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新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

オバマ政治の問題点

2013-10-11 11:45:32 | コラム
オバマ大統領が抱え込んだ問題は:
アメリカでは10月1日からの予算が成立せず、政府機関が国防省を除いて停止され、あわや"default"になるかかとすら危惧されている。しかしながら、私は日本国内での報道だけに接していれば、何がどうなっているかの詳細というか実態は具に見えてこないと危惧している。

そこに、リタイヤー後にフロリダ州タンパに住むMI氏のニュースレターが、ここにいては見えない実態を知らせてくれているので、敢えて一部を紹介する次第だ。

>引用開始
オバマケアを巡って共和党と民主党が攻防戦を続けています。新年度の歳出案が纏まらないのは、当にオバマケアが関わっているからです。一昨日(10月4日)オバマ大統領は共和党の指導者と1時間ばかり会いましたが、彼が言ったのは「俺は折れないよ」の一言だったそうです。

オバマケア解禁で4日経ちましたが、、早くもコンピュータが処理できず今後の自体が案じられる事態です。大統領は高をくくっていますが、これが長引けば参加したまたは参加しようとしている人たちには否定的に見えるかかも知れません。

日本では報道されていませんが、共和党はただ単にオバマケアに反対している訳ではありません。オバマ大統領が言うように「議会で承認され最高裁でも合法である」との認知を受けていますから、法律であることは否定していません。問題はオバマ大統領の非合法的な、自分にとって有利になるような、この法律の取り扱い方にあります。

オバマ大統領はこの法律を18箇所も変えています。従業員に関わる保険料の出費が倍増するので、このままではオバマケアには反対だと一部の企業や労組から文句が出ました。そこでオバマ大統領は「企業や組合がオバマケアへの参加を1年延長」しました。しかし、一般の個人には延長が認められていません。共和党の主張は「もしこれが法律ならば、たとえ大統領と雖も個人の判断で法律を曲げることは許されない。個人にも1年の猶予を与えるべきだ」です。大統領は個人の要求の声が高くても承認しません。その理由の一つに「企業からの政治献金という見返りを狙っている」があります。

オバマ大統領の政治の成績表は最低です。アフリカ系アメリカ人や低所得層の人たちが政府の援助で働かなくても遊んで生活できていて、その連中の人気が未だ根強く残っています。だが、その他の層やグループからの人気は坂道を転げ落ちています。14年は選挙の年ですが、それに要する巨額の資金についても企業からの見返りは望めますが、個人からはあの低迷する人気では無理だと判断しています。

共和党はたの多くの違反事項を加味してオバマケア反対を唱えているのです。
>引用終わる

私は「MI氏はアメリカの大学出身で40年以上もアメリカに住んでおられ、現地で金融関機関に勤務されていたので、その経験と視点からのアメリカの政治と経済に関するニュースレターは注目に値すると考えている。

暑さ寒さも彼岸までだったはずでは

2013-10-10 08:06:47 | コラム
空調対策で薄くて軽いジャケットを着用:
7日と9日に久し振りにと言うか8月29日の退院以来と言うべきか、友人や仕事関係の方との懇談のためにバスと地下鉄とJRを利用して外出した。昨9日などは大江戸線のかちどき橋まで単独で30分も乗ったほどの遠征?だった。尤も、9月には一駅手前の月島まで家人と乗っていたが。

その際に何に迷ったかと言えば、服装と言うか空調対策だったのだ。それは先週末だったかの寒波の如きものの襲来があったので、車内やビルやデパート等の空調がどうなっているのか、室内と外気温との差がどれほどになるのかの見当がつけにくかったのだから。昨日の訪問先は本来は10月1日からだったスーツにネクタイ着用を15日まで延期して対応していると知らせてくれた。

即ち、「病み上がりの身体では半袖シャツだけでは、もしかして効きすぎている空調に耐えられない事態が生じるのではないか」と危惧したのだった。一体何時までこの高温・高湿の状態が続くのかと恨めしく思った。そこで、極めて薄くて軽いポリエステルのジャケットを半袖シャツの上に羽織って出かけることにした。

結果的には7日の喫茶店での懇談の際には、これだけで不十分だったほど冷房が効いており、大いに不安にさせられてしまった。昨日は大江戸線の空調が意外に効いており、少し涼しすぎたがジャケットが救ってくれた。しかし、思わず「寒い」と言ってしまった訪問先のビルの1階の空調に驚かされた。昼食に入った海鮮丼の店では入り口のガラス戸を開け放して湾岸からの風を入れた自然の空調が何故か心地良かった。

街で見たところでは、Tシャツだけの威勢の良い高齢者もいれば、真夏の装いの若者も多く、スーツにネクタイ着用のビジネス・パーソンもいれば、露出度十二分の若い女性もいるはという状況で、人々は太平洋高気圧に押された30度前後の高温に、思い思いの対応をしているかのように見えた。

当家の室内などは夜になっても27度近辺が維持されていて、寝る前に一度空調をかけて冷やしておく必要があるほど暑い。エレベータの中では「何時まで経っても暑いですね」と挨拶し合っている住民が多い。今日で10月の10日なのに予報では28度とある。今日は何を着て出かけようかと思案中だ。

中国とその環境保護対策を考える

2013-10-08 08:25:36 | コラム
中国と環境保護とその投資の問題を考える:

私のような長い間環境保護とそのコストへの対策に腐心してきた紙パルプ業界の出身者として環境問題について言わせて貰えば「もし、中国がこれから先に、他の先進工業国と同水準に達するような環境保護対策を全産業で講じ始めれば、確実に、経済がと言うべきか国家がと言うべきか知らないが、苦難の道を進むことになりはしないか」なのです。

余り昔のことで何年前のことか記憶もありませんが、静岡県の富士市の田子の浦港で製紙工場から排出されただろう「ヘドロ」の滞積が大問題となり、一帯の製紙工場が汚染源であるとして世間というか報道というか世論というか、多方面からの大批判と非難の対象となりました。非は確かに製紙業界にあり、その後必死の努力で対策を打って改善しました。その投資への資金負担は巨額でした。

私が常に採り上げてきた例に「ある製紙メーカーが都内の工場の土地の一部を売却した後に建ったアパートの住民から、製紙工場は臭気等の公害を垂れ流していると批判されて、工場を閉鎖せざるを得なかった」という、泣くに泣けない物語があります。周囲が開発されて人口が増えれば、元々は人里離れた場所だったはずの(製紙以外でも)工場の立地も環境保護対策も問題になります。我が国では産業界が業界の発展に伴ってキチンと環境保護の対策を立てて実行しました。

メーカーでの経験を申し上げれば「環境対策に投じた資金を、コストとして製品単価に直ちに反映させて、ユーザーや消費者に転嫁することは極めて難しく、先ず受け入れて頂けない」のです。遺憾ながら、環境対策の投資は製造業者にとっての“must”であっても、需要者がそのコストを負担するのは“must”とはならないのです。だが、環境は如何なる事情があっても保護しなければなりません。

ヘドロを海に流しても問題にならないような規模だったから、垂れ流していたから利益が挙がっていたかも知れません。だが、あれは「環境は破壊してはならない」という誠に痛くて厳しい学習の機会でした。

ダイオキシン問題をご記憶でしょうか。発がん性ありとして大きな問題となりました。あの時にアメリカでは「ダイオキシンは自然界に存在せず、何か製造工程中で発生する個ともある」という認識でした。

しかし、紙パルプ産業も発生源ではないか疑われて、食品関係の容器も紙に含まれているかも知れないダイオキシンが内容物に流れ込んでくる」と言われました。業界は懸命に「それは誤解であり誤認識である」と懸命に説明しましたが、完全なる理解を得られませんでした。そして、多額の投資をして、如何なることがあっても発生しないように対応して事態を何とか乗り切りました。

私の経験範囲内でも牛乳パックの紙も疑いをかけられました。W社では「もしもダイオキシンが紙に含まれていたとしても、それが牛乳パック紙の裏面(表面にもあります)にラミネートされているポリエチレンのフィルムに存在するという顕微鏡でも見えない極々小さいピンホールを通ってミルクに入っていく確率は3万年分の1秒である」とユーザーにも消費者にも説明しました。それを立証する試験器だけでも数百万円(円換算)かかり、我々はそれを使ってユーザーや消費者の目の前で牛乳パックの紙をテストしてご覧に入れました。結果は何回繰り返しても「検知不能」であって、ダイオキシンは存在しなかったのでした。お客様は「あ、ホントだ」で終わりました。

泣き言ばかりで済みませんでした。PM2.5の事態に至っても中国にはさしたる反省の色もなく、具体的な改善策も聞こえてきません。この点では東南アジア諸国で都会を離れた地域を観光ではなく歩いてみれば、環境の汚染度は見られますが、聞かされている中国ほどではないと思って安心していられます。

しかし、中国の大気汚染は並外れています。アメリカ政府の大気汚染に対する規制は非常に厳格で、遠からず煙突に対しても施行されるので、製紙業界は「対策に要する投資の法外な負担に耐えられない」と公式に政府に再考を請願しています。

私は中国が環境保護策に本格的に(製紙産業界では一定の年数を経た旧式のマシンの廃棄や、藁や草などを原料とする古い形のマシンの撤廃等を決めましたが)に乗り出して投資をして、そのコストを製品価格に転嫁すると、国際市場での競争力が著しく低下することになる確率が極めて高いと見ています。

中国はある程度の対策を講じるでしょう。しかも彼らは紙類では輸出奨励で助成金を交付しているとアメリカが非難しています。そういう問題も抱えているのですから、私は中国が国全体としてか、各業界別にと言うか、総合的な環境保護対策を早急に講じてくるか否かは中国の判断であり、我々はその成り行きを見守っていく他かないと思っています。


減ったのは何処の国の人か

2013-10-06 10:48:20 | コラム
2013年9月の新宿区の人口:

新宿区役所の“広報新宿”10月5日号は、8月と同じで外国人が230人も減少し33,089人になったと報じていた。このマイナスの数字には何となくKoreatownの沈滞傾向と関係があるような気がする。尤も、今年の5月には1,184人の増加で33,705人だったという記録があったが。

13年9月の区の人口が32万2,802人と、前月比で100人の減少となっていた。8月が7人の増加、7月が238人の減少だったから大きな変化ではない。実は、5月には全体で2,041人も増えていたのだった。

8月と比較すれば、日本人は男女合計で130人の微増で、内訳は男が67人の増加で女は63人の増加だった。外国人は男が140人、女が90人の減少となっていた。

先月から引き続いて感覚的には韓国人も兎も角中国の何処かとイスラム教国からの流入者が相変わらず増え続けていると感じる。何も大久保通りに行かないでも韓国語か中国語以外の言葉で語り合っているアジア系の若い男女が多い。それらはタイとヴェトナム人だという説も聞く。

新大久保駅前の文化通りのハラル・フードを売る店の前には外交官ナンバーの車も異邦人の不法駐車が多い。パキスタン、バングラデシュ、ネパールと覚しき服装の者たちも依然として数多く見受けられる。

9月の新宿区の人口中に日本人が占める率は7月が89.68%に対して89.65%というごくわずかな減少だった。外国人は23人の減少で全体の10.25%で8月の10.318%で、7月の10.32%と6月の10.39%と対比すれば「微減」と言えるだろう。因みに、5月は10.43%、4月は10.13%、3月は10.17%、2月は10.23%、1月は(33,574人で)10.45%だった。


参考資料:“広報新宿” 13年10月5日号

気象病に苛まれた夏

2013-10-06 10:16:59 | コラム
気象病とは:

8月29日の退院以降、今年の夏の酷暑に散々苦しめられた。中でも35度をも超える暑さと、空調した室内の(約26度で湿度は50%程度)との条件の違いが、病み上がりの身体には誠に辛いものだった。どのように辛かったのかと言えば「身体がその急激な変化に対応できず、室内では何時まで経っても身体がほてっており、身の置き所がない苦しさが続くことだった」のである。かと言って急激に温度を下げれば寒さが厳しくて耐えられないという事態を招く。

この暑さも9月が過ぎれば終わるだろうと希望的に考えていたが、何と10月になっても一向に秋には成ってくれず苦戦が続いた。すると、2日だったかにTBSが昼間のニュースショーとでもいうような番組で専門の医師をゲストに招いて「気象病」の解説をしていた。当方無学にして「気象病」というものがあったとは知らず、思わず広辞苑をみてしまった。すると、チャンとあるのだった。

専門の医師の説明は基本的には広辞苑と同じ内容だった。即ち、簡単に言えば「急激な温度(と湿度)の上下の変動は頭痛、ぜんそく、脳梗塞、心筋梗塞、神経痛、自律神経失調症等と関わりが深いというか、招きやすいというものである」となるそうだ。納得であった。私のように精神的に弱い者が大病の後であの気温の厳しい上限の変動にあえば、直ちに対応できなかったために、謂わば自律神経失調症のような状態に至っていたらしいのだ。

これまででも、毎年冬が来れば「この冬を無事に乗り切れるだろうか」、夏になれば「この夏を何とか乗り切らねば」と思わないことはなかった。今年も「この酷暑も残るは半月か」と思った途端に二度目の心筋梗塞に襲われた。その大難関を無事乗り切らせて頂いて退院すれば、今度は気象病が牙をむいてきたのだと痛感した。

そこに去る4日と5日の20度にも達しない寒さが襲ってきた。何事にも影響されやすい当方はこの2日間の寒さに、気象病の恐怖を感じていた。4日には午前中に外出せざるを得ない用事があって厚手の長袖のポロシャツ(という表現は正確か否か知らないが)に冬にも通用するジャンパーを着て恐る恐る出てみた。するとどうだろう、帰途に先日隣の公園で語り合ったオレゴン州ユージーンから来たというアメリカ人に再会した。彼は何と半袖は当たり前だが、Tシャツだけの軽装だった。

この程度の薄着はあの地方ではごく当たり前だと先刻承知しているが、自分との落差に驚きながら暫し語り合って再会を約して別れた。因みに、1993年11月にワシントン州南部(と言っても寒い地域)の工場の連中を宮城県石巻に案内した時にも、彼らは夜食を食べに半袖シャツ1枚で出てきて「心地良い涼しさだ」と言ってのけた。彼らには気象病の悩みなどないのだろうと、今にして思う。

一方、弱虫の当方は十分に20度以下の条件に備えた格好で5日も午前中に短時間外出したが、室内に戻った後も26度60%に馴れるまでに自律神経の調整のために毛布を被ってしまった。そして熱いお茶を飲んで漸く人心地が付いた次第。今では「気象病」なんて知らなければ良かったと悔やんでいる。