新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

英語教育改革案

2014-09-27 08:32:44 | コラム
文科省の有識者会議が纏めた報告書の改革案をザッと読んだ感想である。

26日に有識者会議が英語教育改革案の報告書を発表したと報じられた。「改革すべし」というのは当方と志を同じくする先生方が唱えていたことなので、表面的には結構なことかと思っている。

その内容を見れば「英検やTOEFL等の資格試験を有効に活用する為の協議会を設ける云々」とあった。私の素朴な疑問は「何故TOEICが入っていないのだろう」だったが。この案では矢張り小学校からの英語学習が強調されている模様で、3~4年では週に1~2コマで、5~6年では正式な学科として3コマにするとあった。私が長年反対を唱えていることの一つだ。

私が主張する英語の学び方は要約すれば「中学の1年からで十分であり、その先では誰彼の別なく強制する必要などない。各人の目標ないしは目的に従ってさらに上の次元の英語を学びたい者だけが上級の課程に進めば良いだろう」である。何れにせよ、もしも現在の「科学としての英語」を教え続けるのならば、如何なる視点から見ても再考の余地がありはしないか」というところだ。

私はこの案を見て「有識者方のご意見は、数年前に別な名称で組織されていた会議の委員の方から承ったものとほとんど同じであり、この度の有識者方のご意見も英語とその教え方を真に理解されて唱えておられないようだ」と感じさせてくれた。突き放した言い方をすれば「現在の科学としての英語と同じ教え方で改革案を進められて、果たして良い結果が期待出来るのでしょうか」なのだ。

英語が国際語のようになってしまった現在では、その英語で自由自在に自分の思うところを表現出来るような人材の育成は確かに必要だろう。しかし、万人が㋞の次元に達する必要はないだろうと思う。我が国では遺憾ながら従来の教育法では芳しい結果が出ていなかったのではないか。そこで改革しようというのも尤も至極だ。

しかし、勉強を始めるのを小学校の中学年(?)にまで繰り下げるのが真の改革なのかなと、私は単純に疑問に感じている。

英語の発想は日本語とは違っている

2014-09-26 08:49:47 | コラム
英語は日本語とは発想が違う点にご注意を:

私はこれまでに何度も日本と英語圏との文化の違いと思考体系の違いを弁えておくことが、色々な意味で必要だと説いてきた。また日米の文化比較論も採り上げてきた。

そこで今回は彼等が使う英語の表現が屡々我が国の学校教育の英語と異なる場合があるので、その違いがどのなものかの例を幾つか挙げていこうと思う。

先ずは1972年8月に胸躍らせて生まれて初めてのアメリカ行きで、今はなきPANAMでに乗ってサンフランシスコに向かった時のことだった。その機内で知り合ったアメリカ人にアトランタへの乗り継ぎ便を待っている間に、未だ時間があるから”I’ll buy you a drink.”と言って誘われた(のだろう)。実は”buy you ~”は初めて聞く表現で、聞いた瞬間には何のことか解らなかった。しかし、多分「何かを誘っているのだろう」と解釈して”Thank you.”と言ってついていった。行く先はバーだった。

バーに入って解ったことだったが、”buy you a drink”は「一杯奢るよ」ということだったのだ。その頃までの私の語彙には「奢る」は”treat”しかなかったので、言わば新鮮な驚きだった。理屈をいえば、彼等の思考体系では自分が主体であるから、「俺が一杯買うよ」となるのかななどと考えていた。それ以降も”treat”が「奢る」という意味で使われた例には余り出会っていなかった。

次なる例は少し衝撃的だった。1970年代後半だったと記憶する。冬場にワシントン州シアトル空港の前のホテルに泊まっていた時のことだった。この地方には珍しい大雪が降った為に、朝6時半頃にホテルの建物の外側に出た形でついているガラスのエレベータが、寒さで凍り付いて動けなくなってしまった。私は偶々早めに降りていたので寒さの中での宙づり難を免れたが、部屋に戻れなくなってしまった。

すると、そこには「”service elevator”(荷物等の運送用)を使って下さい」との掲示が案内図とともに出ていたが、その図が極めて解り難かった。それを見た宿泊客の1人が掃除の女性に「何処か」と尋ねた。私も聞きたかったことだった。その説明は我が国の学校教育からすれば、言わば想定外の表現ばかりだったので忘れられなかった。それは、

“Go down the hall way as far as you can go and take a left. The elevator is on your left-hand side. You will never miss it.”
だったのだ。

ある程度以上所謂意訳をすれば訳せば「この廊下を突き当たりまで行って左に曲がって下さい。エレベータはそこの左側にあります。直ぐに解りますよ」となるだろう。ここで私にとって興味深かったことは「突き当たり」が”go straight on to the end of this corridor”ではなく、「行けるだけ行って」で”as far as you can go”だったことと、「左に曲がる」が”turn to the left”ではなく”take a left”だったことに加えて”You will never miss it.”で結ばれていたことに見える発想の違いだった。

即ち、私はごく普通に我々が思い浮かべるだろ英文では、

“Go straight on to the end of this corridor and turn to the left. The elevator is on the left side of the corridor. You will find the elevator for sure.”

辺りになるのではないかと考える。言うまでもないが、この表現でアメリカ人は間違いなく理解するだろうし、文法的にも何も全て正確で何ら問題がない。しかし、もし問題ありとするならば、我が同胞がこのような発想の違いが歴然とした表現に出会えば、瞬間的には「何のこと?」と迷ってしまうこともあるかと懸念する辺りか。私はこの”as far as”と似たような発想から来たと思う「~を端から端まで歩いた」を”walked the length of ~”と言われて当惑させられたことがあった。

ここで申し上げておきたいことは、勿論文法を正確に守ることは重要なことではあるが、英語には日本語とは明らかに発想が違う表現法があると承知して置いて頂きたいということだ。そして、「英会話」などをされる時にはに堂々と学校教育式表現を使われて結構だし、アメリカ式発想の表現を取り入れる場合であっても、常に文法が正確であることを心掛けて頂きたいということだ。

私の英語論を総括すれば

2014-09-25 15:49:35 | コラム
私の英語論を振り返ってみると:

私が英語論というか、我が国における英語の在り方、私が見る学校教育の英語の問題点、私の「科学としての英語」ではなく”English”についての持論等を本格的に論じるようになって20年も経っただろうか。その間にバラバラに時によって各論を展開してきたことと(また反省したかのように言えば)私の表現が拙かった為にか、多くの方から私の意図とは相容れないご批判と反論を頂戴した。

それらの中には私の意図を十分にご理解頂いていないのではと危惧する批判的な論調もあった。そこで、今回はあらためて私の英語論を極力手短に総括して、何とか私の意図をご理解願えるように述べていこうと考えた次第だ。

英語の勉強と会話の能力:
私は我が国では、こういうことは万人に押し付ける必要がないと思っている。本当に英語力または自分の思っていることを英語(あるいはEnglish)で表現出来るような力は、それを絶対的に必要とする職業や学問や仕事を選択された方が、英語圏の国々との文化の違いまでを弁えて、正しいと言うか、より目的に叶った方法で学べば良いだけのことだ。そういう必要に迫られている人が我が国にどれほどいるのかという問題を考えてかかる必要があるだろう

支配階層の英語:
私はこの次元の英語を学ぶというか知る必要があり、万人がその次元を目指して学ぶべきだとは主張するものではない。私は偶々転身した先のアメリカの会社ではそういう英語が出来る能力を求められており、知らず知らずに間にそれに適応出来たのであって、始めからその次元を目指していたのではない。幸運にもそれに対応出来る基礎が出来ていただけだ。

万人がその辺りというかアメリカや海外の会社を目指す必要も又ない。私は1994年1月のリタイヤー後に10年を経て知り合った仏文学のTK博士にそう指摘されて初めて「そうだったのか」と意識しただけのことだ。アメリカではアメリカを支配している人たちは全体の精々5%見当で、その富を握っている人たちよりは多いくらいであろう。故に、私は多くの同胞がその層のアメリカ人と交流する機会は極めて希だろうし、その次元というかその域を目指す必要がないと唱えるのだ。

目標の設定:
ここで指摘しておきたいことは、どの階層と交流する為の英語を目指して勉強するのではなく、文法を正しく覚え、自分にとって適切な語彙を習得し、可能な限り正しい発音が出来るようにすること等の基本というか基礎を築くことを優先すべきだと思う。「会話」等という技は基礎がキチンと固まっていれば、イヤ固めることに努めれば、その上にその力が自然に備わっていくものと心得て置いても良いだろう。どの階層か等ということは、チャンと基礎が出来た後で考えれば良いことだ。

どの次元か:
これは支配階層のそれから、先頃例として採り上げた”Every years, I take vacation two month, you know.”や、「単語を並べただけ」等々の種々の段階があるだろう。そのどれを選択されるかには私は介入する意志はない。ご自分で選択され「これで十分」と思われる次元に達するよう努力されれば良いことではないか。しかし、可能な限りより高い次元を目指しておかれて、満足出来た時点で落ち着かれたら如何か。換言すれば「可能な限り易きにつくな」となるだろうか。

教養ある人の英語:
これは音声学の権威でご自身も美しいQueen’s Englishの発音をされ、American Englishを下品だと切り捨てられた千葉勉先生が指摘された「文法を守れず、連結音とR-likingを知らないようでは、英国(UK)では無教養と見なされるの厳重に注意せよ」と指導されたことから引用しているのだ。この教訓はアメリカの大手企業内に入っても全くその通りだったのには、寧ろ驚かされたものだった。我が国の学校でもこの原則に従った教育を施す方が無難だろう。

音読と暗記と暗誦:
これは私が偶々実行した中学から高校にかけての勉強法である。そこには単語帳は作らない、英文和訳はしない、英作文は重要視するが学校での教科とは違う形だった、知らないか解らない単語に出会えばその都度辞書を引いて文章の流れの中で使い方(意味)を覚える等の独自の方式が含まれていた。ここには何ら科学的根拠はなく、学校の方式よりも楽に英語が解るようになって行っただけだとの実績があった。

最も良かったと自負していることには「音読・暗記・暗誦の結果で文法的に誤った表現が口から出てこなくなったこと」を挙げたい。この方式は私だけで成功した訳ではなく、中学生の家庭教師、社会人への個人指導でも成果が上がった。

GHQの秘書の方に指導されて話せるようになった:
これは確かに特殊な例かも知れないが「英語のままで考えて、日本語にしようとするな」、「これから話そうとすることを日本語で思い浮かべてから英語に訳そうとしてはならない」、「話しの間に”you know” を挟むな」、「言葉に詰まったら”let me see.”か”Well・・・.”と言って繋ぎなさい」という類いの基礎で、会話での方法を主として学んだのだ。これらはアメリカ人の中に入っても活かすことが出来た貴重な教訓だった。このことと学校での勉強とは無縁ではなかった。これを私は幸運と振り返っているのだ。

以上のような項目に纏められると思う。何方かがエリート教育を受けたと批判されたが、見当が違うと思う。私は確かに音読・暗記・暗誦というやり方で進んできた。この方式はもしかして簡単であるかのように聞こえるかも知れない。だが、決してそうではないし、これだけに依存して今日がある訳ではない。そこを語っていないだけで、中学から大学までの通じて試験90点以下が2度しかなかった実績の背景には、それなりの他のやり方も使って学ぶことがあったと申し上げて終わる。

私を悩ますパソコン

2014-09-25 08:23:17 | コラム
「後期高齢者にはICT化の時代は辛いぜ」というのが偽らざる心境だ。

昨今、我が電子計算機(ジーニアス英和には未だにこの訳語が載っている)には幾つかの問題サイト(で良いのかな)が飛び上がってきていた。先ずはMicrosoftを騙ったもので、確か「Internet Explorerが間もなく仕様変更になるので、ここをクリック云々」との英文が出てきたのだった。悲しいかな英語を多少読めるのでそうかなと信じて読み進むと、途中から英語の表現が怪しくなってきたので、佐藤氏に次いで愚息に問い合わせた。

結果的には両方の診断が一致して「インチキ」だったので削除して難を免れたのだった。佐藤氏は専門的知識があっての判断だったと解釈したが、愚息は「マイクロソフトには日本法人がある以上、英文で通告することはあり得ないだろう」と判断していた。毎度のことながら「老いては子に従え」だった。

次ぎもマイクロソフト関連で、ここ1~2ヶ月ほど不定期に「PCの機能が低下しています。修復にはここをクリック」というのが “Microsoft partner” との名義で飛び出してくる。このPC音痴の私でも聞いたことがない名義人と思って消していた。念のため佐藤氏に教えを乞うたところ「絶対にクリックしないこと」との指示があった。どうも敵はこちらがカモと思って狙っているのかと、真剣に疑っている。

願わくは、トレンドマイクロでも何処でも良いから、現時点で横行しているインチキな案件を何処かに掲示板でも設けて調べることが出来るようにしてくれれば良いのだがと考えたこともあった。だが、良く考えれば「そういうインチキなサイトを作られれば・・・」ではないかと気が付いて、この折角の名案をボツにした。

また先週は危険かも知れないとは思いつつも、有償で自分のパソコンの画面を外部で操作してのダウンロードを経験してみた。冒険というか無謀だとの誹りもあるだろうが、そういうことが可能であることを実際に自分で経験してみたかったのだという単純にして、本当の英語の意味である「ナイーヴ」な好奇心的な動機で、試みた次第だった。無事に終了し、不都合なことは起きていないと信じている。

最後に、今月の12日には突如として Windows 8.1をダウンロードしなさいと出てきたので、何ら疑うことなく開始した。何の根拠もない見込みでは精々1時間半くらいで終わると期待していた。だが、午後2時頃に始まったダウンロードは延々3時間半に及び、1時間を過ぎても一向に進まないので非常なる不安に襲われた。そこで、思わず佐藤氏に「これで良いのでしょうか」と問い合わせて「長時間を要する作業」と教えて頂けた。

結局この日は不安と怖い物見たさでPCの前を半日離れられず、PCを使えなくなったのだが、リタイヤー生活である私にはさほど痛くはない。だが、現職で働いておられる方々はどうされるのかと思ってしまった。尤も、画面上には「裏で作業出来る」とも出ていたが、通告に驚き慌てふためいていたので、その告知を無視してしまったのだった。

結論めいたことを言えば「PCという文明の利器には有り難い面も多々あるが、上記のようにコインの裏側には私を悩ませてくれる点も数多くあるもの」辺りが実感である。

念のため申し添えておけば、私が止むを得ぬ事情から、それまでは忌避し抵抗し続けていたパソコンを導入せざるを得なくなったのは、70歳の後半だった。2003年のことである。それが今や「毒を食わば皿まで」の境地には入ってブログまで手を広げた始末だ。

最近のニュースから

2014-09-24 07:38:28 | コラム
近頃一寸気懸かりな幾つかのニュース:

*先ずは仁川のアジア大会。産経は穏やかに大会運営の不備と表現していたが、バドミントンの会場で空調を断続的に効かせた為に風向きが変わって日本代表のエースが格下の韓国選手に負けた由だった。思うに、産経は先頃の記者の出国禁止の拘束もあってか、憶測ではない報じ方をしたと思って読んだ。私の憶測が何であるかをここに記す必要はあるまいと思う。余談だが、水泳会場に大会に出場中の韓国の有力選手の個人名がつけられているのも凄いと思った。

*次は愛知県豊田市で行き過ぎた砂利採掘で、県道その他が崩落の危機に瀕している件。驚かされたのが、テレ朝のレポーターの取材に工事業者が「採掘しているのではなく、埋め戻し中だ」と答えたこと。あの場を何処から土を運んできて埋めるというのか。テレ朝は「グランドキャニオンのようだ」と形容したが、あそこまで掘り進む前に阻止出来なかった県と市に責任はないのだろうか。

それもさることながら、私が気になったのは1年ほど前だったことがあった。それは、かの佐藤優氏が講演で「我が国のコンクリート用の砂利不足は深刻で、現状のままに推移すればオリンピックの工事にも支障を来す」と指摘したと聞いたことだった。佐藤氏は不足を補う手段は輸入しかないとまで言ったそうだ。それは何処の国からになるのかな。尚、他に深刻に不足状態にあるのは建設工事の要員ではないか。

あの豊田市の状態を見れば、最早あの場所をあれ以上掘ることは物理的にも極めて難しいだろうと感じる。都内を見渡しただけでもマンション建築が至るところで行われている。我が家の近くでも11階の賃貸アパートが2ヶ所、26階の高層がほぼ完工し、ここから見える範囲内でも未だクレーンが上がっている高層が工事進行中だ。この状況では、オリンピック用の工事が始まる以前に砂利の供給源が消滅するのかなと思わせてくれる勢いだ。

舛添都知事はオリンピックの規模縮小や国立競技場の設計の手直し等を言い始めたが、それで済むような問題にならないことを祈っているだけだ。

*デング熱が未だに治まらないことも気になるが、海外に目を転じればイスラム国が一層凶暴の度を増しているのも深刻な問題だと思う。私は以前からオバマ大統領の優柔不断さを批判してきたが、このイスラム国の出現と堂々と誘拐作戦を公言する辺りには、大統領の不手際が一因であると批判されても仕方がないのではないかとすら考えている。欧米と中東諸国が如何にこれ以上この件が重大な国際問題というか、紛争に進展しないように阻止出来るかに注目したい。