新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月18日 その2 英語という言語の悩ましさ:

2018-08-18 18:15:29 | コラム
英語では発音に品格が求められる:

導入部:
当たり前のことだが、英語圏の国のような下位層がないわが国でも日本語にも出自というか家柄、育ち、環境、職業、社会的地位、地方等によって言葉の品格が云々されることがある。しかしながら、アメリカ社会におけるほどの厳しさというか煩さは存在しないと思っている。だが、我が国には「お里が知れる」という言ってみれば「差別」するような言い方があるのも事実だ。今回はその辺りを英語では怒鳴っているかを考察してみる。

私は我が国で何故あれほど英語を尊重するというか有り難がる傾向があるのかと、何時も不思議なことだと悩み且つ考えさせられている。思うに、戦後間もなくは英語が出来るというかアメリカ人と話せるような能力があることに、現代では想像できないほど価値があったのだからかも知れぬとも思っている。それだけではなく、進駐軍即ちアメリカとアメリカ人を仰ぎ見るような傾向があった為に、何とかして英語が使えるようになろうといったような願望というか憧れがあったのは否定できないと思う。それが、あれ以来70有余年を経た今でも、その当時の傾向を引きずっているのだとも言えるとすら考えている。

そういう傾向があったから、学校教育の英語と一般的な流れとして、あれほどQueen’s Englishを有り難がる風潮がありながら、進駐軍の(知識階級には属していない)兵士たちの発音という言葉遣いやその上等とは言えない発音を真似るし、追いかけていたことが、未だに残ってしまっているのが不思議だ。私は「これは決して褒められたことではなく、寧ろ学校教育の中で是正されて然るべき事柄だ」と思っている。だが、教える方にそういう認識はとんどないようで、英語の先生方には「英語では何が下品であるかの判断の基準の持ち合わせもないように見える」のは、私の僻目か。

と、ここまで述べてきたが、そういうお薦めできない発音と言葉遣いとは如何なるものを指すかの具体例を挙げていこう。動画ではないので、遺憾ながら「これが本来あるべき発音だ」というのをカタカナ書きで表していくことにする。

本当の発音が出来てからにしよう:
ある近年めっきり人気が高くなってきた都内の私立大学の英文学の名誉教授が、以前にアメリカに出張されて「ウオラー」という発音を聞かれたのが非常に印象的で「現地ではこういう発音になるのかと、あらためて認識した」と語っていた。このように、アメリカの低い階層以下では、これがごく普通の発音である。支配階層というか、アッパーミドルではこのように発音する者には先ずお目にかかれないだろう。既にお気づきの方がおられれば結構だが、これは“water”ことなのである。

私は絶対にお薦めしない発音だ。これでは、自ら「私は下層階級です」と名乗ったのと同じであるから。断言しておくが「英語を勉強しようとされる方々には、絶対に真似て欲しくない品格に乏しい発音」である。あるべき形は「ウオーター」のみであって、それ以外はあり得ない。どうしても真似したければ、その前に「ウオーター」が完全に発音できてからに願いたい。でも、お薦めできない。

似たような例に「トウエニー」や「サーリー」がある。この類いには、我が同胞が日本語にない発音である為に苦戦されている”t”が絡んでいる。即ち、”twenty”と”thirty”である。両方の語尾にある”ty”が難物であるのは良く解る。しかも下層にある連中はそれだけの理由でもなく「トウエニー」や「サーリー」のように言うのだ。ここでもそれを真似ることなく「トウエンテイ―」と「サーティー」のように言えるように努力するのが先決問題である。尤も、ここには”th”が出ているが、これは別途説明してみようと考えている。

先ほどQueen’s Englishを有り難がる傾向があると批判めいたことを述べたが、その極めて卑近な例にアルファベットの”c”の発音がある。これを「シー」とするのはBritish Englishであり、アメリカ語では「スイ」なのである。同様に”z”を「ゼット」乃至は時たま「ゼッド」と言っているのもUKでのことで、アメリカ式は「ズイ」となるのをご承知か。最も頼りにしているはずの同盟国の発音をもう少し尊重したらどうだろう。

また”v”を「ブイ」とするのも、厳密に理屈を言えばおかしいのだ。「ヴィー」があるべき姿だ。こういうアルファベットの読み方は中学1年というか、小学校でどうしても教えたいというのならば、その最初にそこから教えておくべき(是正しておく?)事柄だと思う。

アメリカ人を真似て省略はしないように:
トランプ様が屡々お使いになる言い方に”I’m gonna ~.”というのがある。この”gonna”はワードでは許されないようで、自動的に赤線が引かれてしまう。この事実が示すように、そもそもそういう類い(品格に乏しい性質)なのである。これは元の形である”I am going to ~.”を正しく覚えてから、偶に応用編とでも心得て使っても良い程度のことだ。ろくに自分の意志を英語で表現できない次元にある人が使うべきものではない。

同様な発音に”I wanna ~.”がある。これは”I want to ~.”が原型である。即ち、如何に合衆国大統領がお使いになるかといって真似ては貰いたくない言葉遣いだ。学校の先生方は、もしもnative speakerを助教などにお雇いで、こういう言い方をするのを聞かれたら、即刻解雇するか、一段階下げて「発音に十分に注意せよ」と窘める勇気が必要だと思っている。「俺はアメリカの支配階層と交流しようとは考えていない」というのなら話が違ってく売るが、下品な英語を覚えないように厳重に注意すべきだ。いや、それこそが英語教師の務めだ。かかる応用編は基本を固めてから、基礎が出来てからするべき言葉遣いだ。

アメリカ語ならではの発音:
“the”という言葉がある。これが次に来る単語の最初の字が母音である時には「デイ」の如くに言えと教えられていると思う。しかしながら、多くのアメリカ人は、仮令知識階級であっても、全て「デイ」と発音し、カタカナ語での「ザ」に当たる発音をしない者が多いのだと思っていて良いかも知れない。かく申す私も「デイ」派に属している。尤も、厳格な抑揚の付け方では通常は冠詞(the)にはアクセントは置かないのだから、どっちの発音をしたのかは聞き取りにくくなっている。

この「舌の先を歯の間に挟む発音は日本語にはないので、教えられる方も児童も生徒も学生も苦労するし、放棄して「ザ」にしているのが普通だと思っている。これは英語の基本的な発音を習い始めの時にその気になってやってみることしかないと思っている。幸運にも私は昭和20年に最初に教えて頂いた先生のお陰で出来るようになった。偉そうに言えば「駄目だと思わずに、繰り返して試みて出来るようになるまでやってみることだ」なのだが。

最も悪い形で普及してしまっていると思うのが、”ar”、”er”、”ir”、”or”、”ur”の”r”が絡んだ発音であると思う。これはQueen’s Englishでは簡単明瞭に全てが「アー」のように聞こえてくる。アメリカ語でも基本的にはそれと変わらない発音をするニューイングランドのような地域もある。だが、多くは”r”を響かせる発音をするのだ。この「r響かせ型」が戦後に大流行したのだった。上智大学の千葉勉教授はこれを「下品である」と一蹴された。だが、巷では流行した。「下品」と決めつけるのは飽くまでもUKの視点から見てのことだと考えて置いて良いだろう。私は「日本人は難しいかどうかの問題を離れて、真似すべきではない」と言う立場を採っている

言すれば、私は「やりたければ(真似したければ)なさることを阻止しない。だが、真似しない方が無難であるし、第一に如何なる場に出ても恥ずかしくないように正確で品格がある発音になる保証はない」とだけ申し上げておく。このr響かせ型の発音をする目立った例としてヒラリー・クリントンさんがいる。私はそれだけでも、この民主党の候補を嫌っていた。




サマータイムの考察

2018-08-18 15:40:51 | コラム
オリンピック対策だけなのか:

先ずお断りしておくが「サマータイム」=summer time をそのまま英語にしても、外国人には「夏時間」としては通用しないことである。即ち、見事なまでの「カタカナ語」だからだ。もし解って貰えるとしたら、ジョージ・ガーシュイン(George Gershwin だが、本名はJacob Gershovitzというロシア系ユダヤ人)が作曲した「ポギーとベス」の中の Summer Time という歌のことだとなる程度だろう。

戦後何時この夏時間が採用され廃止されたのか全く記憶がないが(検索すれば直ちに解るだろうが)、恐らく当時の日本人は誰もこれが「カタカナ語」の造語だと気付いてはいなかっただろう。英語では Daylight saving time 略してDSTというのが一般的である。思うに何処かで誰かが気を回して「デイライト・セービング・タイム」では長くて難しいので(我々には理解できないだろうし、チャンと言えないだろうからと)「サマータイム」としたのだろうと疑っている。

負の面を上げてみよう。今年の暑さに怖じ気を震ったオリンピック委員会だったかが、マラソン等の競技で人身事故が出ることを懸念して言い出したことのようだが、私には余りd得策とは思えない。元の5時にスタートするのは良いが、何も全員が元の7時過ぎまでに完走する訳ではなく、3時間以上かかる連中が走り終わる頃には8時に近くなり既に30度台になっていたとすれば、かなり危険な時間帯になっているような気もするのだ。何れにせよ、巷間言われているようにアメリカのご都合に合わせてこの時期に東京でオリンピックを開催すること自体がで非常に危険なのである。

次の負の面を上げてみれば、戦後間もなくのIT化もICT化の気もなかった頃だから、各人が思い思いに時計の針を1時間早めれば済んだことだが、今や世界中の如何なる国にも地域にもスマートフォンなる極度にデイジタル化された文明の利器が普及し、この私でさえ70歳からPCで仕事をする時代になってしまったのだ。だが、企業の事務とその器機の面、製造部門の機器、PCではない大型のコンピュータ等々で時間をいじることなどは作業も大変だろうが、そのコストが膨大なものになりはしないかと、私如きでも危惧する次第だ。そこまでのリスクを冒すべきような問題なのか。

そんな大所高所から難しいことを言わないないまでも、ひょっとして貴方の身近にあるかも知れない「電波時計」などは誰がどうやって時刻を調整するのかなどと考え込まされてしまう。正直に告白すれば、デイジタルデイバイドの世界を長い間生き抜いててきた私などは、PCに表示されている時刻はマイクロソフトが管理して正確な時刻を表示するようにOSが出来ているのだとばかり思っていた。(お笑い下さい)

ここで話を変えて、私自身が経験したDSTの件を一席。私が在職していた頃はアメリカのワシントン州の本部との連絡は緊急時は当然だが、最もコストがかかるが簡単な連絡法は電話だった。だが、これが面倒な点は東京と西海岸では通常は17時間の時差があるので、東京事務所に朝の9時に出勤したので本部は午後4時で副社長兼事業本部長以下と十分に打ち合わせをする時間が取り難かったたのだった。

ところが、4月何日からだったか(24年も過ぎ対まではそんなことまで覚えているほど熱心ではない)DSTが始まると、朝の9時が本部では午後5時になっているので、中には誰かが He is gone for the day.(今日はもう帰ってしまった)ということもあり得るのだ。これでは談話代が無駄になってしまうので、私はその為に新宿に移転してきたのであるから、通勤のラッシュアワーを避ける意味でも年中午前7時45分までにはオフィスに入って本部の副社長以下と電話会議をするようにしていた。

即ち、アメリカのDSTには早起きを強いられる結果となっていたという意味である。元々早起き体質だったので5時には起きているという生活には特に困難なことはなかったが、DSTがなければ、朝はもう少しゆっくり出来ていたかも知れないというくらいの迷惑を被っていた。夜になって時間に余裕を生じて個人的に楽しめるなどと言っているようだが、私にとっては7時や8時まで残っているのは普通だったし、「飲めない体質」では家に帰るしかなかったのだった。要するに「私には何の有難味もない制度だった」ということ。

参考資料: Wikipedia