阪急阪神ホテルズの社長の記者会見に思う:
あの社長さんは終始一貫「偽装ではなく誤表記だった」と主張して、記者が如何に追求しても立ち上がって頭を下げる所謂「謝罪」」はしなかったのが非常に印象的だった。おそらくご当人は目一杯のお詫びをしたつもりだったのだろう。私は長い間「我が国には欧米諸国にはない謝罪の文化がある」と唱えてきた。だから、彼ら欧米人が"I regret."と言えば最大限の謝罪の表現だとも言ってきた。
しかし、これまでに後難を恐れて言わなかったことがある。それは「謝罪の文化は大きく分けて関東のもので、関西に行けば話が違ってくる」という点である。あの社長は絶対に「我が方に非があってお詫びする」という類いの言質を取られることを言おうともしなかった。日本の会社の時に大阪の支店に勤務したことがあり、W社でも関西文化圏に客先があり、こういう違いは承知していた。故に、あの社長の(不遜な?)態度には何らの違和感を覚えなかった。
これも何度も言ってきたことだが、「アメリカ人かアメリカの会社に向かって潔く"I am sorry."等と言ってはならない」のだ。この表現は学校教育の英語では何でもなく採り上げているように思えるが、その意味は「非は当方にあり、如何なる経済的ないしは精神的な補償に応じます」という手形を切ったことと同じになる」から怖いのだ。これが英語圏の国の「謝罪しない文化」である。
私には「非は当方にあり」と認めることが当人の金銭的な補償を意味するのか、あるいは会社として認める訳にはいかないのかの何れかを確かめたことはない。だが、彼らは、兎に角誤らないので、日本的ないしは関東的に考えれば潔くないし、態度が悪いのである。だが、これ即ち文化の違いであって、謝罪しないからといって彼らが責任を感じていないことはないし、深刻に事態の処理方法で悩んでいることは間違いないのだ。
阪急阪神ホテルズは既にお客様の求償に応じると言ったと報道されていたと思う。これ即ち「済みませんでした」までは認めていることだろうと思う。だからと言って「申し訳ありませんでした。お詫びします」などと記者会見で言ってしまえば「ぐつ悪い」のと違いますか。「追求していた記者もそれくらいは弁えていただろうに」と思いながら、あのニュースを見ていた。
あの社長さんは終始一貫「偽装ではなく誤表記だった」と主張して、記者が如何に追求しても立ち上がって頭を下げる所謂「謝罪」」はしなかったのが非常に印象的だった。おそらくご当人は目一杯のお詫びをしたつもりだったのだろう。私は長い間「我が国には欧米諸国にはない謝罪の文化がある」と唱えてきた。だから、彼ら欧米人が"I regret."と言えば最大限の謝罪の表現だとも言ってきた。
しかし、これまでに後難を恐れて言わなかったことがある。それは「謝罪の文化は大きく分けて関東のもので、関西に行けば話が違ってくる」という点である。あの社長は絶対に「我が方に非があってお詫びする」という類いの言質を取られることを言おうともしなかった。日本の会社の時に大阪の支店に勤務したことがあり、W社でも関西文化圏に客先があり、こういう違いは承知していた。故に、あの社長の(不遜な?)態度には何らの違和感を覚えなかった。
これも何度も言ってきたことだが、「アメリカ人かアメリカの会社に向かって潔く"I am sorry."等と言ってはならない」のだ。この表現は学校教育の英語では何でもなく採り上げているように思えるが、その意味は「非は当方にあり、如何なる経済的ないしは精神的な補償に応じます」という手形を切ったことと同じになる」から怖いのだ。これが英語圏の国の「謝罪しない文化」である。
私には「非は当方にあり」と認めることが当人の金銭的な補償を意味するのか、あるいは会社として認める訳にはいかないのかの何れかを確かめたことはない。だが、彼らは、兎に角誤らないので、日本的ないしは関東的に考えれば潔くないし、態度が悪いのである。だが、これ即ち文化の違いであって、謝罪しないからといって彼らが責任を感じていないことはないし、深刻に事態の処理方法で悩んでいることは間違いないのだ。
阪急阪神ホテルズは既にお客様の求償に応じると言ったと報道されていたと思う。これ即ち「済みませんでした」までは認めていることだろうと思う。だからと言って「申し訳ありませんでした。お詫びします」などと記者会見で言ってしまえば「ぐつ悪い」のと違いますか。「追求していた記者もそれくらいは弁えていただろうに」と思いながら、あのニュースを見ていた。