映像作品『朝鮮通信使』は、2007年、徳川家康駿府入府400年を記念し、静岡市の『大御所四百年祭』事業の一環で製作された作品です。ちょうど、家康が招聘した朝鮮通信使の第1回使節団の来日400周年と重なることから、市内公立学校の歴史教材、あるいは公民館の生涯学習教材として、家康と朝鮮通信使の功績を伝える映像作品を作ることになりました。
当初、学校の授業で使えるよう、長くてもせいぜい50分、テレビ放映される場合も想定して民放1時間枠に収まる45分程度でまとめるよう指示されました。
静岡では2002年のサッカーW杯日韓大会の年に、朝鮮通信使関連の文化事業や国際交流事業が各地で開催されました。この前後、県内各地の郷土博物館・史料館の研究員が、地元に残る朝鮮通信使ゆかりの史料を、相当数まとめておいてくれたおかげで、今回、私たちも短時間に脚本を書き上げることができました。とはいえ、朝鮮通信使の研究は、全国的にも発展途上のジャンルで、私たちの2ヶ月足らずの取材期間中も、〇〇家の箪笥の奥から、通信使に献上した品の書置きが見つかったとか、あの本に書かれてあることは裏が取れていないらしいとか、情報が行ったり来たりしていました。
公的な博物館や美術館の正規の所蔵品ならまだしも、やっとホンモノの在り処がわかった絵巻物が、実は持ち主が素性を知られたくないから撮影不可とか、写真なら貸すが所蔵者名を出さないでくれとか、骨董業者が仲介に入っていたりとか、すごーくディープな世界らしいこともわかりました。
「古美術の世界では、朝鮮通信使関連のモノは高値が付くらしいので、狙われないように、所有を内緒にする収集家が多い」「うちの博物館でも朝鮮通信使の展示会を企画し、個人所有者に出展依頼をするとき大変な苦労をした」という声もあちこちで聞きました。博物館に個人所有者の連絡先を訊いても「うちからは教えられないんです…」と断られ、そこを何とか…と粘ると、「〇〇市〇〇区の〇〇さん(苗字だけ)、としか言えません。後は自分で調べてください」と、まあ、こんな具合。
アタマに来たことも何度もあります。黒子の市民エキストラが手に持った人物絵の元は『駿州行列図』という屏風絵。富士山や清見寺らしき景色の前を通信使一行が通り、街道沿いの民衆が表情豊かに描かれた、この作品にはうってつけの史料でした。ところ所有者は兵庫県尼崎市の個人。仲介に入った尼崎市教育委員会からは「公的施設での無料上映会ならいいが、有料上映会やテレビ放映は絶対不可。DVDも有料販売は不可」と一方的な通知です。作品はおかげさまで好評で、全国各地から「上映・発売しないのか」と問い合わせをもらいましたが、この行列図のせいで、多くの上映や頒布の機会を失う結果になりました。
某国立大学所有の、対馬が偽造した家康の国書の撮影許可が下りなかったことも悔やまれます。この作品の大きなポイントになる第一級史料で、本や美術書には掲載されているのですが「映像は加工される可能性があるからダメ」と言われ、電話では埒があかないと思い、私は直接、静岡市長名の依頼書を持って大学の窓口に行きましたが、相手にされません。ところが後に、NHKで放送された朝鮮通信使の特集番組では、しっかり映っているではありませんか。このときはさすがに静岡全市民をないがしろにされたような屈辱感を覚えました。
監督や他のスタッフが、林隆三さんと市民エキストラが登場するイメージシーンの撮影準備に追われる中、私は一人、権威をふりかざす公的機関や有名寺院のお偉いさんから、得体の知れない骨董屋の主まで、さまざまな相手と史料の撮影交渉をしました。もともと気の小さい性格の私には、胃に穴があくような毎日でした。
通信使は1607年から1811年までの約200年間で12回、来日しています。しかも対馬から日光まで全国各地に史蹟や史料が残っています。それを45分でまとめようというのです(結果的には70分になってしまいました)。静岡で作る作品ですから、静岡県内に残る史料を中心に、郷土史巡りのような内容にしてもよかったのですが、朝鮮通信使の存在自体、よく知られていないし、家康が通信使を招聘するまでの前段階をしっかり描かなければ、家康の真の功績も伝え切れません。そして通信使の重要な史料は全国にちらばっています。
藤枝宿本陣屋敷の一部を移築した藤枝市与左衛門の原田家所有『朝鮮使節進献の鷹の処置につき書状』(写真)は、家人が蔵の中から偶然見つけ、あやうく焚き木にしてしまうところだったという史料です。1年前のちょうど今頃、藤枝市郷土博物館から「新しい史料が見つかったらしい」と聞いて、助監督の村岡麻世さんと原田家を訪ね、ご夫妻に藤枝の郷土史を含めていろいろなお話を聞くことができました。
島田市金谷でも、個人が所有する『朝鮮人来朝大井川河越人足役高帳』という古文書を、やっとのことで見つけ、夜遅い時間にお宅へお邪魔したにもかかわらず、快く撮影に応じてもらいました。通信使一行が大井川を渡るとき、周辺の村々から人足5506人が借り出されたという記録です。
この2つは、史料としての価値がどれほどのものか、わかりませんが、地元の民家にさりげなく、国賓だった朝鮮通信使の史料が残っていたという事実は、通信使と民衆の身近で深いかかわりを如実に物語っています。しかし、この2つは編集の段階でカットされてしまいました。苦労して撮影許可を取り、実際に撮影したにもかかわらず、カットされたシーンは他にもたくさんありました。
この手の作品を、2時間も3時間もダラダラと長くはできないし、骨董市場で価値がありそうな一級史料を優先しなければならない事情も解ります。
ただ、脚本家兼交渉人としては、再編集して静岡版だけでも作ることができたらどんなにやりがいがあるか、と思います。通信使の史料は、これから先も、ちょっと古そうなお宅なら、蔵か箪笥の中からひょこっと出てくるかもしれません。