英語の品格とは何かを考えよう:
当たり前のことだが、何も英語だけに限ったことではなく、日本語でも品格も品位も求められている。それはそれとして「英語における言葉の品格」とは如何なる事を指しているにかを考えて見ようと思う次第。
私は我が国における英語の在り方には問題点が多々あると見ている。その中でも最も困ったことだと思う点は「学校教育では実用性に乏しい教え方をしている為に、多くの方が通じたか通じなかったかを非常に重要視している事」なのである。そこには英語力が示す教養であるとか、品格や品位などに気を配っている余裕などは全く感じられないのだ。
使ってはならない言葉や表現などは全く教えられていなかったので、屡々聞かれる「兎に角知っているだけの単語を並べたら云々」という、何と言って評して良いか解らない事態になってしまうのだ。ズバリと言ってしまえば「科学としての英語を数学のように教えて、児童・生徒・学生に優劣の差を付けようという何とも救いようがない教え方の問題」なのである。このように論じてくると学校教育の批判になってしまうが、今回はそういう大それた意図はない。
品格とは:
1996年だったか、香港に市場調査を兼ねて遊びに行った帰りの機内で、隣に座ったアメリカの大手包装材料メーカーの若き香港支店長(スタンフォード大学のMBAだと名乗った)と語り合ったのだった。その際に特に深い慮りもなく「クリントン大統領の南部訛りには品格に乏しく好感を持てない」と言ってしまった。
するとどうだろう。その若き支店長は「外国人の貴方がよくぞ言ってくれた。我々は決してあのような訛りのある言葉を使う大統領を決して快くは思ってはいない」と言って握手を求めてきたのだった。アメリカ人ではない私にも理解できる反応だが、「そこまで言うか」とアメリカのエリートたちが求める品格と格式の厳格さを改めて知る思いだった。
同じ民主党のオバマ大統領の言葉遣いにも決して支配階層の品格はなかったと思う。と言うよりも、良家のご出身ではないと察しがつく程度の品位だった。そこで、一例を挙げて置けば、例えば
I think that we will be willing to take the risk.
のように話す時に、彼は that で一旦 pauseを置くのである。これは品格に欠ける語り方と決めつけざるを得ないのだ。即ち、we will be以下は thatで始まるclauseであるのだから、先ずI think で一旦切って、言うなれば一呼吸置くべきなのだ。これだけでも、厳しく言えば「格調が低い」と批判されるのである。我が国の学校教育ではまずこのthatの前で一旦pauseを置くことが教えられていないようだ。
ところで、トランプ大統領である。彼は自分の支持層であるプーアホワイト以下と労働者階級等々を相手に語る時は、恐らく意識的なのだろうが、かなり品格を疑うような表現を使われるし、とてもアメリカ合衆国の大統領とは思えない swearwordの類いの言葉を敢えて選んでおられるようなのだ。永年アメリカの支配階層にある会社の中で、アッパーミドルの人たちと過ごしてきた経験から言えば、あり得ない品格に欠如なのである。
しかし、トランプ大統領は公式の席などではアメリカ大統領に相応しい言葉使いで語っておられることが多いので、精一杯善意で解釈すれば、言葉遣いを使い分けておられるのだろう。更に、お得意のTwitterでは、とても大統領とは思えない言葉を平気で使っておられるのも気になる。率直に言えば、品格には気を遣っておられないようだということ。
言葉の品格:
私は品格とは「常識的に見て(swearwordのような)汚い言葉を使った表現や、文法的に誤りがある表現を使った文章を書くか、または話す事がない事。更に言えば、話す時に英語独特の連結発音(=liaison)が出来ていなければならない事」を言うのだと信じている。即ち、ご当人が世界的な英語の音声学の権威だと言われた上智大学の千葉勉教授が繰り返して指摘された「Englishを良く勉強して文法を間違えることがなく、下品な表現や言葉とはどのようなものかを弁えて絶対に使ってはならない。さもないと無教養だと看做される」という意味でもある。中でも注意すべきは「汚い言葉」と訳されている“swearword”を「格好がよい」等と誤認識して覚え込み、他人様の前で使ってしまうことである。この類いの言葉は学校教育では教えていないようなので、良く注意して絶対に避けねばならない性質だと知っておくべきなのだ。
連結音:
矢張り、この例も挙げておこう。学校教育では先ず教えられていないようだ。即座に思いついた例が、ラグビーやフットボール(アメリカには「アメリカンフットボール」という競技はない、念の為)で相手側にボール奪われることを“turnover”と言うが、“turn over”とすることもあるので、中継放送などではほとんどの解説者もアナウンサーも「ターン・オーバー」と言っている。これは「連結音」を教えられていなかった為に起きた問題である。ここでは「ターンノーバー」に近くして、turnの最後のnとoverのoを連結しなければならないのだ。
他にもturnを使った例を挙げておくと、Helenと一緒にいたときに「あっちを向いて」という意味で“Turn around the other way.”と言われたのだが、「ターナラウンド」と一瞬聞こえて意味が取れなかった。同様に「こっちを向いて」は“turn around this way”となる。
使ってはならない汚い言葉:
かく申す私も、1972年8月までは、swearword使うことがどれほど良くない事であり、且つ自分から下層階級に属していると告白するのと同じである」とは明確に承知していなかった。別な視点から論じれば、一定以上の階層では、swearwordを使うことは当たり前のことなので、そういう連中と付き合うと、ついつい知らぬ間に覚えてしまうようだ。
心すべき事はswearwordは我が国では屡々“slang”と混同されているが、全く別な範疇にある言葉であり、苟も一流会社に所属している者が使ってはならないのだ」という点だ。その例を少しだけ挙げておけば、“hell”であるとか”God damn it.”や“Shit.”といった単語とphraseである。そういう種類の表現を使っただけでも「社会の下層に属する者」と蔑まれる言葉であることが、我が国の教育では生徒にも学生にも一般人にも知らされていないのである。なお、”slang”は「隠語」や「符丁」の類いを指し、swearwordとは明らかに別物であることは、これまでに何度も指摘してきた。
文法無視は無教養の現れ:
swearword以外の品格に欠けた言葉遣いの例も挙げておこう。それは、我が国ではかなり広く知れ渡っている「私も」という意味で気軽に使われている“Me, too.”である。これの何処がおかしいのかと言えば、“me”は目的格であるから主語に使うのは不適切であり、正しくは“I”であるべきだという文法上の誤りだ。だが、この形でかなり広まってしまったし #me too などというのも最近は別な意味で知れ渡っている。私が嘗て「Me too.は駄目だ」と否定したところ、文科省OBの方が「ライシャワー大使も使っておられたから問題ない」と猛烈に反論されて困ったことがあった。私的な場では大使といえども使われることはあると思うのだ。
では、“Me, too.”の代わりに何と言えば良いかだが、“I think so, too.”でも通じるだろうし、“The same here.“でも良いだろう。我が事業部にいたニュージーランド人でOxfordのMBAの人物は独特の表現で“The same applies.”と言っていた。覚えて置いて貰いたいことは「こう言えば良い」という決まりなどないのだから、自分で考えて表現することが肝腎なのだ。
そこで、「長年親しくしているニューヨーク州出身で夫婦ともMBAである典型的なアッパーミドルの極めて厳格な家庭である嘗ての私の上司だって夫妻の例を挙げてみよう。なお、お二方ともMBAであり、長男はハーバードのMBAであり、長女はUCバークレーで修士号をとった大学教授である。
その夫妻と私と3人で夕食会をしていたときに、奥方が「今日参加した会合で友人の誰それさんが“Me, too.”と言われたのには驚いた」と言われた。それを聞いた上司は「そうか、彼はそういう表現を使ったのか。見損なったな」と嘆いて見せたのだった。彼は会社を引退後にはコンサルタント業を経て大学院大学の教授に就任し、奥方は労務関係のコンサルタント事務所を開いていた。アメリカの典型的なアメリカの支配階層では、このような言葉についてはこのように極めて厳格なのだという事を承知しておいて欲しい。
追加で申し上げておけば、私は社内でついウッカリswearwordを使って、副社長に別室に呼びだされ「我が社の社員たる者、私の面前で二度とそういう言葉を使うな」ときつく叱責されたものだった。これがアメリカの支配階層にある会社の言葉遣いの感覚であり品格なのである。
ところが、「アメリカにはswearwordがあり、下層階級が好んで使う言葉だ」と知らずにアメリカに留学や駐在に行くと、swearwordが何かを強調したい時などに便利に使えると知る機会があるのだ。しかも、そういう言葉を多用する連中に出会う事もまた多いようだ。そこでつい「これこそがアメリカ英語で格好が良いのだ」と誤解して覚えてしまった上で、嬉々として使ってしまうようなのだ。大間違いである。
私はアメリカで支配階層に属する者たちは精々全体の5%程度だと思っているから、外国人である我々がアメリカに観光旅行などで出掛けただけでは、そう滅多にアッパーミドルかそれ以上の人たちと語り合うとか、会食をすることはあり得ないだろう。であれば、悪い言い方だが「安心して単語を並べて語り合っても良い」事になってしまう。
品格と発音の考察:
Native speaker並なら良いのか:
私は発音が綺麗で正確であればあるほど良いと思っているし、嘗ては「発音が良いのは七癖隠す」とまで言ったことがあった。言うなれば、発音が良ければ品格も上がるという事を言いたいのだ。発音で留意すべき点は「正確で明瞭にしようと心がけること」がある。更に、「話す場合にはアクセントと抑揚(intonation)が正確であること、切るべき箇所(pause)を誤らないこと、連結音(liaison)が出来ているかいないかが要注意」なのである。即ち、少し大袈裟に言えば、「ゼア・アー・ツー・サーテイワン・アイスクリーム・ショップス。」のような th やtwoの発音しか出来ていなくとも、相手が聞き取りやすいように全てが明瞭であれば聞き手に理解させることが出来ると言いたいのだ。このカタカナ書きの例文は rーlinkingが出来ていないことをも示している。
また発音とは必ずしも綺麗なnative speaker並の発音にする(出来る)ことではなく、相手が聞き取りやすいように明瞭であること(あるアメリカ人はclarityという言葉で表現した)を意味する。アクセントの付け方も重要で、アメリカの英語ではQueen’s Englishよりもアクセントが強調されている。即ち、私はUK式の方が平板に流れているように聞こえてくる。
極端な表現だが、私は「我が国の英語の先生方に多く聞かれる例で、カタカナ語的というかローマ字の悪影響の下にある外国人離れした上記の例文のような「英語」であって、正統派ではないのだ」と言いたい。「この正調ではない“English”ではない発音からは、出来る限り離れるように努力された方が無難である」とまで考えている。
より具体的に言えば、同じEnglishでも英連合王国(UK)、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドにはそれぞれ独自の発音と訛りも方言もあるので、その中のどの国の英語の発音を選ぶかは、慎重に検討すべきだと言いたい。だが、我が国の学校教育だけで学んだ英語の知識では「どれがアメリカ式でどれがオーストラリア式かは、容易に判断出来ない」のが難しいところだ。私は少なくとも、所謂“London Cockney”とそれにも似たところがあるオーストラリアとニュージーランドの訛りは避けた方が無難だと言って良いと思っている。それはオーストラリアでは Australiaと書いて「オーストライリア」のように“a”の発音に特徴があるのだ。
これまでに何度か例に挙げてきたが、UKのサッカーの名選手だった そそっかしい我が国のマスコミが「貴公子」と呼んだDavid Beckhamは、自分の名前のDavidを「ダイヴィッド」と発音するのである。この訛りは決して上流階級のものではないが、オーストラリアでは閣僚級の方でもこういう訛りがあるので怖い。
私は全世界で最も広まっていると信じているアメリカ式の発音が良いだろうとは考えているのだ。だが、ヨーロッパでは地理的な条件もあってQueen’s Englishの発音が最も普及している。私はアメリカとの縁が最も深かったので、アメリカ式に準拠しているが、実際にはそれとUK式の中間になる発音にするように意識してきた。しかし、面白いことにこういう発音すると、オーストラリアやカナダ(実はUKの系統に属する)では「美しい英語だ」と褒められるのだ。
“r”の後にa,e,i,o,uが来るときの発音:
私がアメリカ式の中で最もお薦めしないのが、ar、er、ir、or、ur等の“r”が絡んだ場合に舌を巻いて r を強調することだ。この巻き舌のような発音はアメリカ国内の何処の出身かで違うが、rを強調しない方が無難であり上品だと言える。
シカゴ生まれのかのヒラリー・クリントンさんの発音では、この傾向が極めて顕著だったのを思い出して頂きたい。私はこの点だけでも彼女を嫌っていた。「この r絡みでは、敢えてQueen’s English式の方をお薦めしたい。その方がUKは言うに及ばす、ヨーロッパに行っても嫌われることがないだろう」から。
アメリカかUKかの何れの発音を心がけるかは各人の選択にお任せするが、何れにせよキチンとした正確な発音が出来るようにしておきたいものだ。それが品格に通じるのである。日本人には“I don’t know.”などのような場合に“t”の発音が難しくて「アイドンノー」ようになってしまう例が多い。私はこういう発音は品格に乏しい英語と看做されると断じたい。何とか“t”のような微妙な発音が出来るように努力されたい。これが出来ないとアメリカでは「オリエンタル・アクセント」と揶揄する人もいるのだから。
貴方の英語の品格の落とし方:
屡々見かける例だが、英語の「会話」とやらの勉強を始める時に「“you know”という句(=phrase)を挟んではいけない」と教えられていない場合に生ずることだ。アメリカ人なり何なりの外国人の中に入って行くと、その人たちが属する階層によっては“you know”のシャワーを浴びせかけられることが多い。
そこでは、その人物のお里が知れたと思うべきなのだ。品格のほどが解ってしまうと思って欲しい。要するに“you know”とは言わないのが良いと認識して貰いたいのだ。私は1945年にGHQの秘書をしておられたHelenに最初に教えられたことの一つの項目がこの点だった。
我が同胞は“you know”の何処が問題であるかを知らずに「何となく格好が良い」か「気取っているのか」と勘違いして真似てしまう例が多いのが非常に遺憾である。とんでもない誤解である。私はこれを「you knowを多用されることは、貴方が有能であることを証明しないのです。使えば有能ではないことになります」と解説してきた。そういうことで、先ず絶対に真似して使ってはならないことなのだ。
例文を作ってみれば“Yesterday, you know, I went to see my old friend at the Tokyo Dome, you know.”といった具合である。”you know”を言わなくても意味は通じるのだし、これが貴方は「私は知識階級ではありません」と自己申告したような結果になると知って貰いたい。また、my old friendも好ましくないのだ。ここでは”one of my old friends“と言わないと、貴方には旧友が1人しかいないことになるのだ。この辺りを学校英語では教えられていない英語という言語のの理屈っぽさだと承知して欲しいのだ。
私がHelenに叩き込まれたことは「何か表現が思いつかない時などには絶対に“you know”などと言ってはならない。精々“let me see“くらいにして、それが出てこなければエーでもアーもウーでも良い」と教えられた。その頃には、この意味は解らなかったが、後年アメリカ人の世界に入って初めてその教訓の価値が解ってきた。
既に挙げた上司の奥方にこのHelenの教えのことを話した時に「その秘書の方の教えは素晴らしい」と言われた。他の例を挙げれば「MLB等から我が国にやってくるアメリカ人や南アメリカ人の選手たちが話すのを聞いて見てごらんなさい」なのだ。立派な“you know”な選手たちばかりだと解るから。
ここでは私を信じて、今日からでも如何にして自分が「有能」であるかを示すよう英語乃至はその会話の勉強に励んで品格を高めるよう努力して頂きたいのだ。
当たり前のことだが、何も英語だけに限ったことではなく、日本語でも品格も品位も求められている。それはそれとして「英語における言葉の品格」とは如何なる事を指しているにかを考えて見ようと思う次第。
私は我が国における英語の在り方には問題点が多々あると見ている。その中でも最も困ったことだと思う点は「学校教育では実用性に乏しい教え方をしている為に、多くの方が通じたか通じなかったかを非常に重要視している事」なのである。そこには英語力が示す教養であるとか、品格や品位などに気を配っている余裕などは全く感じられないのだ。
使ってはならない言葉や表現などは全く教えられていなかったので、屡々聞かれる「兎に角知っているだけの単語を並べたら云々」という、何と言って評して良いか解らない事態になってしまうのだ。ズバリと言ってしまえば「科学としての英語を数学のように教えて、児童・生徒・学生に優劣の差を付けようという何とも救いようがない教え方の問題」なのである。このように論じてくると学校教育の批判になってしまうが、今回はそういう大それた意図はない。
品格とは:
1996年だったか、香港に市場調査を兼ねて遊びに行った帰りの機内で、隣に座ったアメリカの大手包装材料メーカーの若き香港支店長(スタンフォード大学のMBAだと名乗った)と語り合ったのだった。その際に特に深い慮りもなく「クリントン大統領の南部訛りには品格に乏しく好感を持てない」と言ってしまった。
するとどうだろう。その若き支店長は「外国人の貴方がよくぞ言ってくれた。我々は決してあのような訛りのある言葉を使う大統領を決して快くは思ってはいない」と言って握手を求めてきたのだった。アメリカ人ではない私にも理解できる反応だが、「そこまで言うか」とアメリカのエリートたちが求める品格と格式の厳格さを改めて知る思いだった。
同じ民主党のオバマ大統領の言葉遣いにも決して支配階層の品格はなかったと思う。と言うよりも、良家のご出身ではないと察しがつく程度の品位だった。そこで、一例を挙げて置けば、例えば
I think that we will be willing to take the risk.
のように話す時に、彼は that で一旦 pauseを置くのである。これは品格に欠ける語り方と決めつけざるを得ないのだ。即ち、we will be以下は thatで始まるclauseであるのだから、先ずI think で一旦切って、言うなれば一呼吸置くべきなのだ。これだけでも、厳しく言えば「格調が低い」と批判されるのである。我が国の学校教育ではまずこのthatの前で一旦pauseを置くことが教えられていないようだ。
ところで、トランプ大統領である。彼は自分の支持層であるプーアホワイト以下と労働者階級等々を相手に語る時は、恐らく意識的なのだろうが、かなり品格を疑うような表現を使われるし、とてもアメリカ合衆国の大統領とは思えない swearwordの類いの言葉を敢えて選んでおられるようなのだ。永年アメリカの支配階層にある会社の中で、アッパーミドルの人たちと過ごしてきた経験から言えば、あり得ない品格に欠如なのである。
しかし、トランプ大統領は公式の席などではアメリカ大統領に相応しい言葉使いで語っておられることが多いので、精一杯善意で解釈すれば、言葉遣いを使い分けておられるのだろう。更に、お得意のTwitterでは、とても大統領とは思えない言葉を平気で使っておられるのも気になる。率直に言えば、品格には気を遣っておられないようだということ。
言葉の品格:
私は品格とは「常識的に見て(swearwordのような)汚い言葉を使った表現や、文法的に誤りがある表現を使った文章を書くか、または話す事がない事。更に言えば、話す時に英語独特の連結発音(=liaison)が出来ていなければならない事」を言うのだと信じている。即ち、ご当人が世界的な英語の音声学の権威だと言われた上智大学の千葉勉教授が繰り返して指摘された「Englishを良く勉強して文法を間違えることがなく、下品な表現や言葉とはどのようなものかを弁えて絶対に使ってはならない。さもないと無教養だと看做される」という意味でもある。中でも注意すべきは「汚い言葉」と訳されている“swearword”を「格好がよい」等と誤認識して覚え込み、他人様の前で使ってしまうことである。この類いの言葉は学校教育では教えていないようなので、良く注意して絶対に避けねばならない性質だと知っておくべきなのだ。
連結音:
矢張り、この例も挙げておこう。学校教育では先ず教えられていないようだ。即座に思いついた例が、ラグビーやフットボール(アメリカには「アメリカンフットボール」という競技はない、念の為)で相手側にボール奪われることを“turnover”と言うが、“turn over”とすることもあるので、中継放送などではほとんどの解説者もアナウンサーも「ターン・オーバー」と言っている。これは「連結音」を教えられていなかった為に起きた問題である。ここでは「ターンノーバー」に近くして、turnの最後のnとoverのoを連結しなければならないのだ。
他にもturnを使った例を挙げておくと、Helenと一緒にいたときに「あっちを向いて」という意味で“Turn around the other way.”と言われたのだが、「ターナラウンド」と一瞬聞こえて意味が取れなかった。同様に「こっちを向いて」は“turn around this way”となる。
使ってはならない汚い言葉:
かく申す私も、1972年8月までは、swearword使うことがどれほど良くない事であり、且つ自分から下層階級に属していると告白するのと同じである」とは明確に承知していなかった。別な視点から論じれば、一定以上の階層では、swearwordを使うことは当たり前のことなので、そういう連中と付き合うと、ついつい知らぬ間に覚えてしまうようだ。
心すべき事はswearwordは我が国では屡々“slang”と混同されているが、全く別な範疇にある言葉であり、苟も一流会社に所属している者が使ってはならないのだ」という点だ。その例を少しだけ挙げておけば、“hell”であるとか”God damn it.”や“Shit.”といった単語とphraseである。そういう種類の表現を使っただけでも「社会の下層に属する者」と蔑まれる言葉であることが、我が国の教育では生徒にも学生にも一般人にも知らされていないのである。なお、”slang”は「隠語」や「符丁」の類いを指し、swearwordとは明らかに別物であることは、これまでに何度も指摘してきた。
文法無視は無教養の現れ:
swearword以外の品格に欠けた言葉遣いの例も挙げておこう。それは、我が国ではかなり広く知れ渡っている「私も」という意味で気軽に使われている“Me, too.”である。これの何処がおかしいのかと言えば、“me”は目的格であるから主語に使うのは不適切であり、正しくは“I”であるべきだという文法上の誤りだ。だが、この形でかなり広まってしまったし #me too などというのも最近は別な意味で知れ渡っている。私が嘗て「Me too.は駄目だ」と否定したところ、文科省OBの方が「ライシャワー大使も使っておられたから問題ない」と猛烈に反論されて困ったことがあった。私的な場では大使といえども使われることはあると思うのだ。
では、“Me, too.”の代わりに何と言えば良いかだが、“I think so, too.”でも通じるだろうし、“The same here.“でも良いだろう。我が事業部にいたニュージーランド人でOxfordのMBAの人物は独特の表現で“The same applies.”と言っていた。覚えて置いて貰いたいことは「こう言えば良い」という決まりなどないのだから、自分で考えて表現することが肝腎なのだ。
そこで、「長年親しくしているニューヨーク州出身で夫婦ともMBAである典型的なアッパーミドルの極めて厳格な家庭である嘗ての私の上司だって夫妻の例を挙げてみよう。なお、お二方ともMBAであり、長男はハーバードのMBAであり、長女はUCバークレーで修士号をとった大学教授である。
その夫妻と私と3人で夕食会をしていたときに、奥方が「今日参加した会合で友人の誰それさんが“Me, too.”と言われたのには驚いた」と言われた。それを聞いた上司は「そうか、彼はそういう表現を使ったのか。見損なったな」と嘆いて見せたのだった。彼は会社を引退後にはコンサルタント業を経て大学院大学の教授に就任し、奥方は労務関係のコンサルタント事務所を開いていた。アメリカの典型的なアメリカの支配階層では、このような言葉についてはこのように極めて厳格なのだという事を承知しておいて欲しい。
追加で申し上げておけば、私は社内でついウッカリswearwordを使って、副社長に別室に呼びだされ「我が社の社員たる者、私の面前で二度とそういう言葉を使うな」ときつく叱責されたものだった。これがアメリカの支配階層にある会社の言葉遣いの感覚であり品格なのである。
ところが、「アメリカにはswearwordがあり、下層階級が好んで使う言葉だ」と知らずにアメリカに留学や駐在に行くと、swearwordが何かを強調したい時などに便利に使えると知る機会があるのだ。しかも、そういう言葉を多用する連中に出会う事もまた多いようだ。そこでつい「これこそがアメリカ英語で格好が良いのだ」と誤解して覚えてしまった上で、嬉々として使ってしまうようなのだ。大間違いである。
私はアメリカで支配階層に属する者たちは精々全体の5%程度だと思っているから、外国人である我々がアメリカに観光旅行などで出掛けただけでは、そう滅多にアッパーミドルかそれ以上の人たちと語り合うとか、会食をすることはあり得ないだろう。であれば、悪い言い方だが「安心して単語を並べて語り合っても良い」事になってしまう。
品格と発音の考察:
Native speaker並なら良いのか:
私は発音が綺麗で正確であればあるほど良いと思っているし、嘗ては「発音が良いのは七癖隠す」とまで言ったことがあった。言うなれば、発音が良ければ品格も上がるという事を言いたいのだ。発音で留意すべき点は「正確で明瞭にしようと心がけること」がある。更に、「話す場合にはアクセントと抑揚(intonation)が正確であること、切るべき箇所(pause)を誤らないこと、連結音(liaison)が出来ているかいないかが要注意」なのである。即ち、少し大袈裟に言えば、「ゼア・アー・ツー・サーテイワン・アイスクリーム・ショップス。」のような th やtwoの発音しか出来ていなくとも、相手が聞き取りやすいように全てが明瞭であれば聞き手に理解させることが出来ると言いたいのだ。このカタカナ書きの例文は rーlinkingが出来ていないことをも示している。
また発音とは必ずしも綺麗なnative speaker並の発音にする(出来る)ことではなく、相手が聞き取りやすいように明瞭であること(あるアメリカ人はclarityという言葉で表現した)を意味する。アクセントの付け方も重要で、アメリカの英語ではQueen’s Englishよりもアクセントが強調されている。即ち、私はUK式の方が平板に流れているように聞こえてくる。
極端な表現だが、私は「我が国の英語の先生方に多く聞かれる例で、カタカナ語的というかローマ字の悪影響の下にある外国人離れした上記の例文のような「英語」であって、正統派ではないのだ」と言いたい。「この正調ではない“English”ではない発音からは、出来る限り離れるように努力された方が無難である」とまで考えている。
より具体的に言えば、同じEnglishでも英連合王国(UK)、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドにはそれぞれ独自の発音と訛りも方言もあるので、その中のどの国の英語の発音を選ぶかは、慎重に検討すべきだと言いたい。だが、我が国の学校教育だけで学んだ英語の知識では「どれがアメリカ式でどれがオーストラリア式かは、容易に判断出来ない」のが難しいところだ。私は少なくとも、所謂“London Cockney”とそれにも似たところがあるオーストラリアとニュージーランドの訛りは避けた方が無難だと言って良いと思っている。それはオーストラリアでは Australiaと書いて「オーストライリア」のように“a”の発音に特徴があるのだ。
これまでに何度か例に挙げてきたが、UKのサッカーの名選手だった そそっかしい我が国のマスコミが「貴公子」と呼んだDavid Beckhamは、自分の名前のDavidを「ダイヴィッド」と発音するのである。この訛りは決して上流階級のものではないが、オーストラリアでは閣僚級の方でもこういう訛りがあるので怖い。
私は全世界で最も広まっていると信じているアメリカ式の発音が良いだろうとは考えているのだ。だが、ヨーロッパでは地理的な条件もあってQueen’s Englishの発音が最も普及している。私はアメリカとの縁が最も深かったので、アメリカ式に準拠しているが、実際にはそれとUK式の中間になる発音にするように意識してきた。しかし、面白いことにこういう発音すると、オーストラリアやカナダ(実はUKの系統に属する)では「美しい英語だ」と褒められるのだ。
“r”の後にa,e,i,o,uが来るときの発音:
私がアメリカ式の中で最もお薦めしないのが、ar、er、ir、or、ur等の“r”が絡んだ場合に舌を巻いて r を強調することだ。この巻き舌のような発音はアメリカ国内の何処の出身かで違うが、rを強調しない方が無難であり上品だと言える。
シカゴ生まれのかのヒラリー・クリントンさんの発音では、この傾向が極めて顕著だったのを思い出して頂きたい。私はこの点だけでも彼女を嫌っていた。「この r絡みでは、敢えてQueen’s English式の方をお薦めしたい。その方がUKは言うに及ばす、ヨーロッパに行っても嫌われることがないだろう」から。
アメリカかUKかの何れの発音を心がけるかは各人の選択にお任せするが、何れにせよキチンとした正確な発音が出来るようにしておきたいものだ。それが品格に通じるのである。日本人には“I don’t know.”などのような場合に“t”の発音が難しくて「アイドンノー」ようになってしまう例が多い。私はこういう発音は品格に乏しい英語と看做されると断じたい。何とか“t”のような微妙な発音が出来るように努力されたい。これが出来ないとアメリカでは「オリエンタル・アクセント」と揶揄する人もいるのだから。
貴方の英語の品格の落とし方:
屡々見かける例だが、英語の「会話」とやらの勉強を始める時に「“you know”という句(=phrase)を挟んではいけない」と教えられていない場合に生ずることだ。アメリカ人なり何なりの外国人の中に入って行くと、その人たちが属する階層によっては“you know”のシャワーを浴びせかけられることが多い。
そこでは、その人物のお里が知れたと思うべきなのだ。品格のほどが解ってしまうと思って欲しい。要するに“you know”とは言わないのが良いと認識して貰いたいのだ。私は1945年にGHQの秘書をしておられたHelenに最初に教えられたことの一つの項目がこの点だった。
我が同胞は“you know”の何処が問題であるかを知らずに「何となく格好が良い」か「気取っているのか」と勘違いして真似てしまう例が多いのが非常に遺憾である。とんでもない誤解である。私はこれを「you knowを多用されることは、貴方が有能であることを証明しないのです。使えば有能ではないことになります」と解説してきた。そういうことで、先ず絶対に真似して使ってはならないことなのだ。
例文を作ってみれば“Yesterday, you know, I went to see my old friend at the Tokyo Dome, you know.”といった具合である。”you know”を言わなくても意味は通じるのだし、これが貴方は「私は知識階級ではありません」と自己申告したような結果になると知って貰いたい。また、my old friendも好ましくないのだ。ここでは”one of my old friends“と言わないと、貴方には旧友が1人しかいないことになるのだ。この辺りを学校英語では教えられていない英語という言語のの理屈っぽさだと承知して欲しいのだ。
私がHelenに叩き込まれたことは「何か表現が思いつかない時などには絶対に“you know”などと言ってはならない。精々“let me see“くらいにして、それが出てこなければエーでもアーもウーでも良い」と教えられた。その頃には、この意味は解らなかったが、後年アメリカ人の世界に入って初めてその教訓の価値が解ってきた。
既に挙げた上司の奥方にこのHelenの教えのことを話した時に「その秘書の方の教えは素晴らしい」と言われた。他の例を挙げれば「MLB等から我が国にやってくるアメリカ人や南アメリカ人の選手たちが話すのを聞いて見てごらんなさい」なのだ。立派な“you know”な選手たちばかりだと解るから。
ここでは私を信じて、今日からでも如何にして自分が「有能」であるかを示すよう英語乃至はその会話の勉強に励んで品格を高めるよう努力して頂きたいのだ。
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