佐々木朗希君の完全試合が示したこと:
先ずは、佐々木君は千葉ロッテマリーンズの監督コーチの非常に優れた良識ある指導方針の下に順調に育てられて、今回のような立派な成績を挙げたことを賞賛しておこうと思う。私はあの完全試合を快挙と言って良いと思うと同時に痛感したことがあった。それは、佐々木君の160km(アメリカ式に言えば100mileだが)超の速球を基調として高速フォークボールと幾らかのカーブを混ぜた配球に、私が理想としている野球という競技の在り方を、これでもかというほど具現していたと思うのだ。
それは「野球では投手はあらん限りの力を振り絞って速球を投げ込み、その投球を打者が負けてなるかとばかりに、日頃鍛えたバットの振り方で思い切り遠くに打っていこうとすることが基調にある」という考え方だ。その為には、選手たらんと目指す者たちは常日頃から体幹と身体能力を合理的且つ科学的な練習法で鍛え上げておくべきなのである。守備の訓練法では「飽くまでも体の正面で捕球する基礎の練習を中心とすべきであり、千本ノック的に遠くのゴロに飛び付いて捕球するのは身体能力の問題であって、基礎の練習とは別問題であると認識すべき」なのだ。
上述の私の認識から見れば、佐々木君のあの完全試合に於ける配球は理想的であり、速球が如何に効果的であり、その補助としてのフォークボールが速球を引き立てていたと言えるのだと思う。佐々木君はテレビの切り取り的な報道の画面で見た限りでは、“two seam”だのカットボールだのと呼ばれている細かい変化をする球種には頼っていないと見えた。即ち、私が主張する投手の王道に沿っていたと指摘したいのである。言いすぎになるかも知れないが「速球は細かい技巧の変化球とうの球種に優ると言って誤りではあるまい」と思うのだ。
テレビも新聞も佐々木君の完全試合をこれでもかとばかりに絶賛の嵐だが、何故かあの160km超の速球中心の組み立てと速球の効果には触れていないのだ。私はこの辺りに我が国の「野球ジャーナリズム」の歪みを見出しているのだ。分かりやすく(もしかすると「分かって貰えないかも知れないが」)彼らは枝葉末節の技巧を礼賛し、高校生の自己犠牲とでも非難したい150球も200球も一人で投げ抜くような高校生の将来を等閑にした出鱈目の投手起用を賞賛するのだ。私に言わせれば「安手のヒロイズム」に過ぎないのだが。「佐々木君を予選の決勝戦の登板を回避させた国保監督の見識を見よ」なのだ。
次なる問題点は「甲子園の野球が頂点にある」としか思えない『野球』の在り方が、baseballとは非常に趣が異なる競技に仕立て上げてしまったこと」である。日本高野連は「野球は教育の一環である」との主張を捨てずに未だに「1回表、ノーアウト走者1塁乃至は2塁の場面では、必ず美しき自己犠牲の精神の発露である犠牲バント作戦を採る」のだ。この作戦を近頃漸く一部のジャーナリズムが「勝利至上主義を排す」などと批判を開始した。だが、甲子園の野球即ちトーナメント戦を勝ち抜く為の細かい技術と技巧中心の彼らが言う「スモールベースボール」に陥らせているのだ。
私はその甲子園野球至上主義が悪いとまでは言う勇気はない。だが、その至上目的の為に「角を矯めて牛を殺す」かのような選手育成法になっていないかと言いたいのだ。陳腐な表現であり、マスコミですら指摘している(敢えて言うが)弊害とは「甲子園で優勝した投手でプロ乃至は大学に進んで大成した者は例外を除いては極めて少ない」という点なのだ。それはそうだろう。未だ出来上がっていない体力と鍛え抜かれていない技術で、連日のように連投して一試合で100球以上も投げるのだから。
よく考えなくても分かることで、鍛え抜かれたMLBの投手が100球までも投げないのに、年端もいかない高校生が連投して良いはずがないのだ。それを褒め称えるマスコミも不見識だ。私は野球ジャーナリズムの連中がこの辺りの問題点を承知していないとは思っていない。勝手な推測であるが、高野連に気兼ねをしているのかと疑いたくなるのだ。
私は「犠牲バントの多用」は我が国の「全体の為には自己犠牲を厭わない美しい精神の表れ」であり、寧ろ我が国の文化の一部分であるとすら解釈している。この精神が「野球をbaseballと似て非なるものに仕立て上げてしまった重大な要素」であると認識している。アメリカのように個人の能力を基調とする文化の国では、各人は全体(例えば会社)の為よりも自分の為を優先しているのだから、sacrifice buntなどを命令されれば怒るだろうと思う。誤解無きよう申し上げておくと、私は文化の違いを論じているのであり、優劣の議論ではないし、方針変更せよなどと言う気もない。
更に「犠牲バント作戦」を追及してみよう。プロ野球の解説者たちの中には「投手としてはバントをしてくれれば無償でアウトを一つ貰えるのだから有り難いので、次の打者2人を打ち取ることに注力すれば危機は回避できる確率が高まる」と、投手側の見解を述べる者がいるのだ。もっと言えば「野球ではどれほど優れた打者でもヒットを打つ確率は30%なのだから、次の打者を打ち取ることに力を注ぐべきなのだ」となるのだ。だから、相当数の試合を見たMLBで犠牲バント作戦を採ったのは、弱い時のシアトルマリナーズの一度だけだった。
結局は私の得意とする「我が国とアメリカとの文化と思考体系の相違論」になってしまうのだ。大学は言うに及ばずNPBの次元に行っても、高校野球の甲子園での優勝作戦の中核を為す「犠牲バント作戦」が頂点にあるのは、ただ単に文化比較論の問題ではなく、勝利至上主義に凝り固まっている指導者の問題ではないのかという気がしてならない。高校野球の投手を「あらゆる種類の変化球を操る優れた技巧の持ち主」などと褒めそやすような論調も考え直すべきではないのかと思う。あれでは甲子園の為には「小成に甘んじろ」と言っているのと同じではないか。