新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月9日 その2 新時代の名前

2018-08-09 15:33:54 | コラム
命名には流行廃りが:

私が毎年甲子園の野球の中継を覗き見して思うことは「現代の親たちは一体如何なる基準で子供に名前を付けているのか」ということだ。より解りやすく言えば「何を考えて名前を付けているのか」という怒りにも似た嘆きなのである。ずっと指摘し続けてきたことだが、その家に長い間続く一定の漢字を入れたと思えるような名前や、深い考えがあってこういう漢字を使ったのかと思わせるような名前を先ず見かけることがなくなってしまったのである。

念<strong>の為、お断りしておくが「下の名前」というのは愚かな表現である。上が名字で下が名前である。横書きの時代にあって尚且つ「下の名前」がおかしいと思わない感覚がおかしいのだと知れ。

兎に角、嘆かわしいことは「現代の名前には流行廃りがある」ということと「何の意味も感じられない当て字ばかりの名前の花盛り」という傾向が明らかなことである。各試合を最初から終わりまで見ている訳ではないが、両方のテイームには必ずと言って誤りでは無いことがある。それは「翔」単独かあるいはあるいはかの大谷翔平のような他の漢字と組み合わせた名前の者がいることである。

私は現代の流行からすれば、「翔」とは何かの漫画(アニメとでも言うのか)にそういう名前の英雄的主人公でもいるのかと思ったが、そうでもないらしい。だが、翔という字は大流行である。私にはかかる軽佻浮薄な流行を追って我が子に名前を付ける親たちは不見識だとしか思えないし、同時に不思議な現象だとしか思えないが、これをおかしいと思わない親の方が致命的におかしいのだと思っている。

他に流行っている名前には、何度か指摘したが「平」だの「太」だの「介か助」を使っている例が多いことで、これなどはその昔には丁稚小僧になるような階層が用いた字であり、決して褒められた命名ではないと思われていたのだ。だが、現代では躊躇わずに使われているのは何故だろう。現代の親たちはまさか「格好が良い」とでも思っているのだろうか。例を挙げてみれば「翔太」だの「雄平」だのという具合だ。また「斗」という時も「賢斗」などと一見英語のKentをもじったかと思わせるような例もある。

また意外に多いのが「雄大」(ユウダイ)という名前だ。これを見て先ず思うことは「名前負けするのではないか」という余計なお世話的な心配だ。中にはこう書いて「カツヒロ」と読ませるのもあった。」このように「大」という字を使って「ヒロ」と読ませる名前は多い。思うにヤンキースに行った「田中将大」に倣ったかと思うのだが。田中が甲子園で斎藤佑樹と優勝を争ったのは少し前のことで、あの頃に生まれた子供が未だ甲子園に出てくることはないだろう。

また、兄弟の順番を示す「一」や「二」という数字や「一郎」や「次郎か二郎」という名前も極端に減っている。この辺りは女子の名前に「子」や「枝」を使ったものが絶滅危惧種になってしまった現象にも似ていると思う。

最後になるかも知れないが気になるのが「重箱読み」など何のそのという名前が多いのも気になるのだ。私はこれも含めて現代のキラキラネームネーム等の大流行は「我が国の国語教育、就中漢字の教え方が宜しくないのではないか」ということが原因だと本気で疑っている。「音」や「訓」をキチンと教えてあれば、現代の名前に見る混乱というか出鱈目な現象は生じなかったのではないかとすら考えている。

そう言えば、ここでは高校野球をも採り上げていたのだった。幸いにして私が開会前に危惧していた選手たちや観客の間の致命的な熱中症は発生していないようなのは結構だ。ではあるが、このまま今年は何とか切り抜けられたとしても、来年から先にも猛暑が続くことを考えれば甲子園にも屋根を設けて観客席の冷房装置を検討する時が来たのではないかと思う。

甲子園を「聖地」のように憧れるのは結構だが、そこに出ていくのが命の危険を伴うような事態は解消すべきではないのか。朝日新聞社にそこまでの財政的余裕がないのあれば、高野連にでも図って主催すべきか否かを考え直すべき時期が来たのではないのか。繰り返して言うが、私は甲子園の野球の廃止論者である。いや、より具体的に言えば、あらゆる競技のトーナメント方式の全国高校大会そのもののを再検討すべき時だということ。


未だ続くのか山根明問題

2018-08-09 13:23:02 | コラム
山根明は決して諦めてはいないようだ:

日テレがあの辞任表明の発表の後で山根明を帰りの車の中まで追いかけて質問をしたところ「告発した333名とは法の下に争う」とはっきりと言ってのけていた。大体からして、あの声明には「如何なる職と地位を辞任するのか」を明言されておらず、辞任の具体的な理由も根拠となる問題点すら述べていなかったのである。あの不明確さが彼自身の知恵なのか、あるいは彼の傍らにいた弁護士の入れ知恵かなどは解る訳もないが、見事なまでに不明確なのだった。

その後の改革を目指す集団の記者会見にしても具体性も乏しいだけではなく、未だに山根の反撃を怖れてでもいるのか迫力もなく、如何に理事たちが山根に骨抜きにされていたかと思わせられるだけだった。それだけではなく、山根の側近とマスコミに名指しされていた吉森副会長が後任の会長の如き顔で山根を貶めるようなことを言っているのも甚だ聞き苦しかった。マスコミには誰が何であるかを見抜く眼力すらないのかと、歯がゆい思いをさせられていた。

何れにせよ、このままでことが進めば山根なき後で誰がどのように責任を持って連盟をあるべき姿に持って行こうとするのかが全く見えてこないのだ。しかも、山根は如何なる根拠があってのことなのか、選手たちに「東京オリンピックが駄目でも次があるので云々」という意味不明なことを語りかけているのだ。だが、残された理事たちもマスコミもその意味するところの解説をしようとはしないのだ。連盟も駄目ならば、例の如くにマスコミも頼るには足らないと実証しているようなのでは話にならない。

このままに推移すれば「日暮れて道遠し」となってしまうだろう。山根は「ほら見ろ。俺がいなくなればあの体たらくだ」と高笑いをしているのではないかとすら思いたくなる。スポーツ庁だのJOCなどは何をやっているのかという疑問も出てくる。ボクシング連盟があのような不始末をしでかしたのは、自分たちには責任はないとでも考えているのではないか。関係者が皆無責任態勢では、この案件を何ともしようがないのではないか。