英会話は易しい言葉で出来る:
一口に英会話などと言うが、私にはこれだけでは何のことを言っているのか不明確だと思えてならない。雑談なのか世間話なのか、何か主題(「テーマ」とも言うがこれはドイツ語で、英語を強いてカタカナ書きすれば「スイ―ム」とでもすれば良いかも知れない)が決められていて、その範囲内で語り合うのかすらハッキリしていないと思う。私は要するに何かを知っている限りの言葉を使って自然に話し合うのが会話だと思っている。であるから、如何なる話題が飛び出してくるかなどは事前に分からないのが普通だろう。
しかし、英会話など言えば、何かよほど格好が良い言葉を散りばめて語らねばならないのだと思う人もいるのかも知れない。または、何時如何なる話題になって淀みなく語らねばならないと緊張しておられる方がおられるかも知れない。だが、雑談や世間話ならば中学校(現代では、もしかして小学校のか?)1~2年の教科書に出てくるような易しい言葉(口語的表現か慣用句にもなっているような解りやすい単語)だけで出来るものなのだ。要するに、難しく考えるとか、気取る必要などないということだ。
経験上も思うことは、このような簡単な言葉を使って出来る雑談か世間話または日常会話では「これを使えば何とか話を繋いでいける」というような例文を沢山覚えておくこと辺りから出発したら良いだろうと思っている。その為には支配階層とまでは言わないが、可能ならばまともな教養があるアメリカ人乃至は英語を母国語とする人と会話をする機会を求めることが良いと思っている。それは「なるほど、こういうことを言う時にはこういう風に表現するのか」が学べるからである。
もっと解りやすく言えば「真似しやすい良いお手本になるような英語を話す人と会話をすることが良い勉強になるし、上達への早道になる」という意味なのだ。だが、この方式の難点は「貴方にその外国人が話している英語が果たし程度が高くて真似をする価値があるかないかが容易に判断できないだろう」ということであろう。即ち、無闇矢鱈にnative speakerを有り難がるなということだ。極言すれば「彼らが何処の馬の骨か」を判定できるだけの英語力を備えている人は極めて希だという意味でもある。
強調して置きたいことはそういう優れたお手本から会話を学べる機会などはそう滅多には訪れないと思う。私は嘗て某商社のシアトル支店で最高の使い手という人から聞いた苦労話で「赴任してきた当初に最も苦しんだことは、アメリカ人が余り早く話すので、一つの文章が何処から始まって何処で終わったかというか、何処で切れたのかが全く聞き取れず、何処で相槌を打ったら良いのか、何処で『済みません、もう一度行って下さい』と中断すれば良いかのタイミングが計れず、結局何の話かが掴めないうちに終わってしまったことだった」と聞かされたことがあった。
彼はまた、「アメリカ人と話し合っている時に慣用句のような耳慣れない表現に出会った時に『今何と言われましたか』と尋ねては不躾だろうと思って悩んでいる間に話がドンドン流れていって何の件だったかすらも解らずに終わるのが辛かった」とも述懐していた。こういう話を纏めてみると「学習法としては結局は経験を積んでいくしかないのだが、その間にこれと思う言い方を沢山覚えて表現の小引き出しを増やしていくしかない」というような結論になってしまうのだ。
私はそういう意味では、幸いにもアメリカ人の会社に転じていたので、品格というか教養があると思う同胞が使う表現を覚えて真似する機会があったのだった。詳細に解説すれば長くなるので別の機会に譲るが、一見良いことのようである native speakerに学ぶことの問題点は「彼らは日本人がどういうことで悩むのか、どういうことが解らなくて苦しんでいるのか」などほとんど解っていないので、痒いところにまで手が届くように教えてくれることは出来ないと思っていて誤りではないと思う。故に、私はnative speakerから学ぶことを積極的には勧めないのだ。
それだけではなく、我々我が国の至らざる学校教育の英語で育ってきた者たちにとっては、そのアメリカ人か外国人が話している英語の品位の判定することや、おかしな訛りがあるか否かなどは解る訳がないのである。更に、後難を恐れずに言えば「ましてや、そのアメリカ人か外国人の教養の程度や出自をどうやって判断するのかも問題だろう。いや、一般の方には解る訳がないと言って誤りではない」と断言する。後難を恐れずに言えば、米国の南部やオーストラリアやニュージーランドの訛りなどを聞き分けられる訳がないのだ。
その点では、私は支配階層のアメリカ人の中にあっては外国人(“gaijin”?)だったので、寧ろ気楽に「それって何のこと」と「こういう言い方を聞いたが、これはどういう意味か」などと遠慮なく尋ねることが出来た。いきなり余談かも知れないが、我が国では普通に「もう一度言って下さい」を “I beg your pardon.” と教えているようだが、私は寡聞にして彼らnative speakerたちがこういう表現を使ったのを聞いた記憶がない。私はこの表現は日本語英語(和製語)だと思っている。
「もう一度言って下さい」は仲間内では“What’s that?” と簡単に言うか “Excuse me.” の語尾を上げて言えば十分だ。または“What did you say now?” か“I'm sorry.”の”sorry”にアクセントを置いて語尾を上げるかでも通じる。時には“Say that again?”とズバリと来る場合もあるが、ここでは前に“Could you”と付ければ、より丁寧になる。一寸ひねった言い方では、“Would you please rephrase rain check for me?”のように解説を求める言い方をすることもある。
以上、難しい単語など一つも出てきていない点に注目されたい。ここで更に強調しておきたいことは、こういう文例を黙読するだけでは覚えきれないので、何回も音読して覚えてしまおうとする姿勢が必要なのだという点だ。換言すれば、英語の表現を効率良く覚える為には、読んで目から入れようとせずに耳から入れようとことが肝腎なのだ。これこそが私が主張する音読・暗記・暗唱による学習法である。
1970年代前半に、あるカナダ人の青年とどうしても面談してフランス語と英語の日本語への通訳を依頼せねばならないことがあって、知り合いのカナダ大使館の商務官に彼の連絡先を教えていただきたいと電話でお願いした。その時に電話の向こうで聞こえたのが彼が誰かに向かって言った“Do you know his whereabouts?” だった。「彼の所在を知っているか?」をこう言うのかと知った。
更に “Can you get hold of him?” も聞こえた。「彼に連絡がつくかい」はこのように言えば良いのかと学べた。私はすでに“Can you reach him?”は承知していたが、カナダ大使館との電話連絡のお陰で「どのように知れ連絡するか」の表現の引き出しが一つ増えた次第だった。問題は、こういう場合に「これは使えそうだ」と覚える気があるかないかだと思うのだ。
これらの表現は言わば口語体での会話にはごく普通に出てくるのだが、私の現場での経験では、我が国の学校教育ではここまで踏み込んだ言い方を教えられていないようだと思ったのだ。実は、この種類の表現を覚えていても、現実にはなかなか使える機会は訪れないだろうと思っている。だから敢えて教えないのかとも考えた。だが、現実の会話ではこのような優しい単語を使った口語体や慣用句での表現の洪水である事が多いのだから英会話が大変なのだ。
それも、「何時始まって何処で切れるのかサッパリ解らない早さで話されるので“rain check”のような言葉が出てきたところで集中力が切れてしまうようだ。対策はどうすれば良いのか」と尋ねられれば、結局は「習うよりは馴れろ」しかないのではと、突き放したような言い方になるのだが、悪しからず。だからこそ、私は長年英会話とは「習うより慣れろ」であり「慣れと度胸だ」と言ってきたのだ。
一口に英会話などと言うが、私にはこれだけでは何のことを言っているのか不明確だと思えてならない。雑談なのか世間話なのか、何か主題(「テーマ」とも言うがこれはドイツ語で、英語を強いてカタカナ書きすれば「スイ―ム」とでもすれば良いかも知れない)が決められていて、その範囲内で語り合うのかすらハッキリしていないと思う。私は要するに何かを知っている限りの言葉を使って自然に話し合うのが会話だと思っている。であるから、如何なる話題が飛び出してくるかなどは事前に分からないのが普通だろう。
しかし、英会話など言えば、何かよほど格好が良い言葉を散りばめて語らねばならないのだと思う人もいるのかも知れない。または、何時如何なる話題になって淀みなく語らねばならないと緊張しておられる方がおられるかも知れない。だが、雑談や世間話ならば中学校(現代では、もしかして小学校のか?)1~2年の教科書に出てくるような易しい言葉(口語的表現か慣用句にもなっているような解りやすい単語)だけで出来るものなのだ。要するに、難しく考えるとか、気取る必要などないということだ。
経験上も思うことは、このような簡単な言葉を使って出来る雑談か世間話または日常会話では「これを使えば何とか話を繋いでいける」というような例文を沢山覚えておくこと辺りから出発したら良いだろうと思っている。その為には支配階層とまでは言わないが、可能ならばまともな教養があるアメリカ人乃至は英語を母国語とする人と会話をする機会を求めることが良いと思っている。それは「なるほど、こういうことを言う時にはこういう風に表現するのか」が学べるからである。
もっと解りやすく言えば「真似しやすい良いお手本になるような英語を話す人と会話をすることが良い勉強になるし、上達への早道になる」という意味なのだ。だが、この方式の難点は「貴方にその外国人が話している英語が果たし程度が高くて真似をする価値があるかないかが容易に判断できないだろう」ということであろう。即ち、無闇矢鱈にnative speakerを有り難がるなということだ。極言すれば「彼らが何処の馬の骨か」を判定できるだけの英語力を備えている人は極めて希だという意味でもある。
強調して置きたいことはそういう優れたお手本から会話を学べる機会などはそう滅多には訪れないと思う。私は嘗て某商社のシアトル支店で最高の使い手という人から聞いた苦労話で「赴任してきた当初に最も苦しんだことは、アメリカ人が余り早く話すので、一つの文章が何処から始まって何処で終わったかというか、何処で切れたのかが全く聞き取れず、何処で相槌を打ったら良いのか、何処で『済みません、もう一度行って下さい』と中断すれば良いかのタイミングが計れず、結局何の話かが掴めないうちに終わってしまったことだった」と聞かされたことがあった。
彼はまた、「アメリカ人と話し合っている時に慣用句のような耳慣れない表現に出会った時に『今何と言われましたか』と尋ねては不躾だろうと思って悩んでいる間に話がドンドン流れていって何の件だったかすらも解らずに終わるのが辛かった」とも述懐していた。こういう話を纏めてみると「学習法としては結局は経験を積んでいくしかないのだが、その間にこれと思う言い方を沢山覚えて表現の小引き出しを増やしていくしかない」というような結論になってしまうのだ。
私はそういう意味では、幸いにもアメリカ人の会社に転じていたので、品格というか教養があると思う同胞が使う表現を覚えて真似する機会があったのだった。詳細に解説すれば長くなるので別の機会に譲るが、一見良いことのようである native speakerに学ぶことの問題点は「彼らは日本人がどういうことで悩むのか、どういうことが解らなくて苦しんでいるのか」などほとんど解っていないので、痒いところにまで手が届くように教えてくれることは出来ないと思っていて誤りではないと思う。故に、私はnative speakerから学ぶことを積極的には勧めないのだ。
それだけではなく、我々我が国の至らざる学校教育の英語で育ってきた者たちにとっては、そのアメリカ人か外国人が話している英語の品位の判定することや、おかしな訛りがあるか否かなどは解る訳がないのである。更に、後難を恐れずに言えば「ましてや、そのアメリカ人か外国人の教養の程度や出自をどうやって判断するのかも問題だろう。いや、一般の方には解る訳がないと言って誤りではない」と断言する。後難を恐れずに言えば、米国の南部やオーストラリアやニュージーランドの訛りなどを聞き分けられる訳がないのだ。
その点では、私は支配階層のアメリカ人の中にあっては外国人(“gaijin”?)だったので、寧ろ気楽に「それって何のこと」と「こういう言い方を聞いたが、これはどういう意味か」などと遠慮なく尋ねることが出来た。いきなり余談かも知れないが、我が国では普通に「もう一度言って下さい」を “I beg your pardon.” と教えているようだが、私は寡聞にして彼らnative speakerたちがこういう表現を使ったのを聞いた記憶がない。私はこの表現は日本語英語(和製語)だと思っている。
「もう一度言って下さい」は仲間内では“What’s that?” と簡単に言うか “Excuse me.” の語尾を上げて言えば十分だ。または“What did you say now?” か“I'm sorry.”の”sorry”にアクセントを置いて語尾を上げるかでも通じる。時には“Say that again?”とズバリと来る場合もあるが、ここでは前に“Could you”と付ければ、より丁寧になる。一寸ひねった言い方では、“Would you please rephrase rain check for me?”のように解説を求める言い方をすることもある。
以上、難しい単語など一つも出てきていない点に注目されたい。ここで更に強調しておきたいことは、こういう文例を黙読するだけでは覚えきれないので、何回も音読して覚えてしまおうとする姿勢が必要なのだという点だ。換言すれば、英語の表現を効率良く覚える為には、読んで目から入れようとせずに耳から入れようとことが肝腎なのだ。これこそが私が主張する音読・暗記・暗唱による学習法である。
1970年代前半に、あるカナダ人の青年とどうしても面談してフランス語と英語の日本語への通訳を依頼せねばならないことがあって、知り合いのカナダ大使館の商務官に彼の連絡先を教えていただきたいと電話でお願いした。その時に電話の向こうで聞こえたのが彼が誰かに向かって言った“Do you know his whereabouts?” だった。「彼の所在を知っているか?」をこう言うのかと知った。
更に “Can you get hold of him?” も聞こえた。「彼に連絡がつくかい」はこのように言えば良いのかと学べた。私はすでに“Can you reach him?”は承知していたが、カナダ大使館との電話連絡のお陰で「どのように知れ連絡するか」の表現の引き出しが一つ増えた次第だった。問題は、こういう場合に「これは使えそうだ」と覚える気があるかないかだと思うのだ。
これらの表現は言わば口語体での会話にはごく普通に出てくるのだが、私の現場での経験では、我が国の学校教育ではここまで踏み込んだ言い方を教えられていないようだと思ったのだ。実は、この種類の表現を覚えていても、現実にはなかなか使える機会は訪れないだろうと思っている。だから敢えて教えないのかとも考えた。だが、現実の会話ではこのような優しい単語を使った口語体や慣用句での表現の洪水である事が多いのだから英会話が大変なのだ。
それも、「何時始まって何処で切れるのかサッパリ解らない早さで話されるので“rain check”のような言葉が出てきたところで集中力が切れてしまうようだ。対策はどうすれば良いのか」と尋ねられれば、結局は「習うよりは馴れろ」しかないのではと、突き放したような言い方になるのだが、悪しからず。だからこそ、私は長年英会話とは「習うより慣れろ」であり「慣れと度胸だ」と言ってきたのだ。