日本語と英語の思考体系の違い:
今朝ほど掲載した「森尾の英会話指導」は15年の12月13日にも同じ題名で書いていたので、それを「森尾由美の英会話指導 #1」として、あらためて加筆訂正の上で再度掲載する次第。
What kind of dressing do you have? :
フジテレビでは日曜日の朝6時半から森尾由美、磯野貴理子、松居直美の3人が語り合う、それなりに面白い番組を流している。カリフォルニア州はLAに住んでいるはずの森尾が毎週出てくるのも不思議だとは思う時もある。森尾は何回かに一度は生きた英語の会話の指導?の如きものをやるのに私は興味を惹かれる。少なくとも我が国の学校教育の「科学としての英語」ではないところが肝腎なのだから。「なるほど、現地人はそう言うのか」と感心しておられる向きもあるだろう。結構なことではある。今朝(15年の12月13日のことだった)は森尾由美の指導にこの私は以下のように刺激されたのだった。
掲題の表現は本13日の朝に買い物に行って「どんなドレッシングがありますか」と尋ねる時にはこう言うのだと、森尾が挙げた例文だ。その通りだし、立派に学校教科書としてもEnglishではあると言える。だが、ここから先がnative speakerたちが使う表現は、このような教科書的ではないので困るのだと言いたい。
多くの現地人は「ありますか?」または「在庫していますか?」と尋ねる際に教科書的な”have”ではなく、”carry”で来ることが多いのだから。これは「在庫」=”inventory”を言う時に”carry inventory of 何とかかんとか”と表現することから来ているかと思うが、これがアメリカでの”English”だと思って置かれると良いだろう。
私は have を使うと「所有する」か「持っている」という意味が強いと感覚的に理解している。即ち、在庫して売りに出していると意味が希薄になりはしないかと言いたいのだ。
この“have”と”carry”の違いの場合はほんの一例であり、このように現地人たちは「科学的」ではないEnglishを日常的に使ってくると承知しておくと良いだろう。それは時にはidiom”であり、”slang”であり「それって何のこと」戸惑わしてくれるものだ。所謂日常会話であるから、そんなに難しいことではないので、少し例を挙げてみよう。
アメリカでコーヒーは食事の前でもその途中でもがぶのみする安価な飲み物なので、常にwaiter等が「お代わりが要りますか」という意味で”More coffee?” と言って回ってくる。
欲しい時には “Yes, please.” と言ってcupを差し出せば良いだけのことだが、要らない場合もあれば少しだけ欲しい時もある。「不要だ」は簡単で”No thank you.”で良いのだ。だが、現地人はこうは簡単にはことを終わらせない。カップの上に手をかざして”I’ll stay with this for a while.”等と言う人もいる。「現状で良いよ」という断り方。または”Not right now. Thanks.”等という言い方もする。
私は「少しだけ」は言いにくいと思っていたが、”A little, please.”で十分だと経験的に学習した。だが、アメリカ事情に不馴れな頃に現地人が”Just a dash.”と言うのを聞いて流石に上手いことを言うなと感心していた。ところが、ある時にwaiterは手元が狂ってなみなみと注いでしまった。お客は「多過ぎる」と言って叱った。すると彼は慌てず”This is my dash. Sorry.”とにこやかに切り返して呆気なく終わった。
長い説明だったが、私が強調したい点はEnglishの表現の仕方は学校の試験ではないのだから、必ずしも答えは一つということはないという点なのである。各人のその時の気分で色々な表現を使われてしまうので、単語帳的な知識を誇っていると簡単な表現でも困惑させられるものだと言いたいのだ。それに持論である「カタカナ語」が怪しからん働きをすることもある。初めてアメリカ本土に行って本社のマネージャーと打ち合わせの時にコーヒーが出たのだが、”How do you take it?” と秘書に尋ねられて瞬間的に混乱させられたとは何度も述べた。
それは「どのようにして飲むのか」と訊かれれば「コーヒーカップから」に決まっていると思ったのであった。だが、アメリカ人のEnglishの意味では “cream and sugar ” は要るかと尋ねていたのだった。そこで ”I’ll take it straight. Thank you.”と答えて切り抜けた。彼らはコーヒーには「ミルク」は入れないで”cream”を入れるのだが、カタカナ語というか我が国の習慣では「ミルクとお砂糖は?」という表現になってしまっているのが怖い。
こういう細かい例を挙げる目的には「科学としての英語」で習い覚えた単語帳的知識で英会話に臨むと、思いもかけなかった聞き慣れないか見慣れない表現が飛び出してくる。そこで「アレッ」となった時点で思考回路が閉ざされてしまう経験を何度かしたものだった。この難関を克服する為には懸命になって「彼ら現地人は『こういう時にはこのように表現するのか』と記憶して、それを使う時が来るのを待っておくこと」だった。これはその気にならないと容易に蓄積出来ないので大変なのだが。
そのような「native speaker並の上手い表現」の記憶のファイルが増えるようにするのも必要だが、肝心な点は「その現地人の表現が科学としての英語の言い方とどう違うか、米国と日本の思考体系と文化の何処かどのように違っているかを把握することだ」と信じている。「いや、俺は飽くまでも『科学としての英語』で十分である、そこまでやらないで十分海外で用が足りてきた」と主張される方も多いだろう。それはそれで結構なことで、私はそう言われる方の英語力というか表現力に介入しようとまでは考えていない。「何が何でも通じれば良い」か「コミュニケーションが取れれば良い」と自信をお持ちなのだから。
今朝ほど掲載した「森尾の英会話指導」は15年の12月13日にも同じ題名で書いていたので、それを「森尾由美の英会話指導 #1」として、あらためて加筆訂正の上で再度掲載する次第。
What kind of dressing do you have? :
フジテレビでは日曜日の朝6時半から森尾由美、磯野貴理子、松居直美の3人が語り合う、それなりに面白い番組を流している。カリフォルニア州はLAに住んでいるはずの森尾が毎週出てくるのも不思議だとは思う時もある。森尾は何回かに一度は生きた英語の会話の指導?の如きものをやるのに私は興味を惹かれる。少なくとも我が国の学校教育の「科学としての英語」ではないところが肝腎なのだから。「なるほど、現地人はそう言うのか」と感心しておられる向きもあるだろう。結構なことではある。今朝(15年の12月13日のことだった)は森尾由美の指導にこの私は以下のように刺激されたのだった。
掲題の表現は本13日の朝に買い物に行って「どんなドレッシングがありますか」と尋ねる時にはこう言うのだと、森尾が挙げた例文だ。その通りだし、立派に学校教科書としてもEnglishではあると言える。だが、ここから先がnative speakerたちが使う表現は、このような教科書的ではないので困るのだと言いたい。
多くの現地人は「ありますか?」または「在庫していますか?」と尋ねる際に教科書的な”have”ではなく、”carry”で来ることが多いのだから。これは「在庫」=”inventory”を言う時に”carry inventory of 何とかかんとか”と表現することから来ているかと思うが、これがアメリカでの”English”だと思って置かれると良いだろう。
私は have を使うと「所有する」か「持っている」という意味が強いと感覚的に理解している。即ち、在庫して売りに出していると意味が希薄になりはしないかと言いたいのだ。
この“have”と”carry”の違いの場合はほんの一例であり、このように現地人たちは「科学的」ではないEnglishを日常的に使ってくると承知しておくと良いだろう。それは時にはidiom”であり、”slang”であり「それって何のこと」戸惑わしてくれるものだ。所謂日常会話であるから、そんなに難しいことではないので、少し例を挙げてみよう。
アメリカでコーヒーは食事の前でもその途中でもがぶのみする安価な飲み物なので、常にwaiter等が「お代わりが要りますか」という意味で”More coffee?” と言って回ってくる。
欲しい時には “Yes, please.” と言ってcupを差し出せば良いだけのことだが、要らない場合もあれば少しだけ欲しい時もある。「不要だ」は簡単で”No thank you.”で良いのだ。だが、現地人はこうは簡単にはことを終わらせない。カップの上に手をかざして”I’ll stay with this for a while.”等と言う人もいる。「現状で良いよ」という断り方。または”Not right now. Thanks.”等という言い方もする。
私は「少しだけ」は言いにくいと思っていたが、”A little, please.”で十分だと経験的に学習した。だが、アメリカ事情に不馴れな頃に現地人が”Just a dash.”と言うのを聞いて流石に上手いことを言うなと感心していた。ところが、ある時にwaiterは手元が狂ってなみなみと注いでしまった。お客は「多過ぎる」と言って叱った。すると彼は慌てず”This is my dash. Sorry.”とにこやかに切り返して呆気なく終わった。
長い説明だったが、私が強調したい点はEnglishの表現の仕方は学校の試験ではないのだから、必ずしも答えは一つということはないという点なのである。各人のその時の気分で色々な表現を使われてしまうので、単語帳的な知識を誇っていると簡単な表現でも困惑させられるものだと言いたいのだ。それに持論である「カタカナ語」が怪しからん働きをすることもある。初めてアメリカ本土に行って本社のマネージャーと打ち合わせの時にコーヒーが出たのだが、”How do you take it?” と秘書に尋ねられて瞬間的に混乱させられたとは何度も述べた。
それは「どのようにして飲むのか」と訊かれれば「コーヒーカップから」に決まっていると思ったのであった。だが、アメリカ人のEnglishの意味では “cream and sugar ” は要るかと尋ねていたのだった。そこで ”I’ll take it straight. Thank you.”と答えて切り抜けた。彼らはコーヒーには「ミルク」は入れないで”cream”を入れるのだが、カタカナ語というか我が国の習慣では「ミルクとお砂糖は?」という表現になってしまっているのが怖い。
こういう細かい例を挙げる目的には「科学としての英語」で習い覚えた単語帳的知識で英会話に臨むと、思いもかけなかった聞き慣れないか見慣れない表現が飛び出してくる。そこで「アレッ」となった時点で思考回路が閉ざされてしまう経験を何度かしたものだった。この難関を克服する為には懸命になって「彼ら現地人は『こういう時にはこのように表現するのか』と記憶して、それを使う時が来るのを待っておくこと」だった。これはその気にならないと容易に蓄積出来ないので大変なのだが。
そのような「native speaker並の上手い表現」の記憶のファイルが増えるようにするのも必要だが、肝心な点は「その現地人の表現が科学としての英語の言い方とどう違うか、米国と日本の思考体系と文化の何処かどのように違っているかを把握することだ」と信じている。「いや、俺は飽くまでも『科学としての英語』で十分である、そこまでやらないで十分海外で用が足りてきた」と主張される方も多いだろう。それはそれで結構なことで、私はそう言われる方の英語力というか表現力に介入しようとまでは考えていない。「何が何でも通じれば良い」か「コミュニケーションが取れれば良い」と自信をお持ちなのだから。