新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月19日 その3 森尾由美の英会話指導 #1

2018-08-19 14:52:35 | コラム
日本語と英語の思考体系の違い:

今朝ほど掲載した「森尾の英会話指導」は15年の12月13日にも同じ題名で書いていたので、それを「森尾由美の英会話指導 #1」として、あらためて加筆訂正の上で再度掲載する次第。

What kind of dressing do you have? :

フジテレビでは日曜日の朝6時半から森尾由美、磯野貴理子、松居直美の3人が語り合う、それなりに面白い番組を流している。カリフォルニア州はLAに住んでいるはずの森尾が毎週出てくるのも不思議だとは思う時もある。森尾は何回かに一度は生きた英語の会話の指導?の如きものをやるのに私は興味を惹かれる。少なくとも我が国の学校教育の「科学としての英語」ではないところが肝腎なのだから。「なるほど、現地人はそう言うのか」と感心しておられる向きもあるだろう。結構なことではある。今朝(15年の12月13日のことだった)は森尾由美の指導にこの私は以下のように刺激されたのだった。

掲題の表現は本13日の朝に買い物に行って「どんなドレッシングがありますか」と尋ねる時にはこう言うのだと、森尾が挙げた例文だ。その通りだし、立派に学校教科書としてもEnglishではあると言える。だが、ここから先がnative speakerたちが使う表現は、このような教科書的ではないので困るのだと言いたい。

多くの現地人は「ありますか?」または「在庫していますか?」と尋ねる際に教科書的な”have”ではなく、”carry”で来ることが多いのだから。これは「在庫」=”inventory”を言う時に”carry inventory of 何とかかんとか”と表現することから来ているかと思うが、これがアメリカでの”English”だと思って置かれると良いだろう。

私は have を使うと「所有する」か「持っている」という意味が強いと感覚的に理解している。即ち、在庫して売りに出していると意味が希薄になりはしないかと言いたいのだ。

この“have”と”carry”の違いの場合はほんの一例であり、このように現地人たちは「科学的」ではないEnglishを日常的に使ってくると承知しておくと良いだろう。それは時にはidiom”であり、”slang”であり「それって何のこと」戸惑わしてくれるものだ。所謂日常会話であるから、そんなに難しいことではないので、少し例を挙げてみよう。

アメリカでコーヒーは食事の前でもその途中でもがぶのみする安価な飲み物なので、常にwaiter等が「お代わりが要りますか」という意味で”More coffee?” と言って回ってくる。

欲しい時には “Yes, please.” と言ってcupを差し出せば良いだけのことだが、要らない場合もあれば少しだけ欲しい時もある。「不要だ」は簡単で”No thank you.”で良いのだ。だが、現地人はこうは簡単にはことを終わらせない。カップの上に手をかざして”I’ll stay with this for a while.”等と言う人もいる。「現状で良いよ」という断り方。または”Not right now. Thanks.”等という言い方もする。

私は「少しだけ」は言いにくいと思っていたが、”A little, please.”で十分だと経験的に学習した。だが、アメリカ事情に不馴れな頃に現地人が”Just a dash.”と言うのを聞いて流石に上手いことを言うなと感心していた。ところが、ある時にwaiterは手元が狂ってなみなみと注いでしまった。お客は「多過ぎる」と言って叱った。すると彼は慌てず”This is my dash. Sorry.”とにこやかに切り返して呆気なく終わった。

長い説明だったが、私が強調したい点はEnglishの表現の仕方は学校の試験ではないのだから、必ずしも答えは一つということはないという点なのである。各人のその時の気分で色々な表現を使われてしまうので、単語帳的な知識を誇っていると簡単な表現でも困惑させられるものだと言いたいのだ。それに持論である「カタカナ語」が怪しからん働きをすることもある。初めてアメリカ本土に行って本社のマネージャーと打ち合わせの時にコーヒーが出たのだが、”How do you take it?” と秘書に尋ねられて瞬間的に混乱させられたとは何度も述べた。

それは「どのようにして飲むのか」と訊かれれば「コーヒーカップから」に決まっていると思ったのであった。だが、アメリカ人のEnglishの意味では “cream and sugar ” は要るかと尋ねていたのだった。そこで ”I’ll take it straight. Thank you.”と答えて切り抜けた。彼らはコーヒーには「ミルク」は入れないで”cream”を入れるのだが、カタカナ語というか我が国の習慣では「ミルクとお砂糖は?」という表現になってしまっているのが怖い。

こういう細かい例を挙げる目的には「科学としての英語」で習い覚えた単語帳的知識で英会話に臨むと、思いもかけなかった聞き慣れないか見慣れない表現が飛び出してくる。そこで「アレッ」となった時点で思考回路が閉ざされてしまう経験を何度かしたものだった。この難関を克服する為には懸命になって「彼ら現地人は『こういう時にはこのように表現するのか』と記憶して、それを使う時が来るのを待っておくこと」だった。これはその気にならないと容易に蓄積出来ないので大変なのだが。

そのような「native speaker並の上手い表現」の記憶のファイルが増えるようにするのも必要だが、肝心な点は「その現地人の表現が科学としての英語の言い方とどう違うか、米国と日本の思考体系と文化の何処かどのように違っているかを把握することだ」と信じている。「いや、俺は飽くまでも『科学としての英語』で十分である、そこまでやらないで十分海外で用が足りてきた」と主張される方も多いだろう。それはそれで結構なことで、私はそう言われる方の英語力というか表現力に介入しようとまでは考えていない。「何が何でも通じれば良い」か「コミュニケーションが取れれば良い」と自信をお持ちなのだから。



8月19日 その2 森尾の英会話指導

2018-08-19 08:05:27 | コラム
興味を持って聞いた言葉の使い方:

日曜日の朝6時半から森尾の他に磯野貴理子と松居直美が鼎談会をやる番組でのこと。本19日は森尾が簡単な英語の会話というか言葉の使い方を語っていた。この森尾の英会話指導は以前にも採り上げたことがあった。それは現実にLAだかで暮らして学校の教科書にはない英語に接している森尾が経験談を語るところに意義があると思っているからだ。

今朝はnaïve をウッカリとカタカナ語と同じ意味だと思って(とは知らずに)使ってはならないと言っていたが、私が何十年(?!)も唱えているのと同じことだが、テレビで言ってくれれば多少効果があるかと思って聞いていた。それにつけても思うことは「カタカナ語は罪が深い」という点だ。二つ目に 「She is cute. も迂闊には言うな」と言っていたが、私には「こういう種類の女性を指している言葉の使い方は知らない」と言うしかないのだ。

それは女性の在り方が我が国とは余りにも違いすぎるアメリカの文化を経験したから言うのであって、この cute という単語を知らないという意味ではない、念の為。兎に角、私には目の前にいる女性に向かって仮令本心であっても「貴女は可愛い」などと言う勇気の持ち合わせなどなかった。Oxfordには pretty and attractive と先ずあって、次にアメリカ語で informalと断った上で sexually attractive と出てくる。私は後者の意味があると知らされていたので、危なくて使えないと心得ていた。

女性に関することを英語を話す際の無難な方法は「その女性がいる前では賞賛でも批判でも何でも、危ないと思った表現は使わないこと」である。故に、私はその女性だろうと誰だろうと、当人がいない男性だけの席では美貌や性格(の善し悪し)について語ることがあったが、女性の面前ではほぼ絶対と言って良いほど批判的な言動は回避するようにしていた。尤も、我々日本人がアメリカ人の中に単独で入ってそういう会話をする機会などそれほどあるとも思えないのだが。

学校で英語を教えておられる先生方はこういう番組を見ておられるのだろうか。ご覧になっているとしたら、如何なる感想を述べられるだろうかにも興味がある。

甲子園野球批判

2018-08-19 05:24:37 | コラム
金足農がまた勝ち上がった:

アナウンサーが「ベストエイトの中の唯一の県立高」と言っていたが、横浜高校をひっくり返して勝ち上がっていった金足が何処まで行けるのかに興味があって18日は途中から観戦した。実は当日の夜中の12時過ぎに当人は原因不明と思っている38.1度の発熱があって大いに苦しみ、朝一番の8時45分に掛かりつけのSクリニックに駆けつけた(実際はおっかなびっくり歩いて行ったのだが)。到着時には36.3度に下がっていた。S医師は問題ないと言って元気回復の静脈注射をして下さっただけだった。

さて、野球である。結果をご存じの方が多いとは思うので、ここから先は主に甲子園野球を論じて行きたい。私の閃きでは、あの金足農が何とか勝つのではないかと出ていたが、9回の裏の無死満塁は「無死満塁では容易に得点できない」との説が蔓延っているので、金足がもう一回スクイーズ(原語に近いカタカナ表記)をする可能性はあると考えていた。しかし、まさか2塁走者までが本塁を狙う所謂「2ランスクイーズだ」とまでは読み切れていなかった。

もしもあの監督がそこまでのプレーを指示していたのだったならば端倪すべからざる能力の持ち主だと思う。スクイーズとは非常に難しいプレーなのだが、何故か高校野球では犠牲バントと同様に多用されているし、現に金足はそのスクイーズで1点を取ってあった。近江がそれを警戒していたかどうかは不明だが、いともアッサリと強行されてしまった。私にはあの2点目を取った2塁走者の判断の良い思い切った走塁を褒めるべきか、監督の作戦だったかは解らない。近江はリリーフした左投げの投手が金足を翻弄している感があったので、油断があったのではないかとすら見ている。

私が問題にしたい点は、アナウンサーが金足の吉田輝星(何と読む名前かが解らないのが遺憾だ)投手が予選から一人で投げ抜いてきた」と言った点だった。確か、この試合の前の横浜高戦では140 km台の速球(ストレートなんて言う英語はない)を投げていたし、9回には150 kmまで出ていた。だが、近江との試合ではほとんど130 km台でしかなく、私の印象では「よくぞ無理して投げ抜いた」という辺りだった。いや、独りで投げ抜くなどということはあるべきではないのだ。

今回が100回目という甲子園野球がだ、戦時中の中断を除けば100年以上も前に始まった大会だ。その頃に全国に中学校が何校あったのだろう。その中で野球部があった学校がどれほどあったのだろうか。その頃の企画をほとんどそのままに未だに続けている朝日新聞と高野連には時代感覚がないと断じたい。因みに、私が中等学校を受験した昭和20年には藤沢市には県立の湘南中学と時宗の遊行寺の藤沢中学(現訪藤嶺学園)しかなかった。当時は女子には藤沢女学校と白百合(嘗ては乃木女学校だった)しかなかった。因みに、鎌倉市には鎌倉中学(現鎌倉学園)があっただけだった。それほど藤沢市には中学がなかったのだが、現在の藤沢市には高校がどれだけあるだろうか。

私が言いたいことは「その頃には県乃至は地区予選を勝ち抜くのに何回試合をすれば良かったか」という点だ。今では人口減少で加盟校が4,000を切ったとか聞く高野連である。それでも東京都や神奈川県よりも人口が少ない秋田県からでも、金足が明日の準決勝戦から決勝戦まで勝ち上がれば、一体全体吉田君は何試合投げ続けるのだろうか。学校や郷土の名誉も懸かるだろうが、彼自身の野球選手としての寿命(もしも彼が将来プロになる気があればだが)はどうなるかを、誰が真剣に考慮すべきなのだろうか。少なくとも、私の目には高野連も朝日新聞社もその義務を放棄しているとしか見えない。今日一日の休養日というのは単なるお為ごかしでしかないと思う。

NHKも毒にも薬にもならないことしか言わない解説者ばかりを使って「甲子園野球の礼賛」をする中継など考え直すべきだ。テレ朝もBSで中継しているが、一度だけ聞いた渡辺言智元横浜高校監督は多少批判めいた解説をされたが、他は推して知るべしだった。何でもかんでも美談にしてしまう中継放送だの新聞報道など不要だと思う。私は最も考え直すべき存在は高野連だと思っている。それについている新聞社が朝日だというのも最悪の有志連合(元の英語はcoalitionだ)ではないか。

なお、金足農は良くやっていると褒めておかねば片手落ちになる。大したものだと賞賛して終わる。