意思の疎通では何ら苦労することなく、アメリカの大手紙パルプ林産物の会社の井賃として生きながらえることが出来たし、アメリカやヨーロッパの諸国と我が国との文化の違いを知る機会を与えられて、その経験が英語力を伸ばす貴重な材料にもなっていったのである。

正直に回顧すれば、私の英語の勉強法はどう考えても「我が国の科学としてのEnglishではない英語の教育法に真っ向から逆らったもの」だったと思っている。だが、結果的にはそれほど逆らっても大学卒業までの間に英語も試験で90点以下だったことは2度しかなく、そのうちの1度は大学の頃にアルバイトが過ぎて試験範囲を誤っていた失策だったのだ。

私が敢えて強調したいことは「私のやり方以外で学校の教えkたに忠実だった方々の中で、どれほどの人数の方が、外国人に負けない英語で自分の思うことが自由自在に言えるようになったか」という点だ。

私が常に主張してきた「英語とEnglishの違い」や「英語教育改革法」や「小学校から英語を教えようなというのは愚の骨頂」などは、遺憾ながら何時まで経っても何処かピントの狂った極端な意見であるかの如くに受け止められているだろうとは思っている。だが、念の為に確認して置くが私は「実用性を重んじた英語を勉強しよう」等とは一度も言っていないのだ。だが、「英語は基本から学んでおこう。基礎を固めなくて何の英会話か」とは繰り返し指摘して来た。

思うに、このような勉強法の是非を世論調査にかければ(何でアンケートなどという言葉の誤用がまかり通るのだろう)恐らく10%の支持も得られないだろう。また支持して下さる方々には「何で今頃になってこんな当たり前のことを言うのか」と笑われるだろうと危惧している。

既に指摘したことで「我が国の英語教育の問題点には、『英語とは何であるか』というか 『English と何処がどう異なっているか』も知らず、上記の女性教師のような考え方で、英語をいじくり回して世界の何処に行ってもまともに通用しないものを恰も数学のように教え込み、試験の点数こそ全てのようなものに仕上げたために、自分が考えていること、言いたいことを表現することを不得手とせざるを得ない学問というか『語学』にしてしまったことだろう」と思っている。

このような誤った教え方を採り上げればキリがないが、念の為に何処かのテレビ局が「Youは何しに日本へ」という結構面白い番組を作ったのは良かったが、その英語の題名が “Why did you come to Japan?”という詰問調なのだった。いきなり見ず知らずの方に個人的なことを訪ねるのは英語の世界では非礼に当たるのだ。こういうことを教えていないから、こんな事になるのだ。私ならば“May I ask you what your purpose of visiting Japan is, this time?”とでも言ったかも知れない。

質問の話に戻るが、世の英語教師たちは他人にいきなり何かを問い掛けるのだったら “Excuse me."か “May I ask you some questions?" 辺りから入るのが最低の礼儀だとは教えてないのか。何故文化と習慣の違いくらい教えないのかという疑問だ。

この辺りで、英語圏との文化の違いと思考体系の違いを教えて置くべきだと指摘しておこう。この点を弁えておかないと、英語圏の国に入っていって「知らず知らずの間に無意識の非礼を犯して爪弾きされる結果を招くことになる」のだ。一つだけ例を挙げておくが“You’d better ~.”は軽い命令形であり、うっかり使うと「お節介な奴」と非難されるのだ。

私は何処に行っても恥ずかしくない英語が出来るように教えられるのが最上だと思っている。即ち、英語を母国語とする人たちの思想信条や哲学などを知って、その世界で十分に通用してきたような英語力の次元に達している経験を有する練達熟練者こそが最も優れた英語の先生になれると考えている。「そんな人がいる訳はない。偏った理想論だ」と言われそうだ。それは取りも直さず、「自分たち(現職の英語の教員には出来ない」と言うのと同じではないかと思うのだが。それだったならば、ご自身でそういう世界を経験して来られればどうだろう。それで自分たちの至らざる点が解るだろう。

さらに余談だが、嘗て某英字新聞社の出版局が私の英語関係の論文を纏めて出そうかとかという有り難い企画が持ち上がったことことがあった。しかし、出版部長はボツにされた。理由は「確かに貴方が書かれた多くの論文とうには興味深いものがある。だが、これらを出版した際に、それを読んで面白いと評価する方は、この本を必要とされない少数派だろう。故に商売にならないと判断した」だった。遺憾ながら妙に納得した。


偶にはノンビリした話題を

2020-04-27 07:50:20 | コラム
植木に水を上げる:

最近、黒柳徹子さんが“UBER EATS”のテレビ・コマーシャルに出てくるようになった。それはそれで良いのだが、私には気になる点がある。それが演出のせいなのか黒柳徹子さんの意向でそうなったのかは知る由もないが、若い女性の頭髪の上に鉢植えのような植木を乗せた彼女が「1日に1度お水を上げてね」という台詞が出てくるのが気になるのだ。私は「水はやるものだ」と信じている。念の為認容しておけば「遣り水」という言葉は広辞苑に出てくるが、「揚水」は全く意味が違う言葉だ。

この「上げる」とか「やる」という言葉遣いは何年も前に採り上げたことがあるが、「水をあげる」とか「鳩に餌をあげる」とか「野良猫に餌をあげる」などと言う人は多いのだ。これは誤りで「やる」が正しいと国語学者は指摘しておられた。思うに「あげる」という人は「丁寧語」でもあると錯覚しているのだろう。そういう錯覚というか誤りを、天下の大女優と言うべきか大御所とでも言うべきか大有名人が間違われては「黒柳さんも使っておられたのだから」と言って真似する者が出ることを、私は一人静かに恐れている。

この言葉遣いについては、余り笑えない実話があるので、敢えて紹介しておこう。「鳩には餌をやるというが正しい」と指摘された若い女性が、顔を赤らめて「やると言うなんて」と下俯いてしまったというのだ。「一体、この若き女性は何を考えたのか」とこの話を引用した方が結んでおられた。あーあ。