暴暑で多忙の一日だった:
昨3日は朝のうちの未だ暑くなる前にと、午前8時50分に家を出て徒歩で約10分のSクリニックに向かった。それでも先客は老人ばかりで当方は4番目だったのには恐れ入った。「老人は早起きだからな」と思ったが、そう思った自分自身は立派な老人だった。予定通りにブロック注射を受けて直ぐ近くにあるジムに行けば既に10時10分過ぎでは致し方なくほんの少しのストレッチとマッサージ・チェアのみで終わりにしてバスルームに向かい、大きな風呂で血行を良くしてから帰宅。
昼食後に一休みしてから新大久保駅前発午後2時41分のバスに乗るべく我が家を2時25分に出発して、新宿ヒロクリニックに到着して2時50分。そこで帽子を脱げば僅か25分間に頭髪は水をかぶったかのように汗ビッショリだった。35度ともなれば午後3時頃の暑さがどれだけきついかを再認識させられた。帰路は予定と違って徒歩になったが、クリニックから大久保通り出た3時20分過ぎにはパラパラと降っていた雨は間もなく厳しい日差しの中で本降りとなって、雨宿りの止むなきに至った。
久し振りに経験する狐の嫁入りだったが、雨宿りをして5分も経たないうちに止んでしまった。その雨宿りをしていた連中が誰一人として日本語を喋っていなかったのも如何にも大久保通りという感じだった。この程度の雨降りでは一向に涼しくもならず、途中で町中一安売りのバナナを買いに立ち寄ったイスラム教徒が店番をする八百屋兼ハラルフード店では、珍しくも白人が店番をしていた。そこで遠慮することなく「貴方は何処の国の人」と尋ねると「イラン」という答えだった。
そこで何気なく「イランはシーア派で、何時も店番をしている人はスンニ派のバングラデシュ人では」と尋ねたところ「その通りだ」に始まって、かなり流暢な日本語で滔々と「その昔はペルシャと言って」から現在の対イスラエルとその後ろに立つアメリカとの関係云々というように歴史から現在の中近東情勢までを語り始めた。こちらも負けていられないと、商社の中近東駐在経験者からきかされたことの受け売りで「湾岸戦争における悪い奴はフセインのイラクではなくクエイトであり、あれはアメリカの過ちだった」と語って見た。
彼は「将にその通りであるし、我々は何千年かけても彼らジューイッシュに奪われたイスラム教の聖地を取り戻すのだ」と、これまた商社マンたちが教えてくれた通りのことを言っていた。彼も「日本のマスコミはペルシャアラブやイスラエルの間の争いの歴史を理解しておらぬようで、全く本当のことを報道しないのは怪しからん」と言うのだが、これもまた中近東駐在経験者の説と同じだった。
要するに彼は「アメリカはイランとは相容れざる国」と言うのだが、私は「そのアメリカの同盟国に来て暮らしているのは何故か」と訊いてみたい衝動に駆られたが止めにした。だが、私にとっては思いがけない出来事である語り合いだったが、ある意味で貴重な経験だった。考えて見れば、私にとってはイラン人と語り合ったのは生まれて初めてだった。
それから帰宅して一休みして、一日で三度目の外出になる歯科医院に出掛けたのが4時半という具合で全く多忙な一日だった。良くぞ暑さに耐えたと思わずにはいられなかった。因みに、冒頭の「暴暑」は韓国で現在使われていると知った表現を引用したもの。
昨3日は朝のうちの未だ暑くなる前にと、午前8時50分に家を出て徒歩で約10分のSクリニックに向かった。それでも先客は老人ばかりで当方は4番目だったのには恐れ入った。「老人は早起きだからな」と思ったが、そう思った自分自身は立派な老人だった。予定通りにブロック注射を受けて直ぐ近くにあるジムに行けば既に10時10分過ぎでは致し方なくほんの少しのストレッチとマッサージ・チェアのみで終わりにしてバスルームに向かい、大きな風呂で血行を良くしてから帰宅。
昼食後に一休みしてから新大久保駅前発午後2時41分のバスに乗るべく我が家を2時25分に出発して、新宿ヒロクリニックに到着して2時50分。そこで帽子を脱げば僅か25分間に頭髪は水をかぶったかのように汗ビッショリだった。35度ともなれば午後3時頃の暑さがどれだけきついかを再認識させられた。帰路は予定と違って徒歩になったが、クリニックから大久保通り出た3時20分過ぎにはパラパラと降っていた雨は間もなく厳しい日差しの中で本降りとなって、雨宿りの止むなきに至った。
久し振りに経験する狐の嫁入りだったが、雨宿りをして5分も経たないうちに止んでしまった。その雨宿りをしていた連中が誰一人として日本語を喋っていなかったのも如何にも大久保通りという感じだった。この程度の雨降りでは一向に涼しくもならず、途中で町中一安売りのバナナを買いに立ち寄ったイスラム教徒が店番をする八百屋兼ハラルフード店では、珍しくも白人が店番をしていた。そこで遠慮することなく「貴方は何処の国の人」と尋ねると「イラン」という答えだった。
そこで何気なく「イランはシーア派で、何時も店番をしている人はスンニ派のバングラデシュ人では」と尋ねたところ「その通りだ」に始まって、かなり流暢な日本語で滔々と「その昔はペルシャと言って」から現在の対イスラエルとその後ろに立つアメリカとの関係云々というように歴史から現在の中近東情勢までを語り始めた。こちらも負けていられないと、商社の中近東駐在経験者からきかされたことの受け売りで「湾岸戦争における悪い奴はフセインのイラクではなくクエイトであり、あれはアメリカの過ちだった」と語って見た。
彼は「将にその通りであるし、我々は何千年かけても彼らジューイッシュに奪われたイスラム教の聖地を取り戻すのだ」と、これまた商社マンたちが教えてくれた通りのことを言っていた。彼も「日本のマスコミはペルシャアラブやイスラエルの間の争いの歴史を理解しておらぬようで、全く本当のことを報道しないのは怪しからん」と言うのだが、これもまた中近東駐在経験者の説と同じだった。
要するに彼は「アメリカはイランとは相容れざる国」と言うのだが、私は「そのアメリカの同盟国に来て暮らしているのは何故か」と訊いてみたい衝動に駆られたが止めにした。だが、私にとっては思いがけない出来事である語り合いだったが、ある意味で貴重な経験だった。考えて見れば、私にとってはイラン人と語り合ったのは生まれて初めてだった。
それから帰宅して一休みして、一日で三度目の外出になる歯科医院に出掛けたのが4時半という具合で全く多忙な一日だった。良くぞ暑さに耐えたと思わずにはいられなかった。因みに、冒頭の「暴暑」は韓国で現在使われていると知った表現を引用したもの。