新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

アメリカの会社での働き方の回顧

2018-08-14 08:59:41 | コラム
通勤定期を買う暇がなかった:

畏メル友尾形氏が銀行に勤務しておられた頃の働き方を回顧しておられたので、私もW社ジャパンのリタイヤーするまでの約5年間ほどを回顧してみよう。5年と切ったのは、1988年4月にここ新宿区に移転してきたのは、それまでの藤沢に住んでいたのでは通勤時間の長さが仕事に支障を来すようになったという背景がある。

何度も述べてきたことだが、アメリカの会社での働き方は我が国の会社における状況と余りにも違いすぎているのだ。我々即戦力として中途採用された者たちはそれぞれが独自の job description(任務) を与えられているので、仕事の内容は同じ部内の誰とも重複することなどあり得ず、各人がその与えられた課題を如何にしてこなしいていくかを考えているのだ。即ち、その時々の仕事に内容から判断して朝は7時に出てくることもあれば、定時で帰ってしまうこともあり得るのである。

従って、我が国のような「遅刻」だの「早退」という考え方は存在しないのだ。何時に出勤して何時に帰るかなどは全て各人の都合というか裁量に任されているのだ。東京でも本部でも出勤簿のようなものを見た記憶はなかった。要するに、極端に言えば「自分で決めた時間の枠内で最善の結果さえ出せれば、何処からも批判されないし、上司から何か言われることはない世界」なのである。

私が在籍していた頃は未だマネージャーたちにPCが与えられている訳ではなく、報告書は各人が手書きで原稿を作ってそれを秘書さんにタイプして貰ってから夕方に全員の分を纏めてファックスする方式だった。重要な書類の本部への送付は所謂 courier serviceに依存していたが、それでも時差もあって翌日には本部に到着していた。

私の最後の5年間であるが、この頃は有り難いことに極端に多忙で1年のうち3ヶ月はアメリカの本社、工場、関係先に出張していた。更に3~4ヶ月は本部から出張してくる副社長兼事業部長、技術サービスマネージャー等々の人たちと、それこそ日本全国を飛び回っていたというのが偽らざる実態。ということは、私が東京の事務所に出勤していたのも矢張り3~4ヶ月程度というか年間の3分の1にも満たないくらいだった。故に通勤定期など買ってもほとんど使う時がなかったので、事務所に出る時はその都度切符を買って丁度良いくらいだった。

これを働き方というかどうか知らないが、私は東京にいる限り朝は遅くとも7時45分までには出勤して本部の副社長と電話で報告と打ち合わせをするようにしていた。W社の電話網(システム)は非常に機能的に出来ており、副社長の車に付いている電話機もそのシステムに組み込まれているので、彼が何処にいても転送が可能だし、彼の外出先からも四六時中電話がかかって来る仕掛けになっていた。勿論、土・日を問わず電話はかかった来ていた。

アメリカの会社で仕事をするということは「必ず何らかの証拠を残しておくことが肝腎である」ので、その日の行動、何処の会社の誰に何処で会って何を話し合ったかまたは折衝したかは必ず報告書にして本部に送っておく必要があるのだ。いや、必要ではなく must なのである。その為に私はレポート魔と化して、最高1日に15本のレポートを送ったことがあった。即ち、自分がしたことを証拠を残しておくことが仕事の重要な部分になっているのだ。

その際には関連する本部や工場の者たちにおCcを入れるが、あの世界の決め事では「自分宛にCcが入っていた報告書を読んでいなかった」というのは許されないのである。ということは、副社長兼事業本部長には毎日膨大な数のオリジナルとコピーが来てしまうので、彼(乃至は彼女)の下には部員の何人かを取りまとめて一つのグループにしてその責任者に任じられた者が、副社長兼事業本部長に上げるか否かを判断している。

即ち、副社長兼事業本部長に直接に報告書を出せる地位に辿り着くのは容易ではないと言うこと。実は自慢話めくので恐縮だが、私は日本市場の重大性もあってその直接に提出できる立場にあった。英語ではその地位を direct report と呼んでいるようだ。

ここまでをあらためて纏めてみれば、各人に与えられた課題をこなしていく為には何時何処に出張するとか、何処の得意先と何時何処で会うとか、当日は何時に出勤して何時に帰るか等には上司は一切干渉はしないとと思っていて良いだろう。私はそれは即戦力として雇用したのである以上、細かいことまで干渉する必要などないということだと考えていた。換言すれば「そこまで任されている以上任務を達成できなければ、それこそトランプ様流の You are fired, が待っている世界だ」ということ。