もう15年以上、新聞を購読していない。
ほとんど読むこともない。
特に、インターネットが普及してからは、完全に遠い存在になった。
新聞をなぜ、読まなくなったのか。
それは、新聞に「署名記事」が少なかったからだ。
記事を書いた人間の名前を書かないという行為は、私には責任回避に思えた。
たとえば、試験のとき、名前を書かなかったら、その答案は間違いなく零点の判断を下される。
たとえば、卒業論文、見積書、その他公的な文書など、名前がなければ、誰も相手にしてくれない。
それなのに、新聞はなぜ名前を伏せて、記事を書くのか。
そのことが納得できなくて、私は新聞に対して、懐疑的な心を持つようになった。
偉そうなことを言っても、無署名かよ。
あの胡散臭くて、他人の悪口やゴシップばかり書いている週刊誌でさえ、記事には署名が入っている。
つまり、たとえいかがわしいものだとしても、自分の書くものに、責任を持っているということだ。
それに、人が文章を書く場合、「私が」とか「筆者が」という書き方をするが、昔の新聞は「記者が」という書き方が多かった。
「私が」と「筆者が」は個人を現すが、「記者が」となると、曖昧になって「個」が消える。
私には、そこも気に食わなかったのである。
自分の記事に責任をもてないやつの書くことなんか、信じられるわけがない。
しかし、それは私が新聞を読んでいた15年以上前の話である。
私は新聞を読まないので、今の新聞が、どれほど変化したか、まったく知らない。
だから、私の書いたことは、言いがかりだ、ということもある。
ただ、いずれにしても、今の私には新聞は必要ないものであることに変わりはないが。
ほとんど読むこともない。
特に、インターネットが普及してからは、完全に遠い存在になった。
新聞をなぜ、読まなくなったのか。
それは、新聞に「署名記事」が少なかったからだ。
記事を書いた人間の名前を書かないという行為は、私には責任回避に思えた。
たとえば、試験のとき、名前を書かなかったら、その答案は間違いなく零点の判断を下される。
たとえば、卒業論文、見積書、その他公的な文書など、名前がなければ、誰も相手にしてくれない。
それなのに、新聞はなぜ名前を伏せて、記事を書くのか。
そのことが納得できなくて、私は新聞に対して、懐疑的な心を持つようになった。
偉そうなことを言っても、無署名かよ。
あの胡散臭くて、他人の悪口やゴシップばかり書いている週刊誌でさえ、記事には署名が入っている。
つまり、たとえいかがわしいものだとしても、自分の書くものに、責任を持っているということだ。
それに、人が文章を書く場合、「私が」とか「筆者が」という書き方をするが、昔の新聞は「記者が」という書き方が多かった。
「私が」と「筆者が」は個人を現すが、「記者が」となると、曖昧になって「個」が消える。
私には、そこも気に食わなかったのである。
自分の記事に責任をもてないやつの書くことなんか、信じられるわけがない。
しかし、それは私が新聞を読んでいた15年以上前の話である。
私は新聞を読まないので、今の新聞が、どれほど変化したか、まったく知らない。
だから、私の書いたことは、言いがかりだ、ということもある。
ただ、いずれにしても、今の私には新聞は必要ないものであることに変わりはないが。