朝日新聞社と高野連はまたしても判断を誤っていたのでは:
本19日は大袈裟に言えば朝9時過ぎに「意を決して」となるかも知れないが、実際には恐る恐る新大久保駅前から都バスで国立国際医療研究センターに採血に出掛けた。恐る恐るというのは、新宿区におけるCOVID-19の感染者数は連日のように100を超え、通算では1万4千人台という、都内でも上位に入る多発地域なのだからだ。その区内に日頃の限定した狭い外出範囲を遙かに超える場所に、公共交通機関を利用して移動するのだし、バス停は外国人が溢れかえっている大久保通りにあるのだ。
10時半過ぎに帰宅して「まさか、甲子園の野球はやっていないだろう」と思って1チャンネルを見れば「雨天で試合中断中」とあった。彼ら主催者が試合をやらせたい心中は解らないでもないが、またもや「コールドゲーム」にでもるとか「ノーゲーム」にでもなってしまったら、高校生たちが気の毒ではないのかとの思考能力を、彼らは持ち合わせがないようだった。
そして結果としては「ノーゲーム」となったのだが、試合を中止したときには5回裏で二死満塁でカウントが3―2だったと聞いては呆れるだけだった。後一球で試合が成立して近江高校が「コールドゲーム勝ち」になるところだった。ノーゲームとは何れまた最初からやり直しという意味だ。劣勢だった日大東北高は救われたのかも知れない。
あらためて言えば「朝日新聞社と高野連は、判断の基準を何処に求めていたのか」なのだ。私には「主催者という強権を発動しての身勝手だ」と言うしか思えないのだ。甲子園の野球のお陰で、阪神タイガースは大阪ドームから東京ドームとを転々とさせられ、読売ジャイアンツはホームグラウンドを明け渡して地方興行の旅だ。そのタイガースが本拠地に戻ってくる頃までに、この大会が終わらないと・・・」という状態に追い込まれて、いい大人たちが判断能力を失いかけたのではないのかな。
一方、国会に目を転じると、立憲民主党の杉尾秀哉(元TBS専門解説室長?だったか)が例によって例の如く居丈高に尾身茂分科会長に「パラリンピックを児童に観戦させる是非」を問うていた。尾身氏は「オリンピック開会式の頃のよりも事態が悪化していることに配慮して頂きたいもの」という主旨の答え方をしておられた。私はそれを言うならば「オリンピックの1年延期を決めた昨年の春よりも、遙かに悪化した時期に開催されたオリンピック」をどう見るかではないのかなと思った。要するに「誰が如何なる基準により判断するのか」が定かではないと思うのだ。
立憲民主党の杉尾秀哉や今井雅人は、常に偉そうな口調で自民党とその政権を批判し攻め立てるが、彼らから「では如何にしたら良いのか」という類いの建設的な提案があった記憶がない。先日も何処かの週刊誌だったかが、私の専売特許かと思っていた“contingency plan”が欠落していると政府を非難していたが、杉尾も今井も政権批判をするのならば、それくらいの判断基準に基づいて質問したらどうかと思っている。
パラリンピックを児童に観戦させる判断も重要だろうが、菅内閣にはもっと遙かに重要な判断を迫られる案件が目白押しではないのか。それらに対する判断の基準をしかと決断して頂きたいものだ。と思っていたところに、ニュージーランド(NZ)では何ヶ月ぶりかで、1名の市中感染者が発生した途端に、アーダーン首相はその晩に「オークランドの全面的都市封鎖を発令された」とのニュースが出てきた。
事の正否は兎も角、感染拡大防止に基準を求めて即断即決された姿勢には感心した。人口が500万人の國と1億2千万人の我が国を同日に論ずべきではないのは承知だが、即断行してしまった辺りは、菅首相や西村大臣や田村大臣に河野大臣には、何らかの参考になるのではないのだろうか。NZの法体系がどのようになっているのかなど解る訳がないが、橋下徹氏が指摘し続けている「要請」ではなく「指示・命令できる」ような立法もまた必要ではないのかと思わせられた昨日までの全国の感染者の数、死者、病床の不足振りだ。
何も中国のように一夜にして10万床の仮設病棟を作っては如何とは言わないが、矢張り先を見越して手を打っていく判断が必要だったのではないのかと、あらためて言いたくなった半日だった。
本19日は大袈裟に言えば朝9時過ぎに「意を決して」となるかも知れないが、実際には恐る恐る新大久保駅前から都バスで国立国際医療研究センターに採血に出掛けた。恐る恐るというのは、新宿区におけるCOVID-19の感染者数は連日のように100を超え、通算では1万4千人台という、都内でも上位に入る多発地域なのだからだ。その区内に日頃の限定した狭い外出範囲を遙かに超える場所に、公共交通機関を利用して移動するのだし、バス停は外国人が溢れかえっている大久保通りにあるのだ。
10時半過ぎに帰宅して「まさか、甲子園の野球はやっていないだろう」と思って1チャンネルを見れば「雨天で試合中断中」とあった。彼ら主催者が試合をやらせたい心中は解らないでもないが、またもや「コールドゲーム」にでもるとか「ノーゲーム」にでもなってしまったら、高校生たちが気の毒ではないのかとの思考能力を、彼らは持ち合わせがないようだった。
そして結果としては「ノーゲーム」となったのだが、試合を中止したときには5回裏で二死満塁でカウントが3―2だったと聞いては呆れるだけだった。後一球で試合が成立して近江高校が「コールドゲーム勝ち」になるところだった。ノーゲームとは何れまた最初からやり直しという意味だ。劣勢だった日大東北高は救われたのかも知れない。
あらためて言えば「朝日新聞社と高野連は、判断の基準を何処に求めていたのか」なのだ。私には「主催者という強権を発動しての身勝手だ」と言うしか思えないのだ。甲子園の野球のお陰で、阪神タイガースは大阪ドームから東京ドームとを転々とさせられ、読売ジャイアンツはホームグラウンドを明け渡して地方興行の旅だ。そのタイガースが本拠地に戻ってくる頃までに、この大会が終わらないと・・・」という状態に追い込まれて、いい大人たちが判断能力を失いかけたのではないのかな。
一方、国会に目を転じると、立憲民主党の杉尾秀哉(元TBS専門解説室長?だったか)が例によって例の如く居丈高に尾身茂分科会長に「パラリンピックを児童に観戦させる是非」を問うていた。尾身氏は「オリンピック開会式の頃のよりも事態が悪化していることに配慮して頂きたいもの」という主旨の答え方をしておられた。私はそれを言うならば「オリンピックの1年延期を決めた昨年の春よりも、遙かに悪化した時期に開催されたオリンピック」をどう見るかではないのかなと思った。要するに「誰が如何なる基準により判断するのか」が定かではないと思うのだ。
立憲民主党の杉尾秀哉や今井雅人は、常に偉そうな口調で自民党とその政権を批判し攻め立てるが、彼らから「では如何にしたら良いのか」という類いの建設的な提案があった記憶がない。先日も何処かの週刊誌だったかが、私の専売特許かと思っていた“contingency plan”が欠落していると政府を非難していたが、杉尾も今井も政権批判をするのならば、それくらいの判断基準に基づいて質問したらどうかと思っている。
パラリンピックを児童に観戦させる判断も重要だろうが、菅内閣にはもっと遙かに重要な判断を迫られる案件が目白押しではないのか。それらに対する判断の基準をしかと決断して頂きたいものだ。と思っていたところに、ニュージーランド(NZ)では何ヶ月ぶりかで、1名の市中感染者が発生した途端に、アーダーン首相はその晩に「オークランドの全面的都市封鎖を発令された」とのニュースが出てきた。
事の正否は兎も角、感染拡大防止に基準を求めて即断即決された姿勢には感心した。人口が500万人の國と1億2千万人の我が国を同日に論ずべきではないのは承知だが、即断行してしまった辺りは、菅首相や西村大臣や田村大臣に河野大臣には、何らかの参考になるのではないのだろうか。NZの法体系がどのようになっているのかなど解る訳がないが、橋下徹氏が指摘し続けている「要請」ではなく「指示・命令できる」ような立法もまた必要ではないのかと思わせられた昨日までの全国の感染者の数、死者、病床の不足振りだ。
何も中国のように一夜にして10万床の仮設病棟を作っては如何とは言わないが、矢張り先を見越して手を打っていく判断が必要だったのではないのかと、あらためて言いたくなった半日だった。
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