新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

海の向こうの謝らない面々

2022-04-27 07:54:35 | コラム
Putin大統領は「国連憲章違反ではない」と断言した:

グテーレスUN事務総長との、例の何メートルだかの長いテーブルの両端に座った会談で、かの大統領は堂々とウクライナ侵攻は「国連憲章違反ではない」と言い切ったそうだ。私から言わせて貰えば、驚きでも何でもない発言だと思う。いや一歩譲れば「マスコミはこの事を報道しても良いのだが、大統領が違反ではないと言いきった辺りを、白人たちに特有の『自らの非を潔く認めようとしない特性の表れである』くらいの注釈を付けておくべきだ」と指摘したいのだ。「海の向こう謝らない面々」の存在を知らせておくべきなのだ。

私は30年ほど前に、業界の専門誌に連載させて貰う機会を得たエッセーの中で「海の向こう謝らない面々」と題して「彼らヨーロッパやアメリカの人たちには謝罪の文化など存在していないし、また潔く自らの非を認めるようなことはしない」と指摘したのだった。この項目は1996年に上梓した「アメリカ人は英語がうまい」にも含まれていた。こういう精神構造の人たちを相手にして、我が国独得の美風である自らの非を認めて謝罪することが如何に危険であり、無謀であり、経済的損失を伴うこと」を指摘した。

この題名は、1989年に安部譲二氏が上梓した「塀の中の懲りない面々」をもじったもので、アメリカには我が国のような「謝罪の文化」は存在しないという点を取り上げたのだった。具体的には、我が方の品質管理の至らなさで生じた損害を補償せねばならないような事案の折衝の際にも一切謝ろうとしない態度が、我が国の取引先に「恥知らずで傲慢だ」との印象を与えるのは得策ではなかった。そこで、「何はさて措いても謝ることから入れば、話し合いが進みやすい」と、本部や工場の担当者の説得に努めた事を語ったのだった。

ところが、根本的に文化と思考体系が異なる国で育った者たちには「無条件で我が方の非を認めて謝ってしまう」などという儀式を実行する気はなかった。遂には、何年か経ってから「貴方方は勝手に何か呟いていてくれ。それを私が謝罪文に直して伝えるから、その効果のほどを見ていてくれ」と説得した。この効果は歴然で、話し合いは滑らかに進み、時には補償の金額を減額して貰えたことすらあった。漸く彼らに「謝罪の文化」を理解させ、先ず自らの非を認めても失うものがなかったと認識させたのだった。

偽らざる所を言えば「謝罪しない文化で育った者たちに『潔く自らの非を認めよう。認めても全面的に補償しますとはならない国に来ているのだから』と理解させるのは大いなる時間と労力が必要だった」のだが、本稿の目的はそこを語るところにはない。

ここまでは自慢話ではないとご理解賜りたい。私が経験した限りでは「我が国でも、海の向こうでも、意外なほどこの文化の相違点」が21世紀の今日に至っても十分に認識されていないようなのだと言いたいのだ。私はかの大統領が「国連憲章違反ではない」と「シレッ」として言いきったのは傲慢でも何でもなく、彼の頭脳構造がそうなっているだけだと見ている。寧ろ私が疑うことは「マスコミがこの異文化の存在を何処まで認識できているのか」なのだ。理解していれば、そういう解説をしても良いのではなかったかとも指摘したいのだ。

今日までに、海の向こうで発生した諸々の事案で「責任を負うべき側が素直に自発的に自らの非を認めて謝罪してから話し合いに入っていった例があったか」を考えて欲しいのだ。ロシアが何時北方領土の件で謝罪したか。何処の紛争でも良いが、当事者たちは自らの正当性を主張するだけで、誤りだったと認めた例があったか。韓国が竹島への不当上陸を詫びたか。彼らは「謝ってしまえば、如何なる補償にも応じます」と白紙手形を切るのと同じだと思っているのだ。「謝罪の文化が重要なのは我が国だけのことだ」と言っても誤りではないと思う。

矢張り、ここまで来たのだから英語の講釈で締め括ろうと思う。謝る時に“I am sorry,”と言うのは「無条件降伏」なので、「自己の非を認めて如何なる補償にも応じます」と言ったのと同じだ。だから、彼らは絶対にこうは言わない。彼らが“I regret this ~ took place.”とでも言えば、それは最大限の謝罪の意を表したのであると解釈して良いと思う。ここでの正反対の教訓は「学校で教えられたからと思って、無闇に“I am sorry.”などと言うな」なのだ。