新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月28日 その2 さくらももこさん逝く

2018-08-28 16:51:28 | コラム
正直なことを言えば何のことかまるで解らなかった:

28日は朝から各テレビ局を始めとして新聞も総出で、さくらももこさんの早すぎる死を悼んでいた。正直に申し上げて私には何処で何をしておられる方の訃報なのか全く見当も付かなかった。だが、余程この世に多大なる影響力をお持ちの偉いお方だったらしいという見当は付いた。

しかし、時間が経って漸くはっきりしてきたことは、女性の漫画家で「ちびまる子ちゃん」とやらを発表していた、さくらももこさんが亡くなった点だった。それでも何故あれほどメデイアが騒ぎ立ててその死を悼むのかは理解できなかった。そして、更に解ったことは「歌うポンポコリン」だったかの変わった歌がその漫画の主題歌だと聞かされて「なるほど、あの奇妙な歌だったか」だった。

私は元々漫画なるものに全く興味も関心もないので、その漫画家にどのような人物がいるのか、またはいたのかとうの知識は余りない。「巨人の星」という理論的に破滅していたような漫画があったのは知っていたが、誰が著者だったかと聞かれれば「知らなかった」と答えるしか出来ないほど無頓着だった。私が子供の頃に親しんだ漫画と言えば横山隆一の「ふくちゃん」と田河水疱の「のらくろ」くらいのものだ。長谷川町子の「サザエさん」も承知していたが、あんなものを好んで読むのは英文学科卒の名折れかとすら考えたことがあったほど偏向?していた。

私は現在のように漫画というかアニメーションものがあれほど普及し、その作家たちが崇め奉られるのも時代の流れとその変化の一つであろうかと思って、否定する気にもなれずにただ眺めている。だが、本心を言えば、何となく嘗て大宅壮一が指摘した「一億総何とか化」にも似た現象のようにも思えてならない。さらに、その種の作品が大ベストセラーになってしまう傾向を何となく情けないなという気もするのだ。そして、これはもしかすると「俺は時代遅れの哀れな老人なのか」とすら感じる時もある。

もっと言いたいことを言わせて貰えば、映画やテレビドラマ(見やしないが)の原作が何とかいう漫画が原作だなどと報じられるのを見て「矢張り情けない世の中になったらしい」と嘆き、独り密かに我が国の行く末が危ういななどと、何の根拠もなく憂いているのだ。私のこういうものの見方は間違っているのだろうか。何方かご教示願いたいもの。


データ改竄報道に思う

2018-08-28 14:07:07 | コラム
何を以て改竄とするのだろう:

近頃、我が国を代表していないまでも、歴とした一部上場企業が製品のデータを改竄して(需要家に提出して?)いる場合が多いとマスコミに大いに非難され批判されている。本当にそういうことが行われているのならば、誠に怪しからんことで企業の倫理に悖ることだと思わせてくれる。私は我が国のような生真面目でお固い国の会社がやることではないと思っているし、世界に誇る我が国の製造業の道徳観念も劣化したのかと残念に思って、こういう報道を聞いていた。

だが、20数年もアメリカを代表する製造業、それも所謂装置産業の業種に身を置いていた者から見れば、一体各社はその製品の製造工程の如何なる時点でのデータを改竄したのかは、マスコミ報道では一向に見えてこないと思って聞いていた。また、そのデータなるものを受け取られた、恐らく最終需要者との中間にあるだろう加工乃至は最終製品製造業者は「データ」を如何なる目的で、どのように活かすつもりで取っているのかもまるで見えてきてはいなかったと思う。

製紙産業しか知らない私の立場からいえば、工場では抄紙機(簡単にいえば何十メートルもあるワイヤーの上を水分ばかりのパルプが流れて段々に紙の形になっていくのだが)の上で流れていく紙料を概ね上から計測して、それを機械の傍らの部屋で係員がバラツキが出ていないか異常がないかをメーターを見て監視しているのだ。ここでもデータは取られている。

また、紙が出来た後では検査室で精密なデータを取る為に一定の間隔を置いて30 cm見当の紙を数枚切り出して、係員が精密にあらゆる物性値を計測している。これもデータだ。もしも大いなる異常値が出ていれば、その紙片を切り出した当該品を格下げにするのである。

我が社の抄紙機はかなりの時代物だったので、昨今の新興勢力が導入する最新鋭の超高速マシンではないから日産能力は精々700 ton 程度である。中国などで導入している最新鋭機は1,500 ton ほどをアッサリと生産してしまうのだ、念の為。我が社ではその700 ton ほどにポリエチレンラミネート加工を施した巻取に仕上げて出荷するのだが、その数は精々600本ほどになるのだろうか。言いたくはないが、その600本全ての物性値のデータ表など作成する訳がないのだ。

だが、我が国のみならず、多くの中間の業者も、時によっては最終製品の需要者も「データ」を求められるのだ。ご尤もであると思うこともある。だが、紙などという製品はそもそもが生きているものだった材木を切り出してその繊維を水を媒介にして紙に作り上げているのであって、巻取にして1本で1 ton 強の重量になっている紙の物性値が何処を取っても均一で変動がない事などあり得ないのである。だが、その数値は誰が加工しても問題を生じない範囲内に収まるようにスペシフィケーションズが出来ているのだ。

我が社で1980年代初頭まで技術サービスマネージャーを勤めた経験豊かな(カタカナ語で言えば「ベテラン」の)技術者はある時に比較的にものが言いやすい製紙を良く理解している需要家の工場の幹部との会議中に次のように言ったのだった。良くお読み願えば解るが、非常に思い切ったことを言っていたのだった。

「当社の工場では1日に700 ton も作ってしまう。その700 ton の紙の物性値を何時何処で測ったものを一表にして出せというのか。または600本全部のデータ表をくれというのか。または、600本の中の1本か2本のデータが600 ton 全体を代表するとでも思うのか。もっと極端に言えば、1本の巻取の中でも計測する場所次第では物性値が変わることだってある。貴方たち需要家は600 ton の何処かに僅かな物性値のバラツキがあれば、600 ton 全体を不良品とでも見做してクレームする気なのか」と。

良く考えれば、余りにもむき出しの言いたい放題のような議論を吹っ掛けたような言い方だった。だが、相手は製紙会社の事業部の管理職だったので、穏やかに理解して貰えた。私が言いたかったことは「データと一口に言うが、データとはこういうものであり、それをどの時点でどのように改竄したのか」という疑問なのである。予めメーカーとユーザーの間で合意していたスペシフィケーションズを勝手に改竄したのであれば、それは怪しからん行為だと思う。

でなければ、予め高めにスペックを設定していたのであれば、多少低めの物性値が出ても加工乃至は製造上で問題が生じないと判断して改竄したと言うこともあったのかなとも一瞬考えた。これだって決して許されざる所業ではあると思う。私はただ「改竄」と聞かされただけでは、何をどうしたのかは判断しようもないし、良いのか悪いことをしたのかも解らない。ましてや記者さんたちが何処まで突っ込んで取材できたかなどなもっと解らない。最終製品に不良品が出たのかも詳しく報じられていなかったと思う。

如何なる意図があってあそこまで大きく採り上げて、毎度お馴染みの誰が誰に向かって何の為に謝罪しているのかも不明で、謝罪の文化が存在しない外国人に「何の為の謝罪会見か?」と皮肉を言わせたい為の「改竄報道か」と思わずにはいられないマスコミの姿勢には、違和感のみである。彼らに「データとは何を指すのか」が解っていないとしか思えないのだが、私の誤解だろうか。矢張り、マスコミ批判になってしまった。


マイクロプラスティックス問題

2018-08-27 15:14:20 | コラム
マイクロプラスティックは公害なのか:

近頃この件が方々で採り上げられて問題とされているので、どのような物質を称しているのかをWikipediaに訊いてみた。簡単に纏めてみるとこのようなことになるようだ。

>引用開始
環境中に存在する微小なプラスチック粒子であり、特に海洋環境において極めて大きな問題になっている。一部の海洋研究者は1mmよりも小さい顕微鏡サイズのすべてのプラスチック粒子と定義しているが、現場での採取に一般に使用されるニューストンネットのメッシュサイズが333μm (0.333 mm) であることを認識していながら、5 mmよりも小さい粒子と定義している研究者もいる。
・海洋生物がマイクロプラスチック自体と、それに付着した有害物質(PCBやDDTなど)を摂取し、生物濃縮によって海鳥や人間の健康にも影響することが懸念されている[5]。科学的な検証・検討は途上であるが、発生を減らす取り組みが始まっている。
・特に海洋ゴミなどの大きなプラスチック材料が壊れて段々と細かい断片になる結果、環境中に形成されたマイクロプラスチック(いわゆる"二次マイクロプラスチック")。この崩壊をもたらす原因は、波などの機械的な力と太陽光、特に紫外線 (UVB) が引き起こす光化学的プロセスである。
・家庭での衣類の洗濯による布からの合成繊維の脱落。下水道に流れ込む洗濯排水中のマイクロプラスチック粒子と環境中のマイクロプラスチックの組成との比較により、1 mm未満の粒径のマイクロプラスチック汚染の大半が脱落した合成繊維から構成される可能性があることが示唆されている。

<引用終わる

そういうことかと納得もするが、我々人類がすることか、してしまったことの結果が、かかる事態を引き起こしていることを見れば、果たして我々の知恵と学問と研究と技術の進歩と発達が創造した物が、賢明な発明であったのか愚かな所業であったのかが、俄に判断できないという気さえもしてきた。

戦後数年を経て塩化ビニルなる石油化学の産物がこの世に現れた時には、我々はその素晴らしさを賛美したものだった。私の記憶では塩化ビニル製のベルトを貰ってその美しさに見とれていた。誇らしい思いで学校にして行ったものだった。それ以降塩化ビニル製品が街に増えるようになって行き、何時の間にか全ての石油化学が産み出す合成樹脂製品を「ビニール」と一括りに呼ぶようになってしまった。言わば、私が忌み嫌うカタカナ語の走りだったのだ。

今や、家中の何処を見回してもプラスティック製品ばかりである。いや、どれが合成樹脂製品でどれが木製で、どれが金属製品かの見分けが難しくなってしまったとすら言えるかも知れない。また、街に出てみれば、何処に行ってもPETボトルが遍く普及しており、嫌でも目に入ってくる。それどころか、そこいら中にPETボトルの空き瓶が捨てられていると言ってもそれほど誤りでは無いかも知れない。

我が国ではゴミの分別回収がキチンとおこなれているので、PETボトルはリサイクルに回されていると報道されていたが、近年では回収されてもリサイクルの能力が追い付かないほど空き瓶の回収が増えてしまって、中国等に輸出して切り抜けているとも言われるまでの事態になっていたそうだ。ところが、その中国もアメリカからの故紙の輸入を「選別が杜撰であり受け入れがたい」と拒否するようになったほどで、PETの受け入れも拒むようになったとも聞いた気がする。

合成樹脂製品は確かに再生原料として使えるのだが、現在の我が国のように内需の不振が続けば再生品ではなくとも(如何なる製品でもと言えるかも知れないが)需要が伸びない時代になってしまった。それに、経験上も言えるのだが、明らかに合成樹脂製品で再生されたと思える品物は劣化が早いし壊れやすい欠陥があると思う。それに、我が国にも公徳心に乏しい者がいるようで、勝手に道端でも河でも海にでもPETボトル等のプラスティック製品を捨ててしまうようなのだ。

それだけが原因ではあるまいが、海にマイクロプラスティックが著しく増えてしまい、ある研究者が特に我が国を取りまく海ではマイクロプラスティック濃度が他国よりも高いという調査の結果が出ていると語っていた。大きな問題であるとの指摘だった。結局は自分で掘った落とし穴に落ちたのと同様の事態を招いていると聞こえた。言うなれば、自縄自縛のようだとも聞こえた。

私が今後の大きな課題だと思うことは、我が国だけではないことで、今更合成樹脂製品を使わないで過ごせるかという点である。そういう分野には大手の化学品メーカーが全世界的に数多く進出しているし、恐らく多くは装置産業で「そうですか、マイクロプラスティック問題があるのですか」と言って、安易に機械を止める訳には行かないと思って見ている。また、如何に廃品回収の機構を整備して回収しても、リサイクルの能力が追い付かないのであれば、これも大きな障害となる。

それに中部大学の武田邦彦教授のように「古紙のリサイクルでさえ、それに消費するエネルギー等々を考える時に経済的な意義があるのか(誤ったカタカナ語で言えば「メリットがあるのか」となる)と言われている。嘗てW社の我が事業部では州知事の依頼で州内で使用済みの牛乳パックと紙コップを可能な限り回収して再生パルプにする試験的なプロジェクトを手がけたことがあった。

その結果は無残なもので、使用済みの牛乳パックと紙コップを再生してパルプにする設備を常にフル回転させて採算が取れるようにする為には、遙か南のカリフォルニア州と東というか内陸になるアイダホ州の先までトラックを走らせないと原料が間に合わないと判明したのだった。指揮を執った副社長兼事業部長が州知事にに提出した報告書には「結局、我々はトラックの輸送費を再生する事態に陥った」と記載されていた。州知事がこの事業を諦めたのは言うまでもないこと。

やや話が脱線したかも知れないが、再生可能なと言うか最終製品を原料に戻せるという「リサイクル」が可能だということは必ずしも事業としての経済性というか効率を伴っていないということ。だからと言って、公徳心を忘れて無闇にその辺に捨ててしまえば現在問題となりつつあるマイクロプラスティックの害を招いてしまうという教訓にもなっているのだ。私にはここから先に如何なる手段を採るべきかなどは解らないが、重大な問題であるのは間違いないことだと思う。

終わりにカタカナ語排斥論者として一言述べておけば「マイクロプラスティック」の英語表記は microplastics であり、本来は「マイクロプラスティックス」であるべきだった。と言うことは「プラステイック」も正しくは「プラスティックス」だったのだ。

参考資料: Wikipedia


8月26日 その3 東京メロンパン

2018-08-26 16:13:02 | コラム
有名店が大久保通りにも進出していた:

1ヶ月ほど前だっただろうか、「もしかして人気店だったのでは」と思ったパン屋が大久保通りに狭い間口の店舗を構えていた。それはJR新大久保駅よりも北の方角になる、何度か紹介したネパール人が「中国からの留学生が多く客種が悪くてレストランや食品店の開業には不適」と切って捨てた地域である。何度かその店の前を通ったが、ついぞ誰か買っているのを見かけた記憶がない程度の人気だ。兎に角流行廃りが目立つ地域なのだが、家内とは「一度は買ってみないと」とは言っていた。

本26日は36度の猛暑とは承知していたが、買ってこなければならない物があってその「東京メロンパン」の近所まで出掛けた。兎に角暑かった。目的を終えて初めてメロンパン店の値段を見れば¥190とやや高めの設定だった。余程自信があるのかと察した。勿論、店内を見ていたのは私だけだった。だだ、折角暑さに耐えてここまで来たのだからと、メロンパンを2個と本日のサービス品というブルーベリーパイを1個買って帰ってきた。

そしてあらためて「Tokyo Melon Pan」を検索してみると、都内にかなりの数の店舗を構えており、中には「近所にこのパン屋が出店してくれて有り難かった」などという書き込みすらあった。と言うことは、大久保通りを我が物顔で歩き回っているアジア人どもは、誰も出店に感謝はしていない模様だ。矢張りネパールのプレムさんは慧眼だったようだと思わずにはいられなかった。

さて、家内との試食である。ブルーベリーパイは月並みだった。メロンパンは忌憚のないことを言えば「¥190も取ればこのくらい美味くて当たり前だ」という程度だと思う。そもそも高級な食材ではないものなのだから、食べて感動する性質ではないだろう。それに、若い女性の店員の態度もかなり教育不足でぶっきらぼーだったのは、何か錯覚を起こしているのではないかと思わせてくれた。だが、\190に対してきついことを言うのも大人気ないか。ところで、中国の若者やイスラム教徒はメロンパンを好むのだろうか。そこが問題では。


8月26日 その2 偏ったアジア大会の中継放送

2018-08-26 10:53:23 | コラム
個人競技の種目ばかり:

元々、私はアジア大会は世界的に見て、言うなれば「2部リーグの大会」だと認識しているので、懸命にやっておられる選手諸君には申し訳ないが余り関心がない。本当の意味での1部リーグのテイームはと言えば、メダルとやらの数からしても中国と我が国になるだろう。韓国はどうなのかと問われれば、あの国は2部のリーグ戦を国を挙げての選手育成と意地と、我が国に対する歪んだ敵対意識で勝ち抜いて、目下のところは1部入りをかけての入れ替え戦待ちの状態だと思っている。

兎に角、TBSは個人競技ばかりの血道を上げているので、団体競技の結果はテレビのニュースか翌日の新聞で見るしかない。昨日と本日などは早朝から(現地時間6時だったか)から開始された男女のマラソンをNHKまで加わって放送している。これには多少以上意義はあると思っている。私はインドネシアは97年に2度出張した経験があるだけだが、ジャカルタの暑さは当時では堪えた。現在では我が国の方が熱いと言っている報道もあったが、東京オリンピックに向けては格好の学習の機会だろうから。

い言い方をすれば、オリンピックともなればアフリカ勢が抜群の身体能力と体そのものの強靱さを示して、恰もオリンピックの名を借りたアフリカの優位性を誇示する大会の如きとなる種目が多い。だが、アジア大会ではバーレーンがアフリカで代表になれない者を帰化させて陸上競技のトラックや長距離の種目に出してくるのが目立つ程度だ。だが、我が国だってケンブリッジ飛鳥君もいれば200 mにも同様な走者がいた。これも時代の流れだろうとは思うが・・・・である。

何れにせよ、我が国代表選手たちが一層奮励努力して1部リーグの貫禄を示してくれれば良いのだと思っている。ではあっても、13億の人口から選ばれて鍛え上げられてくる者が中心の中国に対して、1億2,000万人の我が国の選手たちが戦うのは容易ならざる業ではないかと思う。しかも、それに加えてあの各種目の上部団体の不手際はどうしようもない。「パワハラ」などという刑事上の罪でもないもの創り出して某強化本部長を解任した競技の結果は惨憺たることになっていた。

この責任を負うべきは誰なのだろう。スポーツだけしか知らず狭い狭い世界で生きてきて大人か老人になってしまった連中を好い加減に退治したらどうだ
。それに何時も中途半端で煮え切らないことしか言えない何とか庁長官も何とかならないのかと言いたくなってしまう。