日本代表サッカーが欧州で二連敗:
当方は時間の制約もあって、これらの2試合のテレビ観戦をパスした。実は本当の理由は他にあって、最早このザケローニ監督が指揮するこのティームには過大な期待が持てなくなったのだった。果たせるかな負け続け、セルジオ越後は監督の交代を主張していると、Yahooニュースで見た。私もある程度以上同感だが、あの弱体振りの責任は選手(の消極性)にもあるし、我が国のサッカーの在り方にもあると思っている。
これまでに何度も指摘し続けたことで、問題点は複数ある。先ずはFWと言うべきかポイント・ゲッター(意識)の不在と言うべきか知らぬが、MLBの野球に見られるような「ここで一発決めてやろう。存在感を見せてやろう」とでも言いたい自己主張ないしは積極果敢さが見えてこない消極性を上げたい。解説者が屡々「あそこで打っても良かったではないか」と言うように「自分でやろう」か「俺がやる」といった喩え失敗しても「責任は俺が負う」との気迫が感じられないのだ。
換言すれば、余程前が空くか、完全にフリーにならない限りシュートに持っていかず、言うなれば責任を取る気がなくて、近くにいる味方にパスしてしまう妙な「パス・サッカー」への執着である。あの姿勢はサッカーが上手いか下手かではなく、「俺がやってやる」という自己顕示欲を養わせなかった我が国のサッカー選手の育て方の問題ではないかとすら感じさせられてしまう。現実には彼らはサッカーが上手いのだから困る。
次は、相変わらず一寸相手のマークが厳しいか、前が空いていないと、折角ディフェンスが苦労して作ったチャンスで絶好のパスを貰っても、惜しげもなく絶好のバックパスをしてしまう弱気というか「俺が、俺が意識」の欠如である。釜本が言っていたが「今の選手たちはキープして相手を抜いてはいけないとは教えられているのか」という「何が何でも安全に」の姿勢を指摘したい。これが4人か3人か知らないが、バックス間での横パスの交換となって、相手のディフェンスが戻ってしまう余裕を与えている結果に繋がっている。あの監督さんはこのサッカーのスタイルを容認しているのだろうか。
当方は今の代表選手たちにはもうこれ以上進化するとか、変化する余地が残っていない気がしてならない。例えば「上手いことは喩えようもなく上手いのだが」とでも言いたい遠藤君などが突然変異を遂げて「鬼神もこれを避ける」というような当たりまくる荒業師になって絶妙なスルーパスではなく「隙あらば遠くからでもシュート」という選手に変わる可能性は限りなくゼロに近いのではないか。
主将の長谷部君が欧州を代表するような「当たりも強く、素早く上がってフリーになってパスを貰ってシュートチャンスを作り出す」可能性も高くはあるまい。GKの川島がマンチェスター・ユナイテッドに招かれるほど進歩するかと訊かれれば「ないでしょう」と言いたくなる。香川君が本田中心に作られてしまったあの混成ティームでドルトムントで輝いたような点の取り方が出来るか否か」も疑問だし、本田が「当たられても強い」以外の褒められ方がどれだけできるのかと言えば、彼の伸びしろももう大きくはないと言わざるを得ない。
即ち、彼らは我々の体力と、身体能力、運動能力としては限界に近いところまで上手くなってと言うか上達して、世界でも戦えるようになって来たことを褒め称えたいのである。だからこそ、私はつい先頃、MLBに行って何もかも磨り減らしてしまって帰国した西岡、福留、岩村を批判したのだ。言語・風俗・習慣・思考体系が異なる世界に入って、自己の能力を最大限に発揮することは容易ではないのだ。
そう思えばこそ、私は日本代表選手たちの上手さを褒めてはきたが、根本的な問題点を指摘しなかったのだ。ザケローニ監督も批判したが、何回でも言えることで「代表選手にまでなった者たちを基本から作り直すことは不可能で、監督の直接の責任ではない。だが、あの監督は今回の連敗を見ても木偶の坊のハーフナーに拘るなどの例が示すようにティーム作りを誤っている」と指摘して終わる。
当方は時間の制約もあって、これらの2試合のテレビ観戦をパスした。実は本当の理由は他にあって、最早このザケローニ監督が指揮するこのティームには過大な期待が持てなくなったのだった。果たせるかな負け続け、セルジオ越後は監督の交代を主張していると、Yahooニュースで見た。私もある程度以上同感だが、あの弱体振りの責任は選手(の消極性)にもあるし、我が国のサッカーの在り方にもあると思っている。
これまでに何度も指摘し続けたことで、問題点は複数ある。先ずはFWと言うべきかポイント・ゲッター(意識)の不在と言うべきか知らぬが、MLBの野球に見られるような「ここで一発決めてやろう。存在感を見せてやろう」とでも言いたい自己主張ないしは積極果敢さが見えてこない消極性を上げたい。解説者が屡々「あそこで打っても良かったではないか」と言うように「自分でやろう」か「俺がやる」といった喩え失敗しても「責任は俺が負う」との気迫が感じられないのだ。
換言すれば、余程前が空くか、完全にフリーにならない限りシュートに持っていかず、言うなれば責任を取る気がなくて、近くにいる味方にパスしてしまう妙な「パス・サッカー」への執着である。あの姿勢はサッカーが上手いか下手かではなく、「俺がやってやる」という自己顕示欲を養わせなかった我が国のサッカー選手の育て方の問題ではないかとすら感じさせられてしまう。現実には彼らはサッカーが上手いのだから困る。
次は、相変わらず一寸相手のマークが厳しいか、前が空いていないと、折角ディフェンスが苦労して作ったチャンスで絶好のパスを貰っても、惜しげもなく絶好のバックパスをしてしまう弱気というか「俺が、俺が意識」の欠如である。釜本が言っていたが「今の選手たちはキープして相手を抜いてはいけないとは教えられているのか」という「何が何でも安全に」の姿勢を指摘したい。これが4人か3人か知らないが、バックス間での横パスの交換となって、相手のディフェンスが戻ってしまう余裕を与えている結果に繋がっている。あの監督さんはこのサッカーのスタイルを容認しているのだろうか。
当方は今の代表選手たちにはもうこれ以上進化するとか、変化する余地が残っていない気がしてならない。例えば「上手いことは喩えようもなく上手いのだが」とでも言いたい遠藤君などが突然変異を遂げて「鬼神もこれを避ける」というような当たりまくる荒業師になって絶妙なスルーパスではなく「隙あらば遠くからでもシュート」という選手に変わる可能性は限りなくゼロに近いのではないか。
主将の長谷部君が欧州を代表するような「当たりも強く、素早く上がってフリーになってパスを貰ってシュートチャンスを作り出す」可能性も高くはあるまい。GKの川島がマンチェスター・ユナイテッドに招かれるほど進歩するかと訊かれれば「ないでしょう」と言いたくなる。香川君が本田中心に作られてしまったあの混成ティームでドルトムントで輝いたような点の取り方が出来るか否か」も疑問だし、本田が「当たられても強い」以外の褒められ方がどれだけできるのかと言えば、彼の伸びしろももう大きくはないと言わざるを得ない。
即ち、彼らは我々の体力と、身体能力、運動能力としては限界に近いところまで上手くなってと言うか上達して、世界でも戦えるようになって来たことを褒め称えたいのである。だからこそ、私はつい先頃、MLBに行って何もかも磨り減らしてしまって帰国した西岡、福留、岩村を批判したのだ。言語・風俗・習慣・思考体系が異なる世界に入って、自己の能力を最大限に発揮することは容易ではないのだ。
そう思えばこそ、私は日本代表選手たちの上手さを褒めてはきたが、根本的な問題点を指摘しなかったのだ。ザケローニ監督も批判したが、何回でも言えることで「代表選手にまでなった者たちを基本から作り直すことは不可能で、監督の直接の責任ではない。だが、あの監督は今回の連敗を見ても木偶の坊のハーフナーに拘るなどの例が示すようにティーム作りを誤っている」と指摘して終わる。