「マスハラ」に大いに感銘を覚えました:
北村維康様の「頂門の一針」へのご投稿、興味深く拝読。誠にご尤もな指摘でした。
私は10年以上は前からマスコミ批判を繰り返して、渡部亮次郎氏には「無駄であり無益な事。彼らは自分たちの満足の為に存在しているのだから、何を言っても効果はない」と諭されました。でも、懲りずに繰り返しております。それは誰かが言わない事には、罪なき一般の視聴者と読者は「彼らの権威か権力を信頼し続け、惑わされるでしょうから」なのです。
尤も、私自身が1990年から実質的に2013年まで紙パルプ業界の専門出版社に定期的に寄稿し続けていただけではなく、1996年から12年間もSBSラジオのコメンテーターであったのでマスコミの一員だったのですから、彼らを批判する資格はないのかも知れません。但し、彼らに同情すべき点はあります。それは経験上も言える事で「彼らは常にスポンサー様の方を見続けていなければならない」のです。その束縛がある為に詰まらない事を言うのですが、それだけではなく、意外なほど不勉強であり無知な点が多過ぎます。
先日も菅首相がバイデン大統領と最初の電話会談を行って「ジョーとヨシの関係を樹立」などと言う無知蒙昧な事を、さも菅氏の功績の如くに報じていたのも、彼らの「文化の違いを未だに弁えていない欠点」の悲しいまでの表れでした。彼らはアメリカやヨーロッパの諸国の文化では「ファーストネーム・ファースト・ベイシス」である事が未だに認識出来ていないようです。
古くは「ロン・ヤス関係」と囃し立てた故中曽根総理の外交能力の如くに持ち上げた件がありました。彼らアメリカ/ヨーロッパ人たちの中で過ごせば、ファーストネームで呼び合う事が親密さを表すものではないと解るはずですし、彼らとても海外に特派員を出しているではありませんか。
私は子供頃から彼等アメリカ人と付き合いがあって、この程度の文化の相違点は承知しておりましたから、1972年に思いがけずにアメリカの会社に転進しても、その点では困惑もしませんでしたし、自分は如何なるニックネームするかと考えていました。現に最初に転進したM社の事業部の社長(他社ではvice president and general managerですが)は初対面の私の名刺を何度も見ながら名前で呼びかけていました。決して名字とはならないのは当たり前でしょう。そこで暫くしてから社内ではMasと呼んで欲しいと言うようにしていました。念の為に言えば「下の名前」というのも奇妙な事。日本式は「名字に名前」で構成されているのです。
この程度の「文化の相違点である常識」を未だに弁えていない彼らは、平然としてMichael Jacksonを「マイケルさん」(理屈を言えばマイクルが正しいのですが)と呼び、Paul McCartneyを「ポールさん」としてしまうのです。テレビ局では出てくる外国人を躊躇う事なくファーストネームに「さん」を付けて呼んでしまう不見識振り。もう、ここまで来れば怒る前に笑うしかありません。私は一流大学出身のアナウンサーたちがこの程度の初歩的文化の違いを本当に弁えていないのかと、不思議に思っています。デイレクターなりプロデでユーサーに訂正を進言出来ないのでしょうか。
我が社では私が何度か採り上げた笑えない誤解がありました。本部の技術サービスマネージャーの名刺の裏側にはローマ字表記で「ジョージ某」と印刷されていました。その彼と名刺交換をした得意先の工場の新任の課長さんは躊躇う事なく「ジョージさん」と呼びかけ続けました。ジョージはそれを善意に誤解して、会談が終わってから私に言いました「今日は本当に嬉しかった。日本に何年も来ているが、初めて堅苦しい名字で呼ばれる事なくファーストネーム・ファースト・ベイシスだった」のように。私は「残念ながら誤解である」と解説して、ジョージを落胆させました。
この程度の基本的な文化の相違点が未だに理解出来ていないのは何故でしょうか。それは後難を恐れずに言えば「誰も相互の文化の違いを教えていないからだ」だと認識しております。同時に、これが私の持論である「我が国の学校教育の英語における至らなさと、教師たちの程度の問題」を、遺憾なく表していると思うのです。
蛇足かも知れませんが、「マスハラ」とは「マスコミ・ハラスメント」のこと。
北村維康様の「頂門の一針」へのご投稿、興味深く拝読。誠にご尤もな指摘でした。
私は10年以上は前からマスコミ批判を繰り返して、渡部亮次郎氏には「無駄であり無益な事。彼らは自分たちの満足の為に存在しているのだから、何を言っても効果はない」と諭されました。でも、懲りずに繰り返しております。それは誰かが言わない事には、罪なき一般の視聴者と読者は「彼らの権威か権力を信頼し続け、惑わされるでしょうから」なのです。
尤も、私自身が1990年から実質的に2013年まで紙パルプ業界の専門出版社に定期的に寄稿し続けていただけではなく、1996年から12年間もSBSラジオのコメンテーターであったのでマスコミの一員だったのですから、彼らを批判する資格はないのかも知れません。但し、彼らに同情すべき点はあります。それは経験上も言える事で「彼らは常にスポンサー様の方を見続けていなければならない」のです。その束縛がある為に詰まらない事を言うのですが、それだけではなく、意外なほど不勉強であり無知な点が多過ぎます。
先日も菅首相がバイデン大統領と最初の電話会談を行って「ジョーとヨシの関係を樹立」などと言う無知蒙昧な事を、さも菅氏の功績の如くに報じていたのも、彼らの「文化の違いを未だに弁えていない欠点」の悲しいまでの表れでした。彼らはアメリカやヨーロッパの諸国の文化では「ファーストネーム・ファースト・ベイシス」である事が未だに認識出来ていないようです。
古くは「ロン・ヤス関係」と囃し立てた故中曽根総理の外交能力の如くに持ち上げた件がありました。彼らアメリカ/ヨーロッパ人たちの中で過ごせば、ファーストネームで呼び合う事が親密さを表すものではないと解るはずですし、彼らとても海外に特派員を出しているではありませんか。
私は子供頃から彼等アメリカ人と付き合いがあって、この程度の文化の相違点は承知しておりましたから、1972年に思いがけずにアメリカの会社に転進しても、その点では困惑もしませんでしたし、自分は如何なるニックネームするかと考えていました。現に最初に転進したM社の事業部の社長(他社ではvice president and general managerですが)は初対面の私の名刺を何度も見ながら名前で呼びかけていました。決して名字とはならないのは当たり前でしょう。そこで暫くしてから社内ではMasと呼んで欲しいと言うようにしていました。念の為に言えば「下の名前」というのも奇妙な事。日本式は「名字に名前」で構成されているのです。
この程度の「文化の相違点である常識」を未だに弁えていない彼らは、平然としてMichael Jacksonを「マイケルさん」(理屈を言えばマイクルが正しいのですが)と呼び、Paul McCartneyを「ポールさん」としてしまうのです。テレビ局では出てくる外国人を躊躇う事なくファーストネームに「さん」を付けて呼んでしまう不見識振り。もう、ここまで来れば怒る前に笑うしかありません。私は一流大学出身のアナウンサーたちがこの程度の初歩的文化の違いを本当に弁えていないのかと、不思議に思っています。デイレクターなりプロデでユーサーに訂正を進言出来ないのでしょうか。
我が社では私が何度か採り上げた笑えない誤解がありました。本部の技術サービスマネージャーの名刺の裏側にはローマ字表記で「ジョージ某」と印刷されていました。その彼と名刺交換をした得意先の工場の新任の課長さんは躊躇う事なく「ジョージさん」と呼びかけ続けました。ジョージはそれを善意に誤解して、会談が終わってから私に言いました「今日は本当に嬉しかった。日本に何年も来ているが、初めて堅苦しい名字で呼ばれる事なくファーストネーム・ファースト・ベイシスだった」のように。私は「残念ながら誤解である」と解説して、ジョージを落胆させました。
この程度の基本的な文化の相違点が未だに理解出来ていないのは何故でしょうか。それは後難を恐れずに言えば「誰も相互の文化の違いを教えていないからだ」だと認識しております。同時に、これが私の持論である「我が国の学校教育の英語における至らなさと、教師たちの程度の問題」を、遺憾なく表していると思うのです。
蛇足かも知れませんが、「マスハラ」とは「マスコミ・ハラスメント」のこと。
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