新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月8日 その2 MLBの開幕試合を観戦して

2022-04-08 17:18:16 | コラム
開幕投手は大谷翔平だった:

本4月8日は暖かい日のようだったが、外出することもなく家に籠もっていた。昼食後に何気なくNHKにチャンネルを合わせたところ、MLBの初戦であるエンジェルス対アストロズの試合をやっていた。そう言えば大谷翔平が開幕投手だと聞いていたなと思いだした。ところが、なのである、大谷投手は2塁に走者を置いて綺麗なヒットをレフト前に打たれてしまった。辺りが良かったので、左翼手が往年のイチロー君並みの送球をすれば本塁でアウトに出来そうに見えたが、何とその送球が本塁と一塁の間という見当違いの所に来たので悠々とセーフになってしまった。

その様子を見たところで閃いたことはと言えば「今日のエンジェルスに勝ち目はないだろう」だった。投手の大谷君は解説の元MLBの投手として大活躍した岡島秀樹によれば「スプリットの制球が整わず、速球を狙い打たれていた」とのことだった。大谷君はそれでも4回と2/3で80球を投げて敗戦投手の資格(?)を得てDHに専念することになった。その打撃の方もアストロズの左腕・ヴァルデスを打ちあぐねていたし、結局は4打数で無安打だった。投手としてはアストロズの小さな大打者・アルテユーベを3三振に打ち取ってはいたが、あの高目にいった一球で負け投手になってしまった。

私が我が国の野球ジャーナリズムというべきか、テレビと新聞の報道の仕方で疑問に思っていることがある。それは「彼らが沢山三振を取る投手を持て囃すというのか、三振を取ることが防御率や被安打率などよりも大切なことのように扱っていること」なのだ。私がずっと以前から指摘して来たことは「剛速球で三振を沢山取ることは勇ましいが、仮に全打者を三球三振に斬って取ると9回完投すれば81球を投じることになる。一方、全打者を1球で打たせて取れれば、9回完投しても27球で終わり、言うなれば省エネである」なのだ。

本日の試合では大谷君は80球で確か三振を7本獲っていた。一方のヴァルデスは7回途中までで80球に届かず三振も5本だったと記憶する。理屈を言えば、大谷君よりも消耗が少なかったので、7回まで行って勝利投手の権利を持って交替できたのだ。本日の三振と投球数は一例に過ぎないが、私は「三振を沢山獲った」と囃し立てる報道の在り方には疑問を感じざるを得ないのだ。MLBやNPBのように体力も筋力も出来上がっている成人ならば良いのだが、高校野球などで奪三振を過度に褒めそやすのは控えたらどうなのかなどと、つい考えてしまうのだ。

話をエンジェルスに戻せば、今シーズンには昨年は故障で1年を棒に振った強打者のTroutとRendonが復帰して大谷君の後の2番と3番を打っていたので、昨シーズンのように敬遠されることもなくアストロズの投手たちが勝負してきていたのは良い傾向だと思う。だが、ここでも我が国のメデイアは大谷、大谷と騒ぎ立て過ぎるのが気懸かりのだ。考え直して欲しいと思っている。ところで、話は違うが週刊誌の報道では大谷君の年収は30億円ほどになるらしい。テニスの大坂なおみさんは60億円超だそうだ。

単純に比較は出来ないが、団体競技と個人競技では収入の性質が違うと思う。野球の選手たちは年俸を契約しているが、テニスやゴルフでは優勝とうの好成績を挙げないことには、アメリカ中を転戦して歩く負担は大変だろうと思ってみている。何れにせよ、大谷君他のMLBに進出した選手たちと、大坂なおみさんの活躍と幸運を祈って終わる。なお、英語の話だが、開幕投手は“Opening day pitcher”と言われていたと思う。


ジョブ型雇用の考察

2022-04-08 10:10:06 | コラム
Job型雇用の経験者として:

近頃、このアメリカ式の「即戦力となる人材を中途採用し、即戦力であるが故に“job description”を1枚与えるだけで即日業務に就かせる方式」を取り上げて論じ、我が国でもこの形が普及し始めたと報じられている。

私は39歳になっていた1972年8月から、この方式でアメリカの大手紙パルプメーカーに転進し、42歳の1975年3月から転進した2社目でリタイアするまでの22年半ほどの間、この形式を経験してきた。その経験に基づいてJob型の雇用を振り返ってみよう。なお、jobとしているのは、この言葉の発音はUKでも「ジャブ」であるので、ローマ字読みの「ジョブ」を忌避するからである。

ネットで見た某社の解説では「この方式では社内に於ける異動も転勤もない」とされていたが将にその通りで、私は2社目だったWeyerhaeuserでは19年間を一つの事業部で過ごし、担当した液体容器原紙(Liquid packaging paperboard)輸出を専門とする日本駐在マネージャーだった。確かに、その間に勤務地は変わらなかったし、地位(rank)は変わらなかったが、マネージャーという肩書き(title)は与えられた。

ウエアーハウザーが42歳の私を採用したのは、事業部が新規に日本市場に本格的に進出を計画したので、その業務の適任者を既に我が国の紙パルプ産業界で経験を積んだ即戦力となる人材を求めていたところに、偶々経験者の私を見出したということだった。これまでに繰り返して指摘して来たことで、アメリカの製造業界では4年制の大学の新卒者を定期採用して、社風というかその会社の文化に合った教育をして育てていくことは考えていないのである。(但し、銀行と証券会社は新卒者を採用している)

その即戦力と期待して採用するのは、会社の人事部や労務部の仕事ではないのだ。各事業部で人事権を持つ本部長(General managerで、通常副社長の兼務であるが)の裁量で、既存の事業の拡張、新規事業に進出、リタイアした者の欠員の補充等々の為に社内から募集するか、社外の人材を公募するか、他社から引き抜くか、自薦他薦の人材等々をインタビューして採用していくのである。従って、その事業部を構成する人員は全て年齢・経験・職歴が皆異なっているし、年俸も面接の時点でGMとの話し合いで決定するのだから、簡単に言えばまちまちである。換言すれば、我が国の同期入社などいないのだ。

しかも、業務の割り当てというか負担の範囲は構成員ごとにjob description(職務内容記述書)に異なっていて、同じ業務を複数の者が担当することは先ずないと思っていて良いだろう。各担当者(マネージャーの肩書きの所有者が多い)は自分で自分に命令を発して担当する業務を遂行するのであって、同じ部門に所属する者の協力は期待できないし、また同僚の手伝いをすることもないのだ。頼りにするというか支えてくれるのは秘書さんただ一人である。因みに、上司である事業部長が仕事の進め方などの細かい指示をすることはないと思っていて良い。その必要がない即戦力を採用したのだから。

この仕組みの中では毎年1度、その職務内容記述書に基づいて人事権者であり雇用主である副社長兼事業部長と、過去1年間の業績を評価して査定する我が社では“review”と呼ばれていた重要な話し合いがある。ここでは5段階の評価が下されて、最低の段階となった場合には、例の“You are fired.”となるのだ。念の為に述べておくと、もしも最高の査定となって大幅の昇級を勝ち取った場合には、翌年にはその高額な年俸に見合うだけの実績を挙げられなかった場合にどうなるかは、容易に想像出来ると思う。そういう世界である。

また、1990年に副社長に願い出て事業部の本部で全員を集めて「我が国とアメリカの企業社会の間に厳然として存在する文化と思考体系の相違点」というプリゼンテーションをした際にも強調したことがあった。それは教育の違いで「アメリカでは自分の勉強と研究の範囲を教師から言われただけに止めていては評価されず、自分の力で言われていない範囲にまで広げていく必要がある」と同じ考え方で、職務内容記述書に記載された項目だけを守っていたのでは、如何にその範囲内で実績が上がっていても、評価即ち昇給の対象とはならないのである。

具体的にはどういう事かといえば、私の場合には営業担当のマネージャーとして採用されたのだし、その職務内容記述書には品質問題(クレーム)の処理や、品質の改善等々の項目はなかった。だが、現実の日常の業務では、この記載されていない事柄も処理しておかないことには、にっちもさっちもいかなくなるのだった。そこで、それまでの経験と知識を活かして勝手に対処し、結果的には「技術と品質問題も担当して宜しい」との副社長の了解を取り付けたのだった。ここでの要点は「職務内容記述書の記載事項以外にも守備範囲を拡張するよう心掛ける」なのだ。

ここまででお気付きの方はおられると思うが、アメリカの企業社会では「個人の主体性を重んじているし、個人の能力に依存しているのであって、我が国のような皆で一丸となって目標に向かって邁進する」文化が支配していないのだ。我が国で重要視されている「チームワーク」を尊重する精神も希薄だ。敢えて表現すれば「各人が与えられた目標に向かって独自の手法で業務を進めていき、その結果を総合すれば、究極的に事業部の目標が達成される」のである。現実に、私は本部に所属する日本市場以外を担当していたマネージャーが、如何に業務を遂行していたかなどは全く関知していなかった。

ここまでで何を言いたかったのかだが、それは「アメリカのjob型雇用においては個人の能力が主体であり周囲との協調性には重きを置いておらず、各マネージャー乃至は担当者は事業部長の指揮下にあり、横の連絡は不用という組織である」ということだ。換言すれば、各人は職務内容記述書の下に、その担当分野に於ける専門家というか、スペシャリストに徹していかねばならないということ。

しかも、その事業部内では事業部長の下に(偉さという面では)全員が横一線に並んでいるということも認識しておいて頂きたいのだ。しかも、その中から事業部長に昇進することは極めて希なのだ。身分(地位)の垂直上昇が期待できないとは酷ではないかと言われそうだ。だが、そこには年功序列と定年制度がないお国柄であるから、「功ある者には禄を以て報いよ」で何歳になろうと、実績を挙げておけば昇給していく仕組みになっているのだ。

終わりになって言うことではないかも知れないが、私がこのjob型雇用を我が国の会社組織に導入することで効果が挙がるのだろうかと、密かに危惧しているのだ。確かに専門職者を養成していくのは結構かも知れないとは思うが、我が国の組織がそれに向いているとは考えにくいのだ。勿論、人には個性があって向き・不向きがあるのだから「私はこの形の雇用を選ぶ」という人もおられるだろう。立身出世を望む人はおられるだろう。このような組織の中に入れば、余程個人として強くないと、生き残りにくくなる危険性もあると思う。

私が我が国にこのjob型雇用を導入する場合に難しい事態が生じるのではないかと懸念する点がある。木に竹を接ぐようなことになりはしないかということだ。それは、新卒者を採用し社内の多くの部門を経験させて総合職者を養成していく組織であるのに、専門職を育てあげ、定年退職するまで地位の垂直上昇をさせない仕事を選ぶ者が出てくるのかという疑問である。

1990年代に入ってから、某社の三大秀才と言われていた東京大学出身の部長さんを本社に迎え入れて、あの広かった社内見学にご案内したことがあった。そのtourを終えて彼から出た質問は「さっきから気になっていたのですが、この会社では若い人をついぞ見かけなかったのは何故ですか」だった。そうです、そこは即戦力である中途採用者の世界だったのでした。